魔女の恋心はキスで隠す。

矢凪來果

time to say good-bye

魔女、子供を拾う

 今日は、いつもより潮風が柔らかい。


 魔女はお気に入りのパンを買った帰り道、心地よい風に吹かれながら、海辺の街を歩いていた。


 人よりも永い時間を生きている彼女は、涼しい海の街が大好きだった。

 人里離れた場所での生活に飽きると、思い出したように海の見える街に越してきては、夏が来るまで瞬きの様な短いバカンスを楽しむ。


「そろそろ風があたたかくなってきたのね」

 柔らかい潮風は心地いいけれど、苦手な夏がもうすぐきてしまう合図なのは悲しい。


 次はどこの街にいこうか、やっぱり森にしようか、お気に入りの場所を頭の中で並べながら、ひときわ白い壁の家の前を通りかかると、いつもと違う音が聞こえてきたので、彼女は思わず立ち止まった。

「あれ?」

 いつもは子供の笑い声と、魔女である彼女だけが聞こえる幸せそうな感情の音が良く聞こえるのに、今日はそれが無い。


 戸惑っていると、ちりりんと、聞き覚えのある鈴の音が近くで小さく鳴ったので、視線を少し落とせば、外壁の下の方に小さく丸まって落書きをしている男の子がいた。彼は、この街の人間が喪に服す時につける色を身に纏っていた。


「ぼうや、こんなところでどうしたの?」

 魔女に呼びかけられて、顔を上げた男の子は、少し首を傾げてこちらを不思議そうに見つめた。

「西街の端のおくすりやさん?」

 そう問う男の子は栗色の髪の毛と琥珀色の瞳をキラキラ太陽に反射している。

「そうよ」と魔女が答えながら、男の子の手元を見ると地面に人らしきものが二つ並んで描かれていた。

「…あなたの家族かしら?」

 魔女が質問すると、彼はこくんと頷いた。


「ぱぱとままだよ。死んじゃったんだ。」

「そう…」

 そういえば、この辺りで、通り魔があったと薬屋の客が噂していたな、と魔女は思い出した。

 確か、子供を親戚に預けて買い物に出かけていた夫婦だったか。


 魔女が黙っていると、男の子は二人と少し間を開けてもう一人書き足しながら話を続けた。

「おばさんは優しいけど、一人で二人も育てるのは大変だろっておじさん達がいうんだ。」

 棒人間の周りに、花のような飾りを描く男の子の腕は、少し震えていた。


「サラは僕の妹なんだよ」

 両親とおばさんの間に大小の子供を描きながら、男の子は説明をする。

 妹が大好きなのだろう。りんっと明るい音がしたが、書き上げると、その音は小さくなり、彼は小さな手を膝に置いて、絵を見つめながら呟いた。

「…ぼくは、売られちゃうんだって」

「誰から教わったのよそんな言葉」

 思わず頭を撫でると、頭の揺れに合わせてぽたぽたと地面に水玉ができた。

 男の子は何度も目を擦るが、大きな水玉は次から次へと目から零れては地面に落ちていく。

「嫌だ。パパと泣かないって約束したのに…」


「どうしよう…パン食べる?」

 子供の泣き止ませ方など知らない魔女は、持っていた紙袋から塩パンを取り出して、手のひらの上に乗せて男の子の目線に合わせる。男の子がパンに目を向けると、手のひらの上のパンはふるふると震えた後、子供が食べやすい大きさにひとりでに切り分けられた。


「すごい!パンが…魔法?」

「ひみつよ」

 はい、手のひらの一つを男の子に渡すと、口に入れた男の子の顔にたちまち笑顔が広がった。

「おいしい、、これも魔法?」

「そうね、ここのパン屋さんはきっとすごい魔法使いに決まってるわ。」


 美味しそうにパンを頬張る男の子の涙は、すっかり止まっていた。

「ほら、君は泣いてない。」

「まよさん、ありがとう」

「まじょ、ね」

 口の端についたパンクズをとりながら微笑む。

 魔女は心がじんわりと暖かかくなった気がした。

 しかし、うっかり使ってしまった今の魔法を、この子が誰かに話してしまったらまずい。名残惜しいが出発の準備は早めておこうと思いながら、男の子に合わせていた視線を上げて、立ち上がった。


「パン食べたらおうちに戻るのよ」と声だけかけて踵を返したが、歩き出した瞬間に、ぐいと何かに引かれて、つんのめってしまった。

 振り返ると、予想通り魔女の服の裾を掴んだ男の子の宝石のような目が、真っ直ぐ彼女を見つめていた。


 意志の強い視線と、綺麗な鈴の音が何も言わない男の子の気持ちを伝える。

「連れてけってこと?」

 男の子は黙って頷く。

 魔女は構いすぎたかと後悔しながら、家の方へと視線をやりながら断り文句を思案しようとした。

 すると、家の中からは、話し声、ささやき声、魔女にしか聞こえない音、どれもが人間らしい自分勝手な音が不協和音を奏でていて、耳がいい魔女は思わず顔をしかめた。


 不協和音の中で、悲痛な悲しみの音をだす「おばさん」が一人しか育てられないとすれば…たしかに、この子は出稼ぎか売り飛ばされるのかもしれない。

「せっかく綺麗な音をしてるのにね…」


 人間に深く関わるとろくなことがないのは、長い人生の中で思い知っていたが、この家の人たちの心の音が好きだった魔女は、特に綺麗なこの子の鈴のような音が聞けなくなることも、どこかの街で歪ませられてしまうことも惜しいと思っていた。

 そして、優柔不断な魔女は決めたくない事があると、いつもなるべく後回しにできる方を選ぶ癖があった。


 …ダメだと思ったら、ここのおじさんたちよりマシなどこかに預けてしまえばいいのよ。


 魔女はため息をついて、もう一度腰を落として、男の子に視線を合わせる。

「私が飽きるまでね。子育てなんてしたことないから面倒は見ないわよ」

「いいよ」

 魔女のぶっきらぼうな言葉にも、一切目を逸らさずに答える坊やの瞳は、やっぱり、いつか見た宝石みたいだな、と魔女は思った。


「みんなにバイバイしなくていい?」

 男の子は、その言葉に、歩き出した足を少し止めた。そして、一瞬門を振り返った後、「いい」と答えて再び歩き出した。

「でも、おばさんとサラには、後でお手紙出してもいい?」

「おじさんたちは?」

「おじさんたちはそんなに好きじゃ無いから大丈夫なんだけど」

「意外と素直でいい性格してるじゃない。」


 ーーー


 ある日、両親がなくなった家の長男が葬式の最中に突然行方不明になった。

 親戚はそこら中を探し回ったが、男の子は見つからなかった。

 数日後、叔母は涙ながらに、しかしきっぱりと「両親のショックで身投げしたに違いない」と語っていた。

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