桜雲館の紅姫

可燃性

壱のこと『夢を見る少女』

01「ねえねえ、紅姫って知ってる?」

「しばらく会えなくなる」

「――え?」


 つけようとしていたリボンが床に落ちた。

 先程まで火照っていた体が指先から一気に冷える。無言のまま身支度を整える彼を見つめた。


「……」

「ごめんな……出張で」

「しゅっ、ちょう?」

「ああ……。……ほんと、ごめん」


 何度も「ごめん」を繰り返して、いつも通り多めの紙幣を握らせて彼はそそくさと部屋を出て行く。ばたん、といつもより大きな音を立てて扉が閉まった。リボンを拾おうとする手が震えて何度も取り落とした。


「……え?」


 もう一度呟くその言葉に、返答する者は誰もいない。


 ◇


「――ねえねえ、『桜雲館おううんかん』の<紅姫べにひめ>って知ってる?」


 なんということもない、公立高校の休み時間。

 机を動かして、向かい合わせになった途端に噂やゴシップが大好きな安達あだち鈴香すずかがそう切り出した。少し明るい地毛を両サイドで均等に振り分けたツインテールが前のめりになった勢いで揺れた。

 知らなかったので首を振り、「なあにそれ」と続きを催促する。少しだけ笑みが引き攣った気がしたけれど、学校で仲良くするメンバーは誰も自分の笑顔に何も言わなかった。


「あのね、突然目の前に現れて願い事をなんっでも叶えてくれるんだって!」


 一瞬の間。暫くしてから、短髪を指でいじりながら姫原ひめはら文美ふみが鼻で笑った。反応に鈴香が頬を膨らませる。


「むう、なにようその反応は」

「いやごめん……内容がかなり曖昧なのに名前だけちゃんとついているなって思って……」


 確かにそうだ。願い事を何でも叶えてくれる類の噂話や都市伝説は多いが、名前なんて割とそのままだったりあっさりしたものがほとんどである。鈴香の持ってきた噂話は内容の具体性が全くないのにつけられている名前だけは立派だった。中身が空っぽなのに、外側は綺麗に装飾された箱を出されたような――そんな、ある意味空虚な印象を受ける。


 ――空っぽ


 意図せず思い起こしたその想像に、ぎゅ、と心が掴まれた。


「……ん? なな、どうした? 具合悪い?」


 文美がセミロングの隠された憂色を見つけて、声を掛ける。言われたなな――ひいらぎ七葉ななはは慌てて取り繕った。


「ん? ううん、なんでもない!」


 無理矢理笑った風に見えただろうか。

 心配をしながらも七葉は精一杯口角を吊り上げた。


 ◇


 七葉には親がいなかった。代わりに祖父母に育てられたが、いずれも高齢だったため、しばらくしてふたりとも亡くなってしまった。ひとりが寂しいと思ったことがあるが、悲しいと思ったことはない。仕方がないことだから、と自分に言い聞かせて七葉はこれまでずっと生きてきた。


 ――泣いてもいいんだよ

 ――寂しいと、悲しいと、思っていいんだよ


 七葉にそう教えてくれたのは年上の『先生』だった。

 仲良しの鈴香や文美にはまだ言えていない。寧ろ誰にも言うことができない関係だった。けれど、それでも七葉にとっては心の支えであり大切な絆だった。

 どんな繋がり方をしたとしても、繋がった先が大切だと七葉は思っている。他人になんやかんや言われる筋合いはないし、否定される謂れもない。本来であれば秘密にする理由などない。

 

 けれど、これは『先生』との約束。

 二人だけの秘密。


 少しだけ不満が残ったが、『先生と二人だけの秘密ができた』ことの方が嬉しかった七葉は、残った不満など風前の灯火のように消えてなくなってしまった。


 けれどその『先生』には暫く会えていない。

『先生』は忙しいのだ、大人だから。学生の、単なるイチ高校生である自分とは違う時間の中で生きている。

 でも『先生』はやさしい。七葉が会いたいと駄々をこねてもなんとか時間を作って会いに来てくれるし、口づけもそれ以上のこともしてくれる。

 あたたかくて心満たされる感覚が、七葉の長年蓄え続けていた黒い感情を溶かしてくれた。

 だからほんの少しの間、離れていても構わない。『先生』はきっと自分のもとに帰って来てくれると信じているから。

 いつもの歩き慣れた帰り道。鈴香も文美も部活動に入っているので帰りは大体ひとりだ。二年も通っている帰路であるから迷うはずがない。風景は変わらない、いつもと同じ住宅街――


「……え?」


 その中に明らかに浮いた建物があった。

 周囲を塀に囲まれた巨大な屋敷である。こんなものあればすぐに見つけるだろうに、七葉はいつからこんな建物があったか全く記憶になかった。ちらりとも見なかったというのか――こんな、大きな屋敷を。

 七葉が驚いて近づくと、塀の上から声がかかった。


「おやまあ、こんにちはお嬢さん」


 若い男の声である。思わず身を引いて塀を見上げた。そこには真っ黒な服を着た垂れ目の男が口元に笑みを浮かべて座っていた。彼の肩には尾が二股に分かれた猫がくつろいでいた。


「……あ、あの」

「これはなんとも、おやおやまあ誘われたのですねえ」

「……え?」


 男は腰を浮かせると、空気に漂うようにふわりと地面に着地する。彼の目は金色をしていて、髪の毛は銀色をしていた。日本人離れした様相に、つい目を奪われる。


「……」

「俺の名前は皇龍おうりゅう。こちら『桜雲館』の『門番』を仰せつかっております。――よしなに」


 手を差し出してくるのに、七葉は反応できなかった。

 本当なら不審者――と断言していいのか迷ったが、塀の上から声を掛けてくる時点で少しばかりおかしいと考えた方がいいのかもしれない――と出会ったのであるから、七葉は常に持ち歩いている防犯ブザーなりなんなりを押して全速力で逃げるべきだった。だが、七葉は何もできなかった。足が固定されたように動かなかったし、それになにより――


「……お、う、うんかん……」


 休み時間に鈴香が言っていた噂話。


 ――なんでも願いを叶えてくれる


 その言葉が七葉の心に引っ掛かって体の動きを止めていた。

 なんでも叶えてくれるのなら――『先生』のことも?

 淡い希望が込み上げて、この機を逸したら二度と出会わないかもしれないなんて想像して、七葉は逃げることを躊躇っていた。


「はい、こちらは『桜雲館』でございます」

「……べに、ひめ……」

「はい、そうですよ。<紅御前べにごぜん>がおわしますお屋敷でございます」


 七葉は動けないし、何も言えない。

 常識から大きく外れた現象に、頭が追い付いていないのだ。


「――おいガキ、お前何か叶えてほしい望みがあるんじゃないか」


 そう七葉の心を読んだのは、別の声だった。同じく塀の上からである。見ればそこには別の男が座っていた。彼の真横には白い大きな犬が伏せの態勢でくつろいでいた。赤い瞳が帽子の陰からも良く見えた。


影嗣かげつぐ! 駄目ですよ、お客様に……しかもこんなうら若き乙女に『ガキ』なんて」

「うるせえ、お前は堅苦しい敬語ばっかで何言ってんのかわかんねえんだよ」


 影嗣と呼ばれた男は、皇龍と同様に風に乗って着地する。それを追って犬もまた同じように降り立ってきた。


「叶えてほしい望みがあるからここに来た……違うのか」

「……わ、わたしは……」


 叶えてほしいのだろうか? この――想いを。

 七葉にはわからない、わからなくなるほどに『先生』に対する想いが膨らんでいた。


「まあ<紅御前>もそうすぐ取って食う訳じゃありませんし、お話だけお聞きになるというのはどうでしょう? 望みがある限り、ここへの扉は開かれますし」

「……とって、くう?」


 知らない話だった。けれどそれ以上何も言うことがないように、皇龍が七葉の背中を押す。

 影嗣が入り口を鍵を開けた。七葉の前に道が現れ、真っ直ぐ伸びた石畳の先には、豪奢な細工のなされた扉が見えた。真っ赤な扉だった。

 見える位置の窓はすべて閉ざされていて、カーテンが引かれている。外から室内は覗けないようだった。しん、と静まり返った屋敷に誰かがいるような気配は感じられない。


「中に入れば案内役がおりますゆえ、案内に沿いましてお進みくださいね~」


 呑気な声が背中にかかって、がしゃんという音が続いた。振り返ると扉は既に硬く閉ざされていて、『門番』を自称する二人の男の姿もない。戻ることができない――そう思うと、途端不安が込み上げてきた。

 それでも、七葉は先に進むことにした。


 戻れないなら進むしかない。

 今までだって、そうだったのだから。

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