第15話 期待はもうしない
「じゃあ、今日はこの辺で」
「あれ、食べていかないの?」
夕食までいることが定番になっていたため、帰り支度を始める色葉に首を傾げてみせる。色葉の方はというと、伝え忘れたことに気が付き申し訳なさそうに頭を下げた。
「明日は急な早番になっちゃって時間がいつもより早いんで、適当に家にあるやつで済ませます。すみません、もし私の分もあるならその分お金出すので持って帰ります」
「大丈夫、冷蔵して明日のお昼に回すから。あ、そうだ、金曜日の夕食代いつもくれるけどもういらないよ。これで色葉さんのとチャラ。いい?」
やはり気にしているらしく、しぶしぶ桃也の提案に乗ることにした。こちらは自分の好きなようにやっているだけなので構わない。それがもし、相手につまずきを与えているのであれば譲歩すべきだと思った。
「残念ねぇ」
鞄に本を仕舞う色葉を寂しそうに見つめるコトに後ろ髪を引かれ、左手の先にちょんちょんと触れる。コトが見える位置まで距離を詰めてしゃがみ込む。
「大丈夫、また来ます。待っていてください」
「はい。待ってます」
視線が合うと安心する。まだ見える。これなら、家の中での日常生活程度なら問題無い。もう一度手を触れてから、また来ることを伝え家を出た。
翌日土曜日十一時、今週も桃也はレストランへやってきた。ケーキセットに文庫本、見慣れた光景だ。目配せをして、各テーブルを拭きながら自然な流れで桃也の席へ向かう。
「そういえば、まだ本屋か図書館行ってないですね」
「うん、いつでもいいよ」
ちらりと手元を覗けばいつものブックカバーはしておらず、表紙が見えたそれはつい昨日色葉がコトへ読んだ本の第一巻だった。偶然、にしては出来過ぎている。昨夜桃也が本を眺めていたことを思い出した。
「その本……」
言葉を選ぶ前に口を突いてしまっていて、口もとを押さえるが遅かった。桃也は色葉と本を交互に見遣り、困った笑いを浮かべた。
「はは、真似してごめんね。コトさんのおすすめを色葉さんが読んでるの見たら僕も読める気がして、帰り際に開いてる本屋さん見つけて買ってみたんだ。だから読み始めたばかりだし、ブックカバーも付け忘れたしで」
「珍しい、いつも落ち着いているのに慌ててたんですね。もうそれ何回か読んだから、読みにくいところあったら聞いてください」
「ありがとう」
ケーキが運ばれてくるのが見え、席を離れる。次々に入ってくる客の対応をしていたらすぐ一時間が経過した。今日も十二時少し前、桃也がレジに並ぶ。ちょうどレジ対応をしていた色葉がふと思い立った。
「そういえば、今日もお仕事なんですか?」
「……うん、この後コトさんとお昼ご飯を食べるよ」
「そうでしたか、毎日暑いですけど無理はなさらずに」
「じゃあ」
「あの!」踵を返す桃也を止める色葉の手が、強く腕を掴む。痛みからではなく驚きで固まった桃也が、恐る恐る色葉を見遣った。焦った顔が桃也に相談を持ちかける。
「夜にでも電話していいですか」
「電話? 大丈夫だけど……」
「有難う御座います! 呼び止めてすみません、それでは夜に」
「うん」
お互い震わせる程度に手を揺らせる。下ろす瞬間、手のひらに触れる風が心地良かった。ドアに当てた指先が、いつか色葉のそれに伝わって同じ風を感じられたら。桃也は不思議な感覚に囚われながら、現実の暑さへ舞い戻った。
レストランを出ると、太陽はすでに真上に到達していて、アスファルトを容赦なく熱くさせる。帽子を被って誤魔化すけれども、足元は陽に照らされたまま悲鳴を上げた。夏が終わる頃には、足だけがサンダルの跡に焼けてしまうだろう。鞄の中には毎週感じる少しの重み、しかし先週とは違った温かみがあった。
通い慣れた道を迷いなく進んでいく。角を曲がれば、こじんまりとした一軒家が見えた。安心感の中に焦燥と喪失が溶けていく。一度でも水に交わってしまえば失われることなく、いつまでも桃也を貫くのだ。
「期待しない期待しない。五歳も離れてたら、相手してくれないよな」
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