第11話 近づく

 誰かにも、ああして作ったりしているのだろうか。二十代であれば珍しくもなく、ごく自然なこと。自分の部屋と錯覚する程のんびり寛いでいると、時計が視界の隅を掠めてようやく大分遅い時間を刻んでいることに気が付いた。


「しまった。長居してすみません、そろそろ失礼しますね」

「それじゃあ、私も」


 濡れた手をタオルで拭きながら戻ってくる。コトは二人の会話を聞いて眉根を寄せた。色葉は何を言うでもなく会釈する。声をかけることは俊彦の権利であり義務であり、色葉がしていいことではないように思われた。玄関先まで送るコトの姿がやけに寂し気で、こちらへ振る手が心なしか震えていた。


「色葉さん、家はどちらですか。送ります」

「わりと近いので大丈夫です。桃也さんの方こそ私を送って遅くなっては、男性と言えどご家族が心配されませんか」

「……一人暮らしなんで」

「私もです」

「それに成人してますから、家族と住んでいたとしても、きっと気にされないですよ」


 ゆっくり桃也と話し合う機会が来るとは。知り合い程度の人に聞くのも失礼かと遠慮していたのに、向こうから色葉の年齢を尋ねられたことで機会を得て、彼は五歳年上の二十五歳だと分かった。案外離れていたが、むしろ珍しい年上の友人に嬉しくなる。桃也も一気に距離を縮めてくれ、年下の色葉に対する敬語も自然と剥がれていった。


「それで、芥川は一高を新しく実施された無試験入試で合格したんですけど、入学後も怠けることなく一位の井川と切磋琢磨したからか優秀のまま二位の成績で卒業して」

「周りのお友だちも優秀だったり作家になったりしてるんだね。すごいなぁ」


「物語を書くって、やっぱり知識が豊富でないと難しかったのかなって。今だったら、分からないことはすぐ調べる方法はいくらでもあるけど、昔は自分の中に溜めておかないといざ書きたい時に書けないですから。とは言っても、現在の作家が無知ということじゃなくて、昔の方がより大変だったということだと思います。リアリティを求めるならそれに伴う知識が必要ですし、あっと言わせる文章を書きたいならその倍以上驚く経験をしていないといけない。逆に、全く経験せず家に閉じ籠っている若者が世の中をねじ伏せる文章が書けるとしたら、それこそ天才なんでしょう」


「はあ……どちらにせよ僕には遠い存在だ」


 思い付くことを次々に言葉にする色葉をないがしろにせず、一生懸命聞いてくれる桃也に嬉しくなる。それにしても、遠い存在は色葉も同じであるのだが、桃也の言う意味とずれている気がして首を傾げた。


「桃也さんだって本を読むじゃないですか。うちのレストランでもいつも読んでますし」

「ああ、あれは」


 桃也が赤くさせた頬を掻く。反応を見て初めて、バイト中じろじろ観察していたと言っているような科白を吐いてしまったことに色葉は慌てた。


「すみません、変なこと言って」

「大丈夫。それにあれは、コトさんや色葉さんみたいな読書の真似事をしているだけで……。コトさんが好きな本を知ることが出来れば、少しは楽しい会話が出来るかな……と。でも、僕には無理。すぐ難しくなって飽きちゃったよ」


 寂しそうな横顔に言葉が詰まる。同時に、真剣な姿勢に心が打たれた。単なる触れ合いで済まさない、親身になる彼の温かさを尊敬した。だからだろうか、色葉にとってはおかしな提案を初対面相手にしでかしてしまった。普段異性と絡むことのない人間が、失敗も考えずに行動するとは。流れに身を任せることは、時として不可思議な出来事を引き込んでしまうらしい。


「では、とりあえず本屋巡りでもします? 図書館でもいいですし。別に話の真相を事細かく説明したら喜ぶわけでもないでしょう。桃也さんにとって大事な作品が、作家が一人でもいて、それだけでコトさんは嬉しいと思いますよ。迷惑でなければご一緒させてください。ちょうど私もコトさんの本棚に感化されて、狭い我が家に本棚を迎え入れようと思ったところなんです」


 沈黙が五月蠅い。風が止んだと錯覚するくらいだ。じじ、街灯が泣き声を上げて時間が戻ってきた。


「それは是非! 僕、コトさんともっと仲良くなりたいんだ。もちろん、色葉さんとも」


 ウインク付で返された言葉に、月が穏やかに微笑む。年上の男性は皆一様に、余裕を帯びた会話術を身に着けているのだろうか。甚だ己の言葉の稚拙さを痛感した夜だった。

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