第3話 読みたい物語

 祖父は厳しかったが、むやみやたらに叱ることはなかったので、声に出さずとも尊敬していた。二年前に他界した時は、葬式で人目もはばからず大きな水溜まりを作ったことも致し方ない。兄には笑われたが、大声で叫びたいくらい祖父が大好きだった。


――何だかんだ、おじいちゃん子だったな。


 祖母は幼い頃すでにいなかったので、その分祖父は二人分の愛情を持って色葉を可愛がってくれた。祖母がいたらどんな気分だっただろうかと思うことはあったけれども、寂しいと思わなかったのは祖父のおかげだ。


 夕食のお共にテレビを明るくしてみたが気になる番組はなく、適当にチャンネルを変えて無難なバラエティに行き着いた。芸能人たちが身近な話題で盛り上がり笑い合っている。テレビの中だから小さなことでも笑えるのだと分かっていても、最高潮の盛り上がりが一人の部屋と対照的過ぎて少々落ち着かなくさせた。


「……お風呂入ろう」


 大学生などこんなものだろう、きっと他の友人も同じはずだ。そうは思うけれども、満足できない自分がいて、早く落ち着いて読書がしたかった。


 十分足らずで、風呂を済ませてベッドへ腰を下ろす。サイドテーブルに借りてきた本を二冊置いて、一冊目を開いた。すでに何度も読んだことがある本。一番好きな作家ではないものの、定期的に読みたくなる。人間臭くてどろどろしていて、全然知らない世界であるのにこちらまで引き込まれる。フィクションでもノンフィクションでも、まるで自分の身の回りで起こっていると錯覚してしまう。


 かといって、全員そうであるかと聞かれれば違う。例えば夏目漱石は反対で、どんなに主人公たちが暗い道をおろおろ歩いている作品でも爽やかなのだ。「こころ」などは驚く程明確に書かれる人間の毒であるのに、薄暗い中に流れていく川はひどく緩やかで、自分と切り離された「物語」だと実感出来る。だから、漱石はどんな心境下においても読むことを戸惑わずに済む。どちらが優れていると言うわけではなく、作品とは“そういう”ものなのである。


 作風もそうだけれど、一文をくり抜いただけでその人の性格が表れるから不思議だ。太宰は「人間失格」ですら何度も推敲したと聞くから、素の性格とはまた違っているだろうが、やはり真面目な性格が表れている。誰に習っても、人間に人格があるように、文章にもその人にしか書けない何かがある。


――だって、漱石にあそこまで傾倒していた芥川龍之介はやっぱり芥川で、全然違うんだよねぇ。こっちは狂気が全然隠れていない。


 だから、気持ちを持っていかれてしまう作品の場合は、読む時期を自分でコントロールせねばならなかった。これは、自分が昔から本ばかりを傍に置いてきた弊害なのだと思っている。もっとも、色葉以外の人間が同じ作家の作品を読んだとしても、全く正反対の思いを抱くこともあるだろう。


 映像の無い文章のみで受け取る物語は、書いた本人でければ誰でも、少なからず湾曲して心に入り込む。これが小説の難しさであり、面白さである。正解は無い。加えて、色葉は気に入った作品を繰り返し読んでいるだけなので、上げた三人についても、読んでいない作品を読めば印象は変わるかもしれない。機会があったら手を伸ばしてみようか。


――しまった。余裕があると思ったのに。


 夕方までは確かに余裕がある日だった。しかし、帰ってきて急に気分が萎んでしまった。失敗した。違う作家を一冊ずつ借りてきたらよかったと今更後悔し、明日のスケジュールを確認して本を閉じる。


 いつもであれば週に一度図書館に行く程度であるが、太宰は週明けの暇な日に読むとして、明日新しく本を借りてくることに決めた。バイトが十五時に終わるので、時間に余裕はある。それならいっそ終いにしてしまおう。まだ二十一時を回ったばかりだったが、電気を消してばたんとベッドへ沈み込んだ。

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