嘘
次の日の晩御飯の後、真夜は珍しく話があるからと言って、コハクの皿洗いを手伝った。
結局、いつもより少し時間がかかって、家事が終わった後、コハクは訝しげに、お茶を入れて席についた。
「話ってなんですか?」
「そろそろこの街を出ようと思うの」
コハクは真夜の表情に一瞬、目を開いた後、なんでもないように笑ってそうですか、と返した。
「久しぶりの引っ越しですね。僕、海の見える街に行きたいです。」
わざと鈍いふりをするコハクに、真夜は、落書きの線を一筋なぞった後、大きく息を吸ってから言葉を紡いだ。
「コハクとは一緒にはいかない。」
コハクの表情がピシリと音を立てて固まった。
「……なんでですか?」
「あんたはもう一人で生きていける立派な大人よ、次の街じゃ親戚の子っていうのも無理があるわ。」
「じゃあ、弟子でいいじゃないですか」
コハクが食い下がるが、真夜は切り捨てる。
「若い女の弟子なんて魔法使いの弟子って言ってるもんよ。それなら、私が遠縁の紹介で嫁に行くとでもなんとでも行って出てく方が自然よ」
「じゃあ夫婦…」
「馬鹿、それになるつもりが無いから言ってんの」
取り付く島のない真夜の態度に、コハクも黙り、二人の間に無言の空気が流れる。
再び会話を始めたのは真夜だった。
「ここの街はいい街よ、よそ者がこんなに馴染める場所はなかなかないわ」
前の街が悪いわけじゃないが、この街の居心地の良さは、少し特別だった。
「わかるでしょ?」と首を傾げれば、コハクも不服そうに小さく頷いた。
「でも、きっと一度出たら、もう同じように扱ってはくれないんでしょうね。」
本来は余所者に厳しい国だ。
コハクと真夜が何年もかけて、街に馴染もうと努力して築いた関係値は、もしも一度外に出れば、コハクが人間のまま戻ってきたとしても、元には戻らない。
住むことを許されても、真夜のように『いつか出て行くかもしれない流れ者』として薄い線を一筋引いて扱われるだろう。それは、魔法使いとしての生き方と大きく変わらない、と真夜は思った。
「だから、ここに残るべきだと思うわ」
真夜は真っ直ぐコハクを見た、コハクはそれを俯いたまま聞いた後、スッと立ち上がった。
「俺は、あなたなしじゃ生きてけない。」
真夜は、向かいから隣に移動し、真夜の手を取ってしゃがんだ。
下からじっと見上げるコハクに、一瞬言葉に詰まった。だが、真夜は直ぐにかぶりを振る。
「そんなの嘘よ。私がいない間も立派に薬屋を続けられたじゃない。」
「帰ってくるって思ってたから耐えれただけです。」
真っ直ぐ見つめて返すコハクに、今度は真夜が目を逸らしてしまう。
彼の少し手が震えているのが、真夜の手にも伝わったが、何も答えられなかった。
黙ったままの真夜に、コハクは弱りきった目で問いかけた。
「真夜さん、僕のこと嫌いですか?」
魔法使いにまだなれていない。
その事実が心の奥に引っかかっているコハクにとって、真夜の揺れる瞳が、どちらの意味なのか、分からなかった。だから彼女の言葉を待った。
真夜は瞳を揺らしながら、逡巡したあと、俯いた顔のまま、こくりと頷いた。
「口煩い弟子は…要らない」
その言葉を噛み締めた後、コハクはぼりぼりと頭をかいて、少し腰を空かせて真夜に近づいた。
「そっか、それじゃあ仕方ないですね」
そのまま、そっと真夜の腰を引き寄せ、反対の手で耳の辺りを包むように頭を押さえる。
息がかかるくらい顔を近づけたコハクは、小さく息を吸って、真夜にお願いをした。
「じゃあ、僕も真夜さんのこと嫌いになれるように、魔法かけてください」
その言葉に真夜が答える前に、真夜が出そうとする言葉も飲み込むように唇が重ねられた。
少し前にされたキスとは全然変わっていた。
丁寧に隈なく探り、真夜の心地いい場所だけを繰り返りなぞられ、応えるつもりがないのに、いちいち勝手に反応してしまう。
「ねえ、コハク…まっ…」
「待たない。」
少し離れた瞬間に口を開いたが、抗議も息も十分にできないまま、すぐに塞がれる。
頭と腰に添えられた手も、キスと同じように壊れ物を扱うように優しいのに、その動きは優しいだけじゃない。
こんな、コハク知らない。
分からない。
どうして…
……怖い。
ぎゅっと硬く目を瞑ると、コハクの動きが止まった。
「真夜さん?」
少し離れて、様子を確かめたコハクは、真夜の震える手を見て、温めるように撫でた後、「そんなに嫌なら、頭突き、してくださいよ…」と呟いた。
コハクは真夜に顔が見えないように、立ち上がった後、壁にかけた外套を手に取って階段へと向かった。
「どこに行くの?」
「ちょうど土曜日ですし、明日の安息日が終わるころに帰ってきますね。」
「そんな、まだ話は終わって…」
それに、今の街は危ない…引き止めようと腰を浮かせた真夜を、コハクは冷たい声で止めた。
「だったら、続きしますか」
「な…っ」
答えにつまる真夜に、コハクは背を向いたまま、外套を羽織り、
「僕を捨てるなら、居ない間に出て行ってください」
と、それだけ言うと、階段を降りていってしまった。
「今までありがとうございました。」
耳のいい魔女でも微かにしか聞こえない声がした後、扉がやけに大きな音を立てて閉まった。
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