田舎空で見上げた羊雲

 今日もダメだったな。時計の針は深夜2時を通過し、風音かざねが終電に乗り遅れていることを知らせていた。寝袋を取り出して床で眠る準備をする。一人、暗くてだだっ広いオフィスの暖房は切られていて、寝袋だけで寝るには少し寒かった。


「固い…」


 このまま床では眠れない。椅子を何個か並べて作った簡易的なベッドに、芋虫のようにのそのそと寝転がった。


 もう疲れたな。どこか遠くの場所に行きたい。田舎の地元が嫌だったのに、気がつけば懐かしみの心が体を満たしていた。自然と涙が出てくる。暖かい涙だった。


 朝、目が覚めると何か視線を感じた。他の社員たちがすでに出勤し始めてきていて、椅子の上で寝ていた様子を眺めていたのだ。ほとんどの社員が知らないふりをする中、一人の年を食った男が風音を見つめていた。


「とっくに始業しているぞ。なぜ寝ているんだ!」


 寝ぼけ眼のまま、時計を見ると7時50分。確かに、この部署における表記上での始業時間の10分前だった。


「なんだ、その反抗的な態度は!!」


 怒号が耳を通過した。どうやら、私は彼に対して嘲るような目線を向けていたらしい。なんとも衝動的に憤慨している様子が、さらに私の気力を奪った。なんだか、笑いが込み上げてきた。


 この間にも上司は風音に人格否定の怒号を浴びせ続ける。うんうん。この世にいらないのなら、どこに行ってもいいよね。私はカバンと上着を手に取って、何も言わずにオフィスの外へと向かった。


 他の部署の方々が次々と出社してくる。エレベーターの無いビルの4階までせっせと登っていく。それに対して私は降りていく。すれ違う人は皆、私の事を不思議そうに見つめる。気分が良かった。このままどこに向かうのか。そんなの、頭の中で鮮明に描かれていた。


「まずはお金を下ろさなくちゃ。あそこは電子カード使えないものね」


 何時間使ったのだろうか。べたついた髪のまま、私は電車に揺られて地元に帰ってきていた。駅前のコロッケ屋が、まだいい匂いを漂わせる。朝から何も食べていなかったことを思い出して、3つ買った。


「あっふ!」


 せっかく帰ってきたのに、すでに日は傾いていた。何分か歩いて近くの公園を目指した。寒いからだろうか、暗くなるのが早いからだろうか、公園に人はいない。


 ブランコが空いているな。このブランコで遊んでいたのも一体何年前だろうか。コロッケを頬張りながら、夕暮れに浮かぶ雲を眺める。何もない、本当に何もない地元の空を何度見上げたことか。


 嫌いだったはずのこの場所で、一つの感情の存在にやっと気がついた。何年もかかってようやく気がついた事実が、私の心を満たしていていく。


「この空好きだったんだ」


 戻ってきた地元の空、羊雲が跳ねている。手をかざすと、今すぐにでも届きそうな気がした。仕事はどうしようか。まぁ、なんとかなるはず。今はただこの空を泳いでいていたい。意識を空に完全に移せば、私も雲の…いや羊の群れの一匹。もこもこな想像は、風に揺れる私を包み込んで離さなかった。

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