016「かわいかったなあ」
「えぇー!なにそれ、十年も一緒にいて!?はー……涼サン、それは別れて正解だよ」
雪紫樹に昼間のあくるのことを聞かれたので、その流れで婚約破棄の話をした。彼女は「ありえない」と何度も首を振った。
キッチンカーの少し離れた場所でテーブルを囲う涼とキッチンカーの四人。夕飯はサラダとホットドッグだった。味付けは簡単だったが、だからこそ素材の味が際立って、これもまた美味かった。
「ムリ、そーゆーの。要はさ、自分のプライドが傷つかない方を選んだってことでしょー?ムリ、マジで。男だからというかニンゲンとしてムリ」
「私もびっくりしちゃった。まさかあんな年若い子に持ってかれるなんてさ」
「精神年齢は低そうでらっしゃいますし、お似合いだったのでは?」
「それだ、アヤっち天才」
「ああ、なるほど……」
言葉を交わしながら涼は心が軽くなるのを感じていた。
涼の婚約破棄の話は、誰にもしていない。しかしどこから流れてくるのか社内には既に広まっていて、同情か嘲笑の目を涼に向けていた。仕事に支障をきたすことはなかったが、それでも精神衛生上よろしくなかった。以前は弁当を作って社内の公共スペースで昼食をとっていたのを、外でとるようになった原因だった。
仕事こそ円満だったがそれ以外はかなり肩身が狭かった。気にしないようにしても、人の目はどこまでも追ってくるものだ。
「昼間の方がその……浮気相手でございますか?」
「そ。可愛い子だったでしょ?」
「ええ、まあ見た目だけは」
「見た目だけでいーのよ。可愛くって仕事がほどほどにできない方が男はいいの」
「……そうか?」
疑問を呈したのは紅壽だ。
「そーよ、結局男ってのはそういう守ってあげたーいって子の方がいいのよ」
「……邪魔なだけだと思うが」
ぼそっと紅壽が呟くがなんだかおかしくて、涼は小さく噴き出した。彼は困惑したように涼を見ていた。
◇
「お世話になっちゃった、ごめんね。遅くまで」
「んーん。俺ら別に時間とか決まってないし。いろいろ話聞けてよかったし」
「ええ」
ふたりが頷き、紅壽が首肯、緋色は何故か小刻みに震えながら首を縦に動かした。そういえば緋色とまともに会話をしたことがなかった。
「それじゃあまた明日ね」
帰ろうとする涼を引き留めたのは雪紫樹だった。
「あ、ねえねえ涼サン」
「ん?」
「――『
「え?なに?」
「『桜雲館』の<紅姫>」
「……えっと?なんかのドラマ?」
「ううん、都市伝説――的な」
「……知らない、けど」
「そっかーじゃあ教えてアゲル」
雪紫樹が悪戯っぽく笑いながら、くるりと一回転した。
「あなたの望みを叶えてくれるのでーす」
冗談のように、彼女は言った。
「……え?」
「涼サンが本当に叶えたい望みがあるなら、『桜雲館』が目の前に現れまーす。<紅姫>はすっごい良い子だから話をすればきっと気に入ると思うヨ?」
「……なに、言ってんの?変な冗談やめ」
「じょ、じょ冗談じゃない!」
「!」
突然叫んだのは緋色だった。長い前髪で目はほとんど見えない。まだらに髭の剃り残しがあって、ぼさぼさの髪を無造作にひとつに結い上げている。飲食を扱うにしてはなかなか清潔感に欠いた見た目ではあったが、彼は皿洗いなどを中心に行っており、直接料理に関わることはないという。想像していた数倍の図体で現れたとき、涼は腰を抜かしそうになった。アメフトでもやっていそうなガタイのよさだったが、彼の趣味は絵を描くことだという。
涼が彼を見ると、彼もまた驚いて狼狽している。その様子を雪紫樹が笑って小刻みに震える緋色に抱き付いた。
「あはははっ緋色ってばもー!……ま、ウソかホントかは出会えばわかるんじゃない?」
「……」
「それじゃーね、涼サン。また明日ぁ~」
雪紫樹がそう言って手を振るので、涼は「あ、あぁ……うん」と言って手を振り返した。
混乱はしているが、腕時計の時間を見て涼は諦めて帰路を辿ることにした。
――おううんかんのべにひめ
一体何の話なのか、涼にはさっぱりわからない。帰りの電車で涼はスマートフォンで言われたそのままを検索した。意外にも多数のヒットが見られた。一番上に出てきたサイトを開く。
――『桜雲館の紅姫』とは
――望みを持つ者の前に現れ、その『魂』と引き換えに
――なんでも望みを叶えてくれる存在のことである
以降はずらずらと個人的見解に偏った文章が並んでいたので涼は無視した。要はオカルト的な存在らしい。雪紫樹がまさかオカルト好きとは思わなかった――しかし、冗談ではないと緋色が言った。あの様子だと自分の恋人を馬鹿にされて怒ったようにも、単に冗談ではないと強く否定したかったようにも見えた。
どちらが正答なのか知り合って間もない涼には判断ができなかった。
――ウソかホントかは出会えばわかるんじゃない?
雪紫樹はそう言っていた。
「……望みを……叶えてくれる……」
馬鹿馬鹿しいと思いながら、涼はその話を忘れることができなかった。
◇
涼は几帳面でストイックな性格をしていた。旧家のお嬢様として育てられたせいもあるし、両親がだらしなかったということもある。だからこそ反面教師にして自立できるよう己を鍛えてきたのだ。誰にも頼ることがないように、ただひとり自分の力で立ち上がり進んでいくために。
(……受け入れてもらえないって思ったし)
今になって思えば、甘ちゃんだった啓吾はそんな自分に引っ張っていってほしいという願望もあったから、涼のことを好きになったのかもしれない。
色恋沙汰に疎い上に、物心ついたその時から許嫁だなんてカテゴライズされた存在と出会ってしまっていた涼には、その愛情が打算的かそうでないかなんて、わからなかった。
夢を見ていたというのなら涼だって同じだろう。啓吾なら自分をわかってくれていると思っていた――期待をしていたのだ。だから上へ昇っていく自分の後を努力して追いついてくれるものだと、そう信じていた。でも実際は彼には上へ昇る力などほとほとなく、置いていくことになってしまった。
置いていかれた彼のオアシスが、あくるだった。彼のずたずたに切り裂かれたプライドを彼女はやさしくくるんで、癒してくれたのである。弱っているところにあんな風に寄り添ってくれれば誰だって心を許す。涼だって今誰かにやさしくされたらどうなるか――想像ができなかった。
(……私も結局おんなじなのよね)
ふたりのことを心の底から憎んでいるか、と思えばそうではない。寧ろ自分の至らなさを痛感していた。啓吾の心を知ろうともせず、幼い頃から知っているから――などという免罪符で傷つけていたのだ。彼がどんなに器の小さい男であろうとも、彼を愛していた記憶はどうだって消すことはできない。
そして、愚かにもあくるに嫉妬している自分も。
「……かわいかったなあ……」
薄いピンク色の襟元がフリルになったワイシャツなんて、涼には絶対に似合わない。あくるは女子らしさを前面に押し出しながらそれを着こなしている。女子力で言うなら涼の圧倒的敗北だった。
「……」
捨てきれない過去の想い。やりきれない『可愛い』という格差。どうしようもない強がり。
未練がましさだけは一人前に『女子』らしいな、と涼は自嘲した。
――なんでも願いを
「……」
馬鹿馬鹿しい。何度言って振り払っても頭にこびりついて離れぬその言葉。
本当にそんな存在がいるなら――
いっそ全部、忘れてしまいたかった。
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