09「うつし世はゆめ」
相手はひとつ年上の先輩――
外見だけ言えばイケメンだが、女癖が相当悪かった。気に入った女を見つければ彼氏がいようといまいとすぐに手を出す。加えて技巧が優れているため、大体の女が彼に鞍替えするのだという。
不運にも純太の彼女――だった
何故なら風宮は成績が優秀で、加えて人望も厚く、教師陣からも一目置かれる存在――外側だけ見れば悪事などするはずのない聖人君子だったからである。美しい尾ひれをなびかせる楽園の長たるその魚は、内側に猛毒を隠しながら泳いでいるのだった。誰もが気付かぬうちにその毒に触れている。毒が回る頃には、彼の言うことをなんでも聞く立派な奴隷になっていた。
風宮は端的に言って、世渡りの上手い極悪人だった。
「……友人たちも言いくるめられてしまって……僕が茉奈を精神的に追い詰めた、って……なにもかも失ってしまいました……家族ですらもう僕のいうことは聞いてくれません……」
仲の良い友人には風宮が「茉奈に酷いことをしている」「モラハラだ」などと触れ込み、ほぼ洗脳状態になった茉奈にも協力させて――純太はあっという間に孤立してしまった。唯一信じてくれていた家族ですら、茉奈の迫真の演技と風宮の必死の説得に純太への見る目を変えた。
毎日顔を合わせては蔑みの目を向けてくる。――恐ろしい男だ、とその時純太は心底思った。気付いた時にはもう全てが遅かったけれど。
「……すげェやつに目ぇつけられたンだな」
頬杖をついて女――
暗い顔の純太を気遣ってか「上がっていけよ」と座敷部分に上がらせてもらった。店番はいいのか、と訊くと「店主がパチンコやってる時点でお察しだろ」とほぼ投げやりに言われた。
「……正直学校へ行くのも家に帰るのも怖いです」
こんな風に話を聞いてくれる人はいなかった。そのせいだろうか、純太は自身の境遇を今日出会ったばかりの夜鴉に話してしまっている。
少しだけ水面に顔が出ている気分だった。
「ンじゃあ、行かなきゃいいンじゃね?」
「え」
思わぬ言葉に純太が目を剥く。言った当人はそれほど重大な事を言った風ではなかった。
「行くの怖ェのにわざわざ行かなくてもいいんじゃね?つうかそいつのせいで敵しかいねェんだろ、今。だったら行く必要ないじゃん」
「い、いえ……でも……ご迷惑じゃ……」
「なにもメーワクしてねェけど?」
「……」
「――それ以上無意味に君が傷つく必要はない」
その声は男のものだった。振り返ると店先でシャボン玉を吹いていた男が上がってくるのが見えた。ぱたぱたと足音が聞こえ、突然現れた少女が男の首に抱き付いた。
「ん……」
「昼寝をしていたのか
「……んん」
頭を擦りつける様は撫でて貰いたがる猫のようだった。髪の毛についた房飾りがふるふると震えた。
「あーそろそろ店じまい?今日もあいつ帰ってこなかったなあ……」
ぼやきながら夜鴉が立ち上がって、店の扉に鍵を閉める。そんな時間かと慌てて立ち上がった純太を男が制した。
「家に帰るのも辛い状態なのだろう?だったらやめておけ」
「……僕は、その……」
「君が
「……え?」
純太は夜鴉を見た。純太の話を全く疑わずに聞いてくれた他人。嘘のような話を、彼女は一切否定せずに聞いてくれていた。
「俺様、目ぇ見りゃアだいたいどンなやつかわかるし。オマエ、たぶんいいやつなんだろ?」
「……僕が……いいひと……」
「惑わされてはいけないぞ少年。周囲の言う君の姿より君が知っている君を信じてあげるんだ」
「……僕の知っている……僕……」
「世の中の淀みを全て食らう必要などない。――息を吸うには、少年。君は今あまりにも自分の首を締めすぎている。それでは現実を見るのにも支障をきたす」
「……」
「夢であれと願うのは簡単だが……そこから目覚めるのはひどく難しいからな、傷つくことは必至だ、だからこそ君は君自身にもう少しやさしい方がいいだろう」
「……」
純太の視界が滲んだ。
水槽に放り込まれてからずっとこんな風に自分を慮ってくれる人はいなかった。病に侵され妙な泳ぎ方をする自分を気に掛けてくれる人などいなかった。
「……ぼくは……」
「気にすンなよ、ムダにでけェ家だし。家主はなかなか帰ってこねェし」
「……」
「あー服か?
「えっあ、……それは……」
「女性服だときついのではないか、夜鴉」
そう?俺結構サイズデカイけど。
夜鴉が言いながら部屋の箪笥を漁っている。ばさばさとひっくり返している中に鮮やかな色のものが見えたので純太は視線を逸らした。レース生地の下着類だと悟ったからだ。
「まあいいや。蓮の着とけよ、クソデカイかもしンないけど。今度買ってきてやンよ」
「……なんで」
純太は不思議だった。
何故会って間もない少年の話を聞いてここまでしてくれるのだろう。後で何か請求されるのだろうか――一抹の不安を覚えた純太が訊くと、夜鴉は「んぁ?」と妙な声を出してから、
「だってオマエ、まだ上がってこないから」
とさも当然のように言った。
◇
夜も更ける頃合いに、駄菓子屋の鍵が開く音がした。丁度風呂から出たところだった純太は髪の毛をタオルでこすりながら、興味本位で店の方を見る。からんからんと下駄の音が鳴って、どっかりと畳敷きに座る背中が見えた。長い髪をひとつに束ねた、背格好から見るに男である。男は振り返って純太を見ると、「ん?」という顔をした。
そういえば店主がどうのと夜鴉が言っていた。話を聞いていなかったらまずい、と純太が頭を下げかけたところで男が笑った。
「そう緊張するな、取って食いやしないさ」
ニヒルに笑う男の目は赤色と金色をしていた。その手にビニール袋がぶら下がっている。
「食うか?久しぶりに大当たりでな」
中身は菓子のようだ。ついでに缶ビールも入っている。
「……えっと僕、お酒は」
純太の真面目な顔に、男が「くっ」と喉を鳴らす。何がおかしいのかわからず、純太が男を見た。
「ははははは、安心しろ。俺もさすがに未成年に酒をすすめるような男じゃない」
「……あ、」
失言だったかもしれない、と慌てる純太の頭に男の手が乗った。
あたたかい手だった。
「座れ――何か飲むか?夜鴉が炭酸しか飲まんからそれくらいしかないが」
「……はい」
話をしてみたい、と純太は思った。男には――そんな魅力があった。
◇
卓袱台に座り、男は缶ビールを、純太は缶ジュースを煽った。弾ける心地が風呂上がりの体にじんわりと染み込んだ。
「俺は
「……あ。……早川、純太です」
「純太、か。お前はどうしてここに?」
「……」
純太は少し考えてから全てを話した。紅蓮は途中口を挟むこともなく、話を聞いていた。純太が「……そんな感じでお世話に」と締めくくると紅蓮は口の端を片方吊り上げて言った。
「親にも友人にも、か」
「……はい」
溺れている。
純太は茉奈を奪われてからずっと溺れていた。必死にもがいても誰も彼も溺れる自分を笑うだけだった。
「……僕は特別なことはしていません。……好きになっただけなんです」
「……」
「……それは悪いことなんでしょうか」
好きになっただけ。
茉奈を好いて付き合うことが出来て――ただそれだけだ。見せびらかしたり自慢をしたりした覚えなどなかった。
「今のお前はどこにいる?」
「……え?」
「今のお前は一体どこに立って何を見て何を感じて――生きている?」
「……何を、言っているんですか……?」
「目に見えているものが現実だとお前は信じられるか?」
「……えっと……」
ごくり、と紅蓮がビールを飲み干した。
「――〝うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと〟」
「……それは」
「江戸川乱歩が遺したと言われている言葉だ、彼はサインを求められると必ずこの言葉を書いていたらしい」
「……」
「意味は、まあ――今ある現実こそが夢であり、夜に見る夢こそが現実だとかそういう意味だな。諸説ある、俺のこの解釈が合っているかも怪しいが」
純太は彼が何を言いたいのかわからなかった。
「ただひとつ言えるのは……純太。お前は何も悪くないよ」
「……!」
たった一言。何よりも願っていた一言。
純太は唇を噛み締めて、下を向いた。
涙が一粒、頬を伝った。
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