薫る死体のハーバリウム

結包 翠

第1話 憂鬱


 恋は焦がれるものと聞く。それなら、私の心に広がる瑞々しい光は何なんだ。

 夜明けの空気を染める花香の清らかさに、ハッとするような。胸のつかえが下りた瞬間、頬を掠める風に撫でられたかのような。ざわと肌に痺れの波が走る、このまばゆさと高揚は、一体なに。


「……」


 どくどくと体を火照らせる強い鼓動をそのままに、私は彼女の目を見据えていた。彼女の目は、静かだった。手つかずの森深くの、早朝の湖を思わせるような静謐さがそこにある。

 私の心を締めつけるものが無い目だった。息苦しさを感じさせる粘つく期待も、先入観も、何もない目。ひと欠片の不純物さえ無い、透明度の高い彼女の目が、私を見つめている。


 ジンと、頭の奥が震えた。


「……綺麗だ、あなたは」


 自然に落ちた声は、濡れていた。はらはらと涙がこぼれていく。目の前の光景に心が耐えきれず、呆然としたまま、私は立ち尽くしていた。

 彼女はゆっくり頷いて、近くに来るよう手招きした。側に寄り、視線の高さを合わせる為に跪くと、彼女はこぼれていく私の涙を片手で受け止めた。


 小さな手のひらに包まれた涙は、彼女の香気に当てられて水晶のように美しく見える。彼女はそれに頬を寄せ、そっと微笑を浮かべた。裸の彼女は下半身を花瓶に収めたまま、羞恥なんて知らない顔をして、私の涙を飲み干した。

 唇を涙で潤わせた彼女は、ほう、と息をつく。朝露に濡れた白花のような、清々しい艶やかさ。彼女から立ち上る匂いは澄み切っていて、薄甘い。


◇◇◇


「本当に綺麗だねぇ、ここは。薫さん、やっぱりあなた魔法使いの素質あるよ」


 紅茶に口をつけ、きよら様は満足そうに微笑んだ。彼女の食後はいつもこれと決まっている。森の清風を浴びたマスカットの果汁を入れ、黄色い小花を浮かべた紅茶。これを飲むと、初めてここに来店した時の感動がよみがえるから欠かせないのだと聞いている。


 白磁と花の園、花蜜街。魔法使いが多いこの街の空気は、私の肌に合う。かつて暮らしていた遠くの街にはなかった自由が、呼吸を楽にさせてくれるのだ。

 かつては幼い頃からの花好きが高じて、珍しい花卉かき植物の栽培が盛んな土地に身を置いていた。瑞々しいドレスで着飾る花に触れ、彼女達の為に立ち回れるのは至福だった。一方でそこは陸の孤島であり、外の風が流れにくく、何をするのも窮屈さがついて回っていた。


 真に花を思うなら絶やすべき風習が根強く残っていたし、身勝手な常識が人の数だけあった。それらに多重的に首を絞められながら、私は良い人――使い勝手の、という言葉が隠れている――であれと強要されていた。花が土地に富をもたらしているというのに、主役はあくまで住まう人で、花々は金のなる木でしかなかった。


 変化を求めず、場に染まるのが苦ではない人には住みやすい場所だっただろう。だけど私には合わなかった。私は休日になると、花がしっかり愛されていると噂の街に旅して回った。その時に出会ったのが花蜜街だった。

 乗合馬車でこの街に降り立った瞬間、スラッとした清い風が私を打った。それは健康な植物が放つ芳香であり、行き交う人々の自由な笑顔であり、花と街が共存した美しい景色であった。


 衝撃だった。夢でも見ているのかと思った。まるで街全体が、硝子の粒子を纏っているかのようにキラキラと輝いて見えた。その日の感動は胸に焼きついて離れなかった。

 それからというもの、取り憑かれたように何度も花蜜街に赴いては恋慕に近い情を募らせ、ついに私はこの地に越してきた。他所より魔法使いが多いこの街に。


 魔法使いは色彩豊かな喜びを愛し、それを得やすい店を重宝する。きよら様が私の店――カフェ兼花屋――の常連になったのもそれが理由で、この数年、マスカットの瑞々しい香りが厨房から絶える事はない。


 カップを置いたきよら様は、ぐるりと店内を見渡した。天井から吊るした硝子瓶と、そこから顔を覗かせる色とりどりの花を見つめ、おどけたように肩をすくめる。


「魔女になりたいようなら悪いけど、そっちは不向きかもね」

「んふっ」


 きよら様の冗談に吹き出すと、きよら様もつられて笑った。

 魔法使いが春の日差しを受けて笑う人なら、魔女は夜を舞台に舞うヴィーナスと言ったところだ。欲と美貌を意のままに操る闇の華。魔法使いとは近くも遠い存在だ。


 花蜜街は魔法使いが集う街で、晴れやかな活気に溢れている。魔女はそれを毛嫌いする。自他の欲深さこそが彼らの芳醇な糧なのに、ここにあるのはそれと反対の、サラッとした明るさばかりだからだ。

 魔女の感性は、理屈では分かる。しかし実感としては分からない。魔法使いにせよ魔女にせよ、彼らと近い感性を持たない者はなりようがない。私とはまるっきり縁のない存在だ。


 カランコロン。


「こんにちは、薫さん」


 ドアベルの軽快な音と共に飛び込んできたのは、半月ぶりに顔を見せた客人だった。


「こんにちは、アリスさん。お好きなお席へどうぞ」


 アリスさんはにこやかに微笑んで、一つ席を空けてきよら様の隣に腰を下ろした。知人が揃うと、カウンター席は途端に賑やかになる。


「あらっお姫様みたいだねお嬢さん。フリルをあしらったドレスが似合うこと。絵本の中から飛び出してきた?」

「うふふ。実は作者様の目を盗んで、こっそりこちらの世界に遊びに来たんですのよ。同じシナリオを繰り返す世界にずっといると、飽きてしまいますの」


 アリスさんは緩く巻かれたツインテールの毛先を指先で弄びながら、人形じみた大きな目を細めた。面白い子だねぇ、と笑うきよら様と談笑し始めたアリスさんは、時折ぎらりとした鋭い視線を私に送る。

 その視線に気付いていないように愛想笑いを浮かべ、私は注文の品を作るフリをして背を向けた。ざわざわと鳥肌の立つ腕をさすりながら、声色だけは明るく保つ。


 人から人へ向かう陶酔は、時に毒となる。私はいつまで、一方的なその毒を浴びなければならないのだろう。

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