記憶の中の「あの人」

Phantom Cat

1

「ねえ、覚えてる? 私たちが出会った時のこと……」


 それはもはや呟きに等しかった。涙をこらえて僕は応える。


「ああ、もちろんだよ。大学一年の、学祭だったな」


「ええ……あれからもう、三十年が経つのね……その間、ずっとあなたと一緒にいられて、私、幸せだった……」


 静まり返った病室の空気は、酸素マスク越しのかすかな彼女の声でも、十分僕の耳に伝えてくれる。


 眼を閉じてベッドに横たわる彼女の顔は土気色で、生気がほとんど感じられない。だけど、僕が握りしめている彼女の手は、暖かい。少なくとも、今は、まだ。


「……美由紀みゆき……」


 もう限界だった。とうとう僕の頬を、涙が伝う。


孝之たかゆきさん……これからも、私のこと、忘れないでね……ずっと、ずっと……覚えていてね……」


「当たり前だろ。僕はずっと、覚えてるから……」


「ありがとう……」


 それが妻の最後の言葉だった。薬で意識レベルを落とされた彼女は、そのまま目覚めることなく、二日後に旅立った。


---


 子供が二人とも独立して、また夫婦二人っきりの生活に戻った矢先のことだった。妻の美由紀にステージ4のガンが発覚した。それからはあっという間だった。いきなり妻に先立たれてしまった僕は、ショックから立ち直れずにいた。仕事も全く手につかない。


 結局僕は、会社を辞めることにした。定年まで後六年を残すところだったが、折しも不況で会社が早期退職者を募集しており、破格の退職金を払うというのだ。渡りに舟だった。

 退職したとしても、一人になった僕を気遣って長男夫婦が同居してくれることになったので、生活面での不自由は全くない。家のローンも既に完済している。


 美由紀のところに行きたい、という気持ちも、正直ないわけじゃない。だけど、子供たちに「それだけはやめてくれ」と釘を刺されてしまった。もちろん僕も、これ以上家族を悲しませるのは本意じゃない。


 それに。


 美由紀のことを一番覚えている人間は、彼女に三十年連れ添った僕であることは間違いないだろう。


 僕が死んでしまったら、僕の記憶の中の彼女も死んでしまうことになる。それは彼女自身も決して望んではいないはずだ。だって、彼女の遺言は「ずっと私のことを、覚えていて……」だったのだから。彼女のことを忘れないでいるのが、僕の責務だ。そのためには僕自身が生き続ける必要がある。


 だけど……


 もう一度美由紀に会いたい、と思う気持ちも、薄れるどころか日に日に強くなっているようだ。彼女が恋しい。もう一度この手で彼女を抱きしめたい。でもその願いが叶うことはない……


 ……本当にそうだろうか?


 いきなり僕の脳裏のテキストバッファに出現した、この疑問符が発端となり、思考が連鎖反応的に閃いていく。


 確かに美由紀は、僕の中では未だに存在している。それをこの世に召喚させることはできないだろうか?


 普通に考えたら、そんなことができるはずはない。


 しかし。


 僕は本来 AI のエンジニアだ。それっぽく語る有名人のボットを作ったことも何度かある。その技術の粋を尽くして「美由紀ボット」を作ったらどうだろう。そうすれば、少なくとも会話はできるようになる。


 もう一度、美由紀と話すことができる……それは、僕にとって何よりも魅力的なことだ。


 かくして、美由紀を電脳世界に蘇らせる「美由紀ボット」開発プロジェクトがスタートした。と言ってもプロジェクトメンバーは一名。僕、野口のぐち 孝之。以上。それでも十分だ。必ず美由紀を蘇らせる。僕は心に誓った。


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