わたし、妻3年生

あべせい

わたし、妻3年生



「あなた、みつぐが……」

「どうしたッ!」

 わたしは、2歳になる娘のみつぐが、急にガタガタと震えだしたのを見て夫を呼んだ。

 仕事から帰ったばかりの夫の要次(ようじ)は、2階から駆け下りてきた。

 しかし、夫が1階6畳の居間に入ったとき、みつぐはケロリとして、テレビを見ながら笑っている。

「あなた、いま、みつぐがおかしかったの。でも、治ったみたい……」

 わたしは娘の体調の変化に振り回されている。

 わたしも夫も初めての子育てなのだから当然だろうが、戸惑いが怒りに変わることがあり、後悔することがしばしばだ。

「テレビで怖いものでも観たのだろう」

 夫は安心したのか、そう言って着替えをしに2階に戻った。

 3DKの小さな建売住宅に親子3人が住んで半年になる。その前は隣県の小さなアパートの2DKにいた。

 これを幸せというのだろうか。

 わたしは夫と同じ職場に勤務していて、退職直前に告白され、交際を始めた。

 いま振り返ってみて、夫が本当に好きだったのか。

 当時、わたしには、あこがれのひとがいた。

「ほォ、きょうはハンバーグか」

 夫が2階から降りてきて、1階居間の和室にある食卓の前に座った。

 わたしの回想は中断した。

 我が家の夕食は、よほどのことがない限り、夫の帰宅を待って始める。

 夫は役所勤めだから、帰宅は毎日ほぼ6時半。わたしは変化のないお役所仕事がつまらなくなり、退職を決意したのだが、気が付けば、いまその変化のない専業主婦に収まっている。

 ただ、みつぐの育児におおわらわしているから、変化のない日々どころか、毎日七転八倒しているのが現状といえる。

 結婚して3年。わたしも夫も同い年で、三十路まで数年ある。しかし、このまま、こどもの成長とともに、ただ年を重ねていくのだろうか。それを幸せと思うべきなのだろうか。

 わたしのあこがれのひと……、

「佐久良(さくら)、きょうは平穏無事だったか?」

「エッ!? えェ、平穏……」

 こんなことを聞かれたのは初めてだ。

「おいちい、です」

 みつぐがグーで握ったフォークでハンバーグを突き刺しながら言った。

「そォ、よかった。ゆっくり食べるのよ」

 わたしは、そう言いながら、夫を見る。

 まず、おいしいと言うのが料理をいただく者のセリフだろうッ。わたしは、いつもひっかかっている感情がこみあげてきて、腹が立つ。

 しかし、夫は無関心に好物のハンバーグを貪り食っている。

 わたしはこんな男と結婚したのか。嫌いではなかったが、決して選び抜いた相手ではない。

 あのひとも、夫と同じ同僚だったけれど、すでに妻子がいた……。

「平穏無事か。それがいちばんだな。おれは……」

「何か、あったの?」

 夫の職場のようすはわかっているつもりだが、離れて3年になるから、知らないことも多いはず。それに、そろそろ異動の時期だし……。

「いや、何もないよ」

「でも、ご機嫌じゃない」

 何か、あったのだ。半年つきあっている間、夫は2人で歩いているとき、見た目の派手な女性が脇を通り過ぎると、必ず目を向けていた。悪い癖なのだろう、と思っていたが、見るだけじゃ満足できなくなったのかも知れない。

「機嫌は悪くないが……」

 夫は急に押し黙り、食べることに集中する。

「新人さんたちとはうまくいっているの?」

 4月に入所した新卒のうち3名が、夫のいる福祉課に配属されたと聞いている。3名のうち2人が女性だ。

「いや、まだ慣れなくて、ミスが多いよ」

「主任さんとしては、手がかかる、ってところなのね」

「まァ、そうだ」

 夫は昨年主任になった。給与もほんの少しふえた。夫の上には係長、課長がいる。係長には間違いなく昇進できるだろうが、課長クラスは学歴がものをいうから、二流私大出の夫には厳しい。

 ただ、夫は出世には関心がない。交際しているとき、出世するより、自分の時間を大切にしたいと言っていた。わたしは、その一点に好感をもった。

 ただ、結婚して思うのは、出世に関心はなくてもいいが、出世に見放されている無能は困る……。

「パパ、パパ」

 みつぐが笑いながら、テレビを指差している。

 食卓は和室の座卓を代用していて、部屋の奥まった角にテレビがあり、みつぐが正面に見える位置に座っている。

 わたしは夫と向き合っていて、テレビを見るには右斜め後ろに振り向かなければならない。夫はみつぐと同様、顔をあげればテレビが見える。

 この位置を決めたのは夫。出入り口から見れば、わたしは最も奥にいるから、上座になるのだろうけれど、わたしも顔を上げればテレビが見える位置のほうがいい。

 テレビを見ると、お笑い芸人が裸で動き回っている。

 わたしは、裸で笑いをとろうとする芸人は好きになれない。下ネタを連発する芸人同様、テレビから消えて欲しいと思っている。しかし、夫は違う。

「この寒いのによくやるよな。おれには出来ない。絶対に……」

 わたしは、みつぐのしつけ上、ここはきっぱり言うべきだと考え、

「寒いより、恥ずかしい、でしょッ」

 すると、夫は、目を丸くして、

「そうかなァ。金をとるンだから、恥ずかしいのは二の次だろう」

 お金のためなら、恥ずかしいこともやってのける。わたしには理解できない。夫はいつからこんな男になったのか。もともと、こういう男だったのか。わたしが知らなかっただけなのか。

 これ以上この議論をすればケンカになる。みつぐによくない。

「明日はどうするの?」

 明日は土曜。役所は休みだ。

「悪い。急に雑用が入って、出かける」

「日曜は動物園にみつぐを連れていく約束よ。覚えている?」

「ああ、ここに、インプットしてあるよ」

 夫はこめかみを指差して言った。

 すると、みつぐが、

「インプト、インプト」

 と言いながら、自分の頭を小突いて笑った。

 最近はいろんなことばをすぐに覚えてしまう。気をつけなくては……。


 翌日。

 夫は昼前に出かけた。スーツではなくて、ブルーのズボンに、アイボリーのブレザー。ふだん出かけるときのラフな服装だ。

 わたしがそれを指摘すると、

「倉庫の整理だから、このほうがいいンだ」

 と、言った。

 福祉課が倉庫整理? 妙な気がしたが、わたしが辞めてから、事情が変わったのだろうか。

 わたしは夫が出かけたあと、みつぐを積み木で遊ばせ、一日家事に追われた。翌日、動物園に出かけるため、その分の家事をしておかなければならない。主婦の外出はそれなりに準備がたいへんなのだ。夫にはわからないだろうが。

 その夜、夫は珍しくわたしを求めてきた。1ヵ月ぶりだったが、わたしは拒否した。

 一日家事労働で疲れていたうえ、入浴していなかったから、体が汗臭い。わたしは汗で汚れた体を触られるのはごめんだ。

 夫は不満らしかったが、わたしは夫に我慢を強いることより、どうして求めてきたのか、そのことのほうが気になった。

 わたしの夫が欲望に駆られる夜には、共通点があった。昼間、極度に緊張することがあったか、思い通りにいかなかったか。きょうはどちらなのだろうか。

 わたしは、ふとんを頭からかぶりながら、そんなことを考えているうちに眠りに落ちた。


「おサルさん、ばっちい、ばっちい」

 みつぐは、ニホンザルのオリの前で夫に肩車をしてもらいながら、両手をたたいて喜んでいる。

 サルが仲間のサルのお尻を触った手を鼻にかざして、臭いをかぐしぐさをしたのだ。みつぐにはおもしろいのだろうが、わたしも夫も興味はない。

 わたしはニホンザルよりゴリラに引かれた。

 気むずかしい顔をしてしゃがみ、ゆっくり左右を見ている。哲学者のような風貌と見えなくもない。

 彼は、我々観客をどう見ているのだろうか。そして、自らの境遇をどうとらえているのだろう。

 お昼に3人でベンチに腰掛け、デパートで買った弁当を食べているとき、夫に聞いてみた。

「あなた、ゴリラの頭脳って、人間並みなの?」

「エッ……ゴリラか。ゴリラはひとほどじゃないけれど、霊長類のなかではひとについで大きな脳を持っていると聞いたことがある」

 ヘェーッ。わたしは夫の意外な一面をみた気がした。

「ただ、野生のゴリラはその頭脳をどう使っているかについては、まだよくわかっていない……ちょっと待って」

 夫はベンチから立ち上がると小走りに鳥類の檻のほうに行った。そして、スマホを取り出し耳にあてている。

 着信音はしなかった。マナーモードにしているのだろうが、わたしのそばじゃダメな電話のようだ。

「パパ、パパ、ダメ、ダメ」

 みつぐがそう言い、いきなりベンチをドンドンと叩いた。

「みつぐ、どうしたの。パパはお仕事……」

 と言って夫のほうを見ると、いないッ。さっきまでいたのに……。

「パパ、どこに行ったのかしら」

「パパ、あそこ」

 みつぐが指差すほうを見ると、夫の背中が小さく見える。

 わたしはその瞬間、ガツンッと頭を殴られたような衝撃を受けた。

 夫に寄り添うように、女性の姿が見えたからだ。家族の団欒がもろくも崩れた。


 わたしのだんまりが続いている。

 明日で1週間になる。もっとも、娘に対しては、ふだん通りにしているつもりだが、いくらか違うのだろう。

 みつぐも話す前、わたしの顔色をうかがうようなしぐさをする。

 これはこどものしつけによくない。そうは思うが、夫の行為は許したくない。

 夫は、職場の同僚とたまたま居合わせたので少し話をした、と言い訳した。

 どんな話をしたのか、知れたものではない。話なら電話でできる。その前にスマホにかかってきているではないか。

 しかし、夫はスマホにかかったのは、別の友人からだという。

 前日の倉庫整理も怪しい。わたしがそこを責めると、課長の指示だ、給与明細に休日出勤手当てが付くから、確かめればいい、と答えた。

 しかし、かわいい同僚と一緒だから嫌な倉庫整理を買って出たのかもしれない。

 娘の前でケンカはしたくない。したくないから、

「あとで話しましょ」

 と言い、その話題には触れずにその日は外で夕食を食べ、買い物をして帰宅した。

 あれはただの関係ではない。手こそつないでいなかったが、夫と女性は肩を並べ、動物園の出入り口のほうにゆっくりした足取りで進んだ。2人の間は、20センチもなかっただろう。

 女性だけが出口に行ったが、そのとき彼女は夫を振り返り、力いっぱいの笑顔を見せた。

 その顔は若くて、美形だった。わたしより、5つは若く見えた。

 夫は職場でもてるのだろうか。

 わたしの記憶では、ノーだ。清潔感はあるが、おとなしそうに見えるだけの平凡なマスク。わたしたち女性の間で、話題になったことは一度もなかった。

 いまは主任になって、少しは変わったのだろうか。

 結婚は好きなひととするべきだ。夫のことは嫌いではなかったが、好きで好きでたまらないという時間は、交際しているとき一瞬たりともなかった。

 けれど、夫に愛人らしき女性の存在を知って、わたしはいま嫉妬を覚えている。これはどうしたことか。プライドを傷つけられたということなのか。

「パパ、パパッ!」

 みつぐが道路に面した窓のほうを見て叫ぶ。窓にはカーテンが引いてあり、外は見えない。

 足音でわかるらしい。わたしにはマネができないが、みつぐは、夫の動きや感情に、過剰に反応するようだ。この前の夕、夫が帰宅した直後、ガタガタと震えたのも、何かを感じ取ったのだろう。

 わたしは立ち上がり、玄関ドアのロックを外す。ふだん夫は自分で外からカギを使って開けるが、きょうのわたしはなぜか、サービスしてしまった。

「アッ」

 夫の小さな反応があって、静かにドアが開く。

「ただいま」

「おかえり」

 と、わたし。

 夫婦、ってなんだろう。

 夫は途端に笑顔になり、手を洗い、うがいをして、慌ただしく着替えをすますと居間に入り、食卓の前に座った。

 また、ふだんの日常に戻るような気がしている。

「うまそうだな。みつぐ、たくさん食べるンだぞ」

 夫は学習したようだ。家庭は壊したくないのだろう。

 食卓には、わたしの好物のイカ刺し、夫の好きなオムライス、みつぐの好きな卵焼き、あとはほうれん草のおしたしに、肉ジャガが並ぶ。

 いつも買い物は親子3人でスーパーまで行き、1週間分を買い込む。しかし、きょうはみつぐと2人で1週間ぶりにスーパーに行き、生もの中心に買った。2、3日分しか買えなかったが、気分は晴れた。

「きょうはなにがあったの?」

「エッ」

 テレビを見ていた夫の目が驚いたようにわたしに来る。そして、戸惑ったような笑顔をつくり、

「きょうはたいへんだった。課長の機嫌が最悪で、そのうえ窓口に保護申請にきた老人が乱暴な言い方をして、ひと悶着あった……」

 わたしは夫を許したのだろうか。夫の言い訳を信じたのだろうか。

 もうどうでもよくなって、口を開いたのだろうか。ただ、みつぐの手前、いつまでも黙っているのはよくないと、今朝になって考えた。

 それは、みつぐが、わたしを見て、

「ママ、おこってるの?」

 と言ったことが大きい。

 わたしは、否定するのは嫌いなので、

「パパに。ちょっとだけね」

 と、小指を親指で弾くようにして言った。

 みつぐは夫から聞いたのだろう。「ママは怒っている」と。夫がそのとき、「パパが悪いから仕方ない」くらいのことを言い添えてくれたのならいいのだが……。

「それで、新人さんは?」

「あッ、あァ、あいつ、また失敗して係長にどやされたよ」

 どうだか。

 夫が新人の若い女性になびいて、いろいろアドバイスするうちに妙な気持になったのは確かだ。彼女は夫の家庭に関心が起きて、日曜日の家族サービスを見学してみたのだろう。

 で、がっかりした。結婚って、そんなものなの? と、しらけ気分で帰って行った、かも。

「だったら、一度なぐさめてあげたら?」

「ゲェッ、冗談いうなよ」

 冗談に決まっているでしょッ! なにうれしそうな顔しているのッ!

「パパ、ジョウダン、ジョウダン」

 みつぐはことばの意味がわからなくても、響きがおもしろいとまねをしたがる。

「みつぐ、こういうときはね。ジョウダンジャ、ナイ、って言うのよ」

「ジョウ、ダンジャ、ナ、イ、ナイナイ」

 みつぐの吸収は速い。怖いくらいだ。

 小一時間で夕食が終わり、食器を重ね和室からキッチンに運ぶ。すると、夫が、わたしが運びきれなかった食器を持って、あとからついてくる。

 信じられない。これまでなかったことだ。夫の学習も速い。

 夫が食卓に戻ったところで、わたしはキッチンの冷蔵庫を開ける。

 それを取り出して、食卓に持っていく。

「ママ、ケーキ、ケーキ! おいちい、おいちい」

 みつぐが両手をたたいて喜ぶ。

 夫は一瞬、戸惑ったが、すぐに態勢を立て直し、

「みつぐ、3つになったンだな。そうか、パパ、うれしいぞ」

 20センチほどの小さなホールケーキだが、お店で添えてもらったろうそくを3本立て、夫がライターで火をつける。

「みつぐ、フーフーして消すンだ」

 夫が口で吹き消すしぐさをして、みつぐを促す。

 せっかく点けた火をどうして消すのだろう。わたしはふと、疑問に思った。

 みつぐは懸命に口から息を吐きだし、ろうそくの炎を攻撃する。5度目に吐いた息で、ようやくすべて消すことができた。

「パチパチパチ」

 夫がそう言いみつぐに教えている。こういうときは、手を叩くのだ、と。

 娘のしつけをめぐり、夫と衝突することは珍しくない。これも近い将来、その火種になりそうだ。

 墓参のとき線香の火は消して帰るが、ケーキに立てたロウソクの火は、燃え尽きるまでそのままのほうがよくはないか。

 ロウソクの薄明かりでケーキを食べる。ロマンチックでは……わたしがそんなたわいもないことを考えていると、

 夫がケーキを切り分けながら、

「佐久良、明日、出かけよう。みつぐに誕生日プレゼントを買って、夜は焼肉を食べよう」

 と、言う。

 もう、わたしのご機嫌を取り結んだつもりのようだ。

 わたしは、まだ迷っている。こんな形で、夫の浮気癖を放置しておいて、よいのか。

 妻としての、みつぐの母としての、務めは果たしたことになるのか。それとも、夫婦とは元々この程度のものなのか。

 けれど、わたしは、

「みつぐ、よかったわね。明日、お出かけよ。おいしいもの、いっぱい食べようね」

 みつぐの顔を見ながら、うれしそうに言った。

 わたしの本当の気持ちはどこにあるのだろう。思いがけないことばが口から出ることはだれにもあるだろうが、わたしはいま考えていることと明らかに違うことを、しゃべっている。

 夫が立ち上がり、居間を出て行った。が、すぐに戻ってきて、

「みつぐ、ケーキを食べたら、一緒にお風呂に入ろう。いま沸かしてきたからな」

 夫はそう言って、わたしの顔を見る。わたしもつられたように夫を見た。

 夫は何か言いたげだ。わたしは無理やり表情を隠した。

 今夜、夫は……。でも、わたしは拒否したい。したいけれど、いざそのときになったら、わたしは……。わからない。

 すると、みつぐが、

「パパ、ヘン、パパ、ヘンヘン」

 手をパチパチさせて言った。

「そうか。パパ、変か。でも、おまえのことは大好きだぞ」 

 夫は、そう言ってみつぐの顔を引き寄せ、そのほっぺにチュッとキスした。

 わたしは夫よりみつぐが大切だ。こんなことは前々から感じていたことだが、夫がいなくてもわたしは生きていける。でも、みつぐがいないと生きていけない。絶対に、だ。

 それなのに、わたしはいま、お風呂に入ったら……と余計なことを考えている。こういうわたし、ってなんなンだろう。

 わたしは妻になって3年。妻3年生はこんなものなのだろうか。

 この先、もっともっとたいへんなことがあるのに。結婚生活に不安と不満をいっぱい抱えている。

                    (了)

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わたし、妻3年生 あべせい @abesei

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