クレームはご遠慮ください

須永 光

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「この曲聞くと、なーんか和みますよね」


 隣の島で恐ろしいほどの速さでタイピングしていた中村さんが、ふと手を止めて言った。

 適当に流している有線放送からは、聞き覚えのある曲が流れている。

 分かる、と笑って応じたのは彼女の斜め前に座る高橋さんである。僕と同じ島の渡辺くんは顔を上げ、曲に耳を傾けて、ああ、と頷いた。


「耳に残りますよね」

「ねー」高橋さんはストローをくわえ、紙パックの紅茶をすする。「ダンスを踊る子どもたちがかわいいよねえ」

 パートの山本さんがフローリングワイパーとシートを携えて入ってくる。リモートワークに移行してから、フロアの清掃は業者ではなく出勤した社員の仕事になっている。

「ああ、この曲。死ぬほど聞いたし死ぬほど踊らされた」

「お子さん、おいくつでしたっけ」僕の問いに、山本さんは片手を広げた。

「五歳。もう、エンドレスリピートだよ。一緒に踊って、お母さん歌って、って」

「私の姪っ子もです。魔性の歌ですよね」中村さんが苦笑いし、歌詞にあわせて歌う。山本さんが小さく踊ってみせる。

「これだけ歌詞に出てきても、ごはんに出すとちっとも食べないんだから。困っちゃう」


 不要不急の外出は避けよと言われて久しい。我が社もリモートワーク主体となったが、どうしても会社でなければできない仕事がある。部の面々は6人1チームに分けられ、交代で出勤している。

 仕事の出来る高橋さん、彼女のサポートを務め他の社員に指示も出せる中村さん、指示をする立場ではないが無難に仕事をこなせる僕、指示されたことをようやく過不足なく遂行できるようになった入社2年目の渡辺くん、在籍期間が長く仕事も早いが時短勤務で15時半には帰社するパートの山本さん。

 そしてもう一人、小林課長がこの班のメンバーなのだが、彼はまだ姿を見せていない。


「高橋さん、課長は何時ごろ出社なんでしょうか」

 渡辺くんの質問に、高橋さんは肩をすくめた。「通院してから来るって言ったけど。病院も混んでるんじゃないかなあ」


 課長は何らかの疾患を持っており、定期的に通院している。なんの病気ですかと聞く人全員に「アル中の治療なんだ」と返しているので実のところ何の治療で通院しているかは誰も知らない。ひょっとしたら本当にアル中なのかもしれない。

 山本さんが各デスクの椅子を引いてフロアワイパーを掛けつつ、ぽつりと漏らした。


「課長、今日は買えたかな。マスク」

 ああ、と中村さんは眉を下げた。

「ドラッグストアに通い詰めてるっていう」

「運試しらしいよ。毎日同じ店舗にちょっと時間をずらして行って、行ったタイミングでマスクが買えるかチャレンジ。俺のマスクが切れるのが先か、買えるのが先か運試しだ、って」

「言ってたなあ」高橋さんが笑みをこぼした。「『買えたら何か良いことが起こるな。この騒ぎが収束するんじゃねえかな』みたいなこと、言ってたよ」


 運良くマスクを買えても、それが必要な事態が終息してしまえば無駄足なのではないかと思っていると、渡辺くんが「それじゃマスク買った意味なくなりませんかね」と真面目に返した。

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