第五章(03) 「私の妹だ!」

 メサニフティーヴは、夢を見ているのかと疑った。


 竜の卵、それも自分の弟、あるいは妹が生まれるはずの卵から、人間が生まれた。

 これはなんの悪戯か。人間達によるものか。あるいは、弱った月の光によるものか。


 どちらにしても、目の前で起きていることは、正常なことではなかった。

 取り囲んでいた竜達が、悲鳴を呑み込むように息を潜める。誰もが目を疑っていた。長く生きる中、様々なことを見て来たであろう長老すらも、口を開いていた。


 しかし一番愕然としていたのは、間違いなくメサニフティーヴだった。慌てることも、怒ることもなく、全ての思考と感情を放棄して、目の前の現実を見つめていた。


 と、少女の睫毛が震えるのを、深緑色の瞳は捉えた。

 薄く彼女の目が開けられる。髪と同じ、銀色。小さな月、二つ。まだ微睡んでいるかのようで、何かを映している様子はない。


 メサニフティーヴは我に返った。まずは殻をどかし、鼻先で少女の身体を確認していく。

 これは何の仕業なのか。何が起きているのか。


「おかしいわ、こんなこと」


 竜の一体が震える声を上げた。別の一体も叫ぶ。


「人間達だ! きっと人間達の仕業なんだ!」


 集まっていた竜達は次々に騒ぎ出す。決して少女には近づかない。


「凶兆に違いない! こんなのは狂っている!」

「でもこの子、どうするの? 害は……あるのかしら」

「谷から追い出すしかないでしょう!」


 口々に言い合う。中には長老や知識を持つ竜に助けを求める者もいる。だが、助けを求められた彼らにもわけがわからず、どうするかとは簡単に言えない。


 時間が経つほどに騒ぎは大きくなっていく。メサニフティーヴにいますぐ離れろ、と声をかける者もではじめた。


 だが黒い竜は少女から離れなかった。ひたすら調べる。

 そして。


「――私の妹だ!」


 歓喜に満ちた声が騒めきを打ち消した。皆が視線をそちらへ向ける。

 黒い竜は、上半身を起こした少女の、首の後ろを鼻先でつついていた。触られる度に、全裸の少女はもどかしそうに身動ぎする。


「見ろ」


 メサニフティーヴが器用に銀の髪を分ける。

 そうして現れた少女のうなじに、黒いものがいくつか。


 黒い鱗。

 メサニフティーヴと、そしていまは亡き母竜と、同じ色の鱗。


 集まっていた竜達は、それを前に再び唖然としていた。

 だがメサニフティーヴだけは、喜びに声を上げていた。


「お前は、私の妹なのだな!」


 待ちに待った、卵の孵化。

 姿がどうあれ、謎があれ、そんなものは全て吹き飛んでしまった。


「弟であればナハティグス。妹ならフェガリヤ」


 ようやく目が覚めてきたらしい少女は、ぼんやりと兄を見上げる。兄も妹を見下ろす。


「お前の名前はフェガリヤ。私の妹、フェガリヤだ」


 少女は間違いなく、竜の卵から生まれた存在だった。

 けれども正体はわからない。いっそ、人間達が卵をすり替えたと言ってくれた方が、全てに納得がいく――周囲の竜達は、不気味に思って少女を見つめる。


 そろそろと、一体の竜がメサニフティーヴに声をかけた。


「どうするんだ、その子」

「どうする、とは?」


 メサニフティーヴは首を傾げる。声をかけた竜は更に困惑に目を細める。


「正体はよくわからないが、人間だろう?」

「だが私の妹だ、間違いない。見ただろう? 鱗を」


 黒い竜は再び少女に視線を落とす。そこで気がついた。


「……どうした、どこか、痛いのか?」


 妹フェガリヤは震えていた。


「どこが痛い……ああ、どうしたらいい……」


 メサニフティーヴは少女のどこが悪いのか探るものの、出血は見当たらないし、それ以外の変化も見られない。


 そこで、取り囲む竜達の向こう側から、声がした。


「ちょっと! どいてどいてぇ!」


 竜達が何者かに押しのけられていく。けれども姿は見えない――あたかも空気が竜達を押しているかのようだった。道はできていくが、進む者の姿は影もない。


「長老様、一体何があったんですか!」


 やがて道は、長老の隣までできた。長老は何もいない隣に頭を向けた。


「ハイムギアよ、姿が見えないぞ」

「おお、申し訳ありません」


 宙が波打つ。小柄な灰色の竜が姿を現す。

 通常の竜から見れば、彼は子供と同じくらいの大きさだった。馬ほどの大きさの竜。大人というには一回り二回り足りない。しかし彼は子供ではなく、谷を守る戦士の一体だった。

 『カイザロン谷の賢者』ハイムギア。


「――これは一体どういうことだ、メサ!」


 説明される前に、ハイムギアは少女に気付いた。他の竜と違い怯えることなく近付けば、最初にメサニフティーヴがしたのと同じように少女を調べ、


「鱗! 君と同じ鱗だ! つまり……この子は間違いなく、あの卵から生まれた、ということだな!」


 目をきらきらと輝かせながら察する。しかし兄であるメサニフティーヴは、


「ハイムよ、どうもこの子は……どこかが悪いようなのだ。先程から震えていて、どこが悪いのかわからないのだ」


 言われてハイムギアも少女が震えていることに気付く。ただ、それ以外にも気付いた。


「この子、服を着ていないね……寒いんじゃないの? ――カイザラの巨大葉を持ってきてくれないか! ひとまずそれでどうにかしよう!」


 ハイムギアはすぐに若い竜の一体に声をかけた。遠のいていく背を見つめ、彼は再び少女を見て首を傾げる。


「ところで……どうして人間が生まれたんだ?」


 薄い黄色の瞳を細めれば、更に怪訝そうな顔をする。


「ていうか、生まれたばかり……だよね? おかしいな、人間の赤子は、もっと小さいと聞いていたぞ?」


 それに、とはっとしたように彼はメサニフティーヴを見つめた。


「メサ、この子の食事は?」

「食事……?」

「この子、人間みたいだろう? 俺も詳しくは知らないが、人間は食事をする……そして動物の赤子は乳を吸うというから……この子の、食事は?」


 竜に食事は必要ない。竜の全ては、月の光によって与えられる。

 メサニフティーヴは、固まるほかなかった。何もわからない。


 妹が生まれた、そのことに、手放しで喜んでいる場合ではないのだ。

 妹は人間である。


 ハイムギアも、どうしたらいいのかわからない様子で、それ以上を口にしなかった。もちろん、他の竜からも声は上がらない。少女も何も言わない。

 やがて口を開いたのは。


「……ねえメサ。君の妹は、どういうことかわからないものの、人間なんだ。そして俺達は、人間についてはあまりわからない」


 谷の竜の達の中でも人間に詳しいハイムギアだった。けれども彼もこれ以上はどうにもできない様子で。


「人間のことは、人間が一番よく知ってるよ……谷の西に住んでいる老婆のこと、憶えているかい?」

「まさかあの人間に聞こうというのか?」


 谷の西に、いつの間にか老婆が住み着いていることは、メサニフティーヴも知っていた。谷と言っても、竜の領域の外であるし、またそれ以上谷に入り込んでこない。害もなしてこないし、その様子も見られないため、竜達はひとまず様子を見ていた。


 集まっていた竜達がどよめいた。賛成する者、反対する者、あの老婆こそが黒幕ではないかと言い出す者。メサニフティーヴも声こそ上げなかったが困惑する。確かにハイムギアの言うことは、一理ある。人間のことは人間に。自分はいま、人間は服を着る生き物であり、どうして妹が震えているのか、わからなかったではないか。


 だが人間に頼るなんて。

 人間。あっという間に繁栄し、世界の支配者となったという種族。だがそれだけでは飽き足らず、種族の中での支配者を決めようと争い始めた生き物達。竜を捕らえては道具にしたり兵器にしたりし、それで更に竜を狩り、また他者を傷つける、非道な者達――。


「わしも、ハイムの言う通りだと思うぞ」


 群衆が老いた一声に静まった。長老はハイムギアの隣に並び、まだ寝ぼけているかのような少女を見下ろした。


「人間のことは人間に……どうして卵から生まれたのか、わしにもわからんのだ。だが……人間なら、何か心当たりがあるかもしれん」


 メサニフティーヴは、より少女に寄り添った。

 少女はぼんやりと、兄である黒い竜を見上げ、瞬きをしていた。

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