第16話 知らなかった

 十九時を過ぎた頃、帰宅してからテーブルに置いていたスマートフォンがようやく主張を始める。三コール待ってゆっくり耳に当てた。


「もしもし」

『今大丈夫ですか?』

「いいよ、急ぎのこと?」

『急ぎというか……コトさん、目が見えなくなってきたことご存じですか』


 力が抜けてスマートフォンがするりと下にずれ、寸でのところで何とか落とさずに体勢を立て直す。色葉の言うことがじわじわと恐怖を運んできて、背中を覆いつくしてしまう。


「……知らない」


 一言答えるのにどれだけ時間がかかっただろうか。自分が知らされないことを色葉に教えられたことが悔しい。何より、コトの異変に気が付かなかった自分が悪いのに、その責任を他人に押し付けなければ保っていられない弱い心が憎かった。


『私は毎日行かれるわけではありません。お仕事を増やすようで申し訳ないんですが、コトさんが日常生活で大変そうにしている時はお手伝いして頂けますか』

「分かった、教えてくれてありがとう。多分、色葉さんは俊彦さんだと思っているから教えてくれたんだね。コトさんは俊彦さんがいつだって一番だから」

『あの、答えられないことだったら言わないでください。俊彦さんって……コトさんの旦那さんですか』


 いつか聞かれることと、いつも伝えなければならないと。逃げていたのはいつだって自分だった。色葉は真面目で、不器用で、素直だ。


「ああ、俊彦さんはコトさんの旦那さん……になるはずだった人」


 事実を知り、悪いことをしたわけではないのに、何度も謝る色葉を宥めて電話を切る。喉が渇いて、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに水を注いだ。


「……ッ、うう……」


 呻る声を隠すことも出来ず、投げ捨てるようにコップを流しに置いて速足でリビングへ戻る。テーブルに突っ伏して時間が過ぎるのを待った。


 一年前に枯れた涙は懲りずに後から後から溢れてくるのに、コップを触っても慌てて腕を柱にぶつけても、震える手のひらは指先の先まで何も感じなかった。

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