【試し読み】女王のレッスン

西条彩子

《第一章》最初のレッスン

「ふーん。柊平しゅうへいはこういうの好きなんだ」

 彼氏の部屋の本棚で見つけた写真集をめくりながら、私は呟いた。

「あっ、ちょっと遥香はるかちゃん、なに勝手に見て……!」

 キッチンでお茶の準備をしていた柊平が慌ててソファにやってきて、それを奪おうと手を伸ばす。私はソファを跳ね降り、真向かいのベッドへと逃げた。

 大判の漫画本サイズのページをさらにめくると、写された肌色の面積は、ノースリーブワンピ一枚の私よりもずっと広くなった。

「ね……、ねぇ、ほんとさ……」

「で、柊平はどっちがしたい人?」

 見ていたページを突きつけて尋ねる。そこでは縄で縛られた女の人が、背中をそらせている。

 表情こそ窺えないけれど、くくられて盛り上がる肉や肌に汗をうっすら浮かばせ、窮屈そうなのにどこかしどけなく見える姿は、女の私でもどきりとするほど繊細な美しさをたたえていた。

 本のタイトルにあるとおり、『緊縛』という行為だ。

「し……」

 彼から勢いがすっかり消えた。昼日中の朝顔のようにだんだん萎れていく様子に、やり過ぎたかと一瞬焦る。

 でもこうして言いよどんでいるということは、と思い直し、私は彼の言葉を辛抱強く待った。

「縛られるほう……」

 八月の太陽に当てられてもそうはならないほど耳を赤く染め、柊平は小さく口にする。

 彼と付き合って一年。私の彼氏の、新たな一面があらわになった瞬間だった。

「そうなんだ。全然知らなかった」

「ひ……、引かない?」

「んー。まあ臭いとか汚いとか、なんか特殊なのだったらちょっとイヤだけど、これなら」

「男なのに、とか」

「女王様ってのがいるんだし、不思議ではないよ」

「そっか……」

 決して非難してなどいないのに、柊平はずいぶんと縮こまった様子でいる。だけど私は、付き合い始めてから彼が今日までじっと隠していたシュミに、好奇心をくすぐられていた。

「されたい?」

 訊いてみると、彼はしばらく黙ったあとでためらいがちに「うん……」と頷く。

「緊縛ねえ……。どうやったらいいんだろ?」

「え、っと、SMバーとかハプニングバーで、講習会があったりする」

「講習会?」

「縛り方を教えてくれたり、実際縛ってくれるんだって」

 ふうん、と前向きな相づちを打ちながら、普段はこの通りお家デートばっかりなわりに詳しいんだな、調べていたんだろうな、と思う。

 SとかMとか、私自身は正直よくわからない。だけどこうして縛られたいと自ら言い切れるのは、きっとそれなりに強い願望なのだろう。

 なにより最近セックスが月一くらいになっていたのは、そういうところにも原因があったのかもしれない。

「……行ってみようか」

「いいの?」

「あ、でも高いとかだったらちょっと、あれだけど……」

「俺出すよ、全然!」

 前のめりに言われて軽く面食らった。いつもはデートのお店ひとつ決めるにも時間がかかるのに、とモヤッとしたものが胸の中でヘドロのように溜まる。

「じゃあ、休みの日にやってるやつで」

「わかった。調べとくね」

 うれしそうな笑みを浮かべて柊平は、私の唇にちゅっ、と犬がするみたいなキスをする。

「……しょうがないなぁ」

 そう言いながら嘆息する私は、発した言葉がそのまま自分の本心であることに気がついた。


 新卒で私が入社したとき、戸田とだ柊平は前年入社の先輩で、事業戦略部に配属された私の指導をしてくれていた。爽やかな見た目とゴールデンレトリバーみたいな雰囲気で、周りからの評価も高かった。

 関係に変化が起きたのは三年目だ。彼の異動が決まり、三次会の会場探しで盛り上がる群れから少し外れ、それとなく二人並んだときだった。

「三次会って気分じゃないなあ」と彼はため息混じりに言った。「前嶋まえじまさんは?」

 尋ねられた私も大人数のそれに気が進まなくて、「今なら主役の戸田さんが抜けてもバレないかも」と、同調した。それが普通の平日の夜に、あるいは休日に会うようになり、付き合いが始まるまでとても自然に進んだ。

 だから一年も経てばマンネリするのだって、それと同じように自然なんだと思う。

「ねえ遥香、全社ネット見た?」

 空になったオムライスのお皿にスプーンをからんと置いて、向かいに座る同僚の木崎きざき真緒まおが声を弾ませる。「戸田さん。こないだの若手コンペで優秀賞だったって」

「ああ、うん。見た」

 とはいえ写真があったからという理由だけでクリックした記事は印象的な言葉以外ほとんど流し読みで、へえ、ふうん、そんなこと言ってたっけと首をひねるばかりだった。

 彼女が肩のあたりでくるんと丸まる茶色い髪を不満そうに揺らす。

「あれ、意外。彼氏のお手柄、うれしくないの?」

「うれしいけど、それで私がどうなるってわけでもないし」

 アイロンで巻いても夕方には跡形もなくなる黒髪ストレートを耳にかけ、焼き魚定食のトレイに箸を揃え置いた。

 そういうもん? と言いたげな真緒をよそに、傍らの冷めきったお茶を飲む。

「お祝いとかしないの?」

「本人からなにも聞いてないもん。言ってきたらまあ、なんかしてもいいけど」

「なんか冷めてるねえ。あたしなら将来とか考えちゃう」

「将来って……、まさか結婚?」

「もちろん! 今どき独身でも全然いいーって人も多いけどさ、あたしはしたい。生涯寄り添えるパートナーほしい」

 力を込めて言い切り、真緒は両手で頬杖をついた。

 私も「何か」がしたくてこの会社に入ったはずなのに、面接で並べたてた志望動機はなに一つ覚えてない。営業から日々降ってくる書類を片づけ、円滑に仕事を回すだけの日々だ。それでも彼女はどんな動機であれ、恋愛という潤いを本気で求めている。私にはないパワーだ。

「前嶋さん」

 横から声が掛かってそちらを向いた。スーツ姿の柊平が同僚数人と、食べ終わったトレイを持って立っていた。

「戸田さん」

「さっきメール送ったんだ。確認しておいてもらえる?」

 こういうときはだいたい、会社メールじゃなくて私用スマホのほうだ。

「わかりました」

 なんだろうか。談笑しながら去っていくうしろ姿を見送り、膝に置いたランチトートに手を突っ込む。

「『前嶋さん』」

 真緒は面白そうにニヤニヤと言った。

「……会社で知ってるの、うちの課の同期だけなんだよ。公表もする気ないし」

「案外他部署で狙ってる子いるよ?」

 からかう言葉を「はいはい」と受け流し、スマホを見た。

『見つけたよ。土曜日にここ行こう』

 そのすぐ下には『ハプニングバー』の文字。URLまではさすがに開けず、トートに放り込んで立ち上がる。

「さ、私たちも戻ろう」

 私が何者であろうと仕事は回り、同僚と顔を突き合わせ、ときどき彼氏と連絡を取り合う。

 それがいわゆるふつうの私が、ふつうに送る日々だった。


 地図を見てまず、銀座という立地に驚いた。会社から徒歩で行けてしまう場所だ。

 しかももっと遅い時間だと思っていたのに、十八時から緊縛ショー、そのあとで講習会があるのだという。

 それになにより、柊平のテンションが異様に高い。メトロの銀座駅を出てからここまで、どこか弾むように歩いてる。見えない尻尾、ぶんぶん振っているのがわかる。

「このビルだよ遥香ちゃん」

 柊平がスマホ片手に指差したのは、人通りの少ない路地を行ったところにある雑居ビルだった。だけど居酒屋やクラブの名が羅列する中に該当の店名はない。

 ホームページを信じて地下二階までエレベータで下りると、頑丈そうな真っ黒い扉のすぐ横に『691』と書かれた白い看板とインターホンがあった。

「ロックワン……。ここみたいだ」

 柊平が、意を決したようにボタンを押す。すると「少々お待ち下さい」と返ってきて、すぐに開いた扉から「いらっしゃいませ」と男性が出てきた。彼が背にする内扉の向こうから、聞き取れないくらいかすかな話し声がしていた。

「新規なんですけど」柊平が言う。

「こういったお店も初めてですか?」

「はい」

「では、お二人ともこちらへのご記入と、身分証と保険証のご提示をお願いします。今日は緊縛講習がありますが、お二人は参加されますか?」

「はい」

「あまり時間がないので、先にこちらの記入を」

 ボード付きのシートと利用規約が渡された。簡単な説明を受けながら記入して、免許証と保険証とともに渡す。トラブル対策でもあるのだろうけど、いけないことをしているようで、なんだかドキドキしてくる。

「ありがとうございました。入会金と利用料と講習料で、二万円になります」

 金額に目を開いた私に、柊平がこそっと「俺が」と財布を出した。非日常を買う感覚がじわじわと迫ってくる気配がした。

「僕はスタッフの岩谷いわたにです。ここではトラブル防止の観点から、本名以外のお名前を名乗ることを推奨しています。じゃ、中へどうぞ」

 岩谷さんは朗らかに笑ったあと、扉を開けて先導した。ノリのいいクラブミュージックが、会話の邪魔にならない程度に流れているのが聴こえてきた。

 上がり込んだ先にまず、更衣室にあるようなロッカーがずらりと並んでいる。

「荷物はこちらに入れてください。携帯操作はここかカウンターのみ。お客さん同士の連絡先交換も、ご遠慮いただいております」

 言われたとおりロッカーに二人分の荷物をしまい、スプリング付きの鍵は柊平が持った。

「では店内に参りましょう」

 岩谷さんはその先の黒いカーテンをくぐり、私たちを招いた。

 入ってすぐに、居心地のよさそうなバーカウンターがあった。六つ並んだ白いスツールソファに男性が二人と女性が一人座っていて、バーテンダーの男性と話している。棚にはお酒がずらりと陳列され、種類も豊富だった。

「ソフトドリンクと一部アルコールは利用料に含まれているので無料。カウンターの右奥に行くとシャワールームとトイレ、更衣室が並んでます。で……」

 そこを過ぎると拓けた空間が広がった。ローソファや小さなテーブルが点々と置いてある。壁には鞭や縄もかかっていた。

「ショーと講習は、あの壁際のステージでやります。あと十分ほどしたらお声がけします。それから向こうがプレイルーム」

 軽い手振りで示した先に、扉が三つ。時間が早いせいか使っている人はいないようで、半開きのドアを一つ開けて中を見せてくれた。四畳くらいの広さで、オープンスペースと違ってさらに暗い。

「利用する際はスタッフにお伝えください。中はオートロックで、同意さえあればスワップも相互鑑賞も可能です。絡みたい方がいたら、スタッフに申し出てくれればお膳立て程度のセッティングはします」

 話がとたんにディープになった。立て続けに並んだ言葉が刺激的すぎてぽかんとする。

 スワップ? 相互鑑賞? 絡みってなに?

「プレイ時にはカップルでも必ずゴムの着用を。置いてある箱からサイズに合わせて取ってください。ほかにはおもちゃなんかもあるので、お好きにルームへ持ち込んで構いません」

 出てくる単語は卑猥なのに、説明は終始淡々としていて、混乱を堪え平静を装うのでいっぱいいっぱいだった。。

 柊平をちらっと見たらすでにとろけそうな顔をしてて、そこはかとなく温度差を感じた。

「あとはコスプレの衣装もありますが、なにか着ます?」

「へっ? い、いえっ、大丈夫です……」声をひっくり返しながら断ると、岩谷さんがわかりましたと笑い混じりで言った。

「店内はこんな感じです。質問ありますか?」

 私たちは互いに視線を交わす。私は首をひと振りし、柊平が瞬きで頷いた。

「ありません。ありがとうございました」

「では時間までくつろいでてください。ただし、緊縛の前にお酒は飲まないようお願いします」

 そう言われたはいいけれど、どうくつろいでいいのかまるで勝手がわからない。どうしたものか柊平に聞こうとした瞬間、

「あ、カナちゃん」

 岩谷さんの声にそちらを向いた。

「岩谷さーん。この衣装どう? 変じゃなあい?」

 肩で揃ったボブヘアが似合う、小柄で幼い雰囲気のかわいい女の子が立っていた。白いワイシャツ一枚で、ショーツの三角が裾から覗く。ノーブラらしく、胸の豊かさも乳首の位置も丸わかりだ。私はやり場に困った目を慌ててそらした。

「いいじゃんセクシーで。ってかショー前にどうした? エイジさんは?」

「スタッフルームで縄のチェック中。講習会、何組来るのか訊いてこいって。カナも演者なのに人使い荒ーい」

「まったくあの人は……。今のところ二組。たぶんあともう二組来るはず。そんくらい自分で訊けって言っていいよ」

「りょーかーい。あれえ? 見ないお顔。ご新規さん?」

 きょろっとした彼女の目が移ってくる。呆気に取られた私たちが返事に窮していると、

「うん。講習会にも参加するって」と岩谷さんがフォローしてくれた。

「そうなんだぁ。今日のショーで縛られるカナでーす! 楽しんでってねえ!」

 満面の笑みで手を振られ、思わず苦笑いになりながら控えめに手を振り返す。だけどそれを見たか見てないかというくらいの身軽さで、彼女はステージの先のほうへ駆けていった。

 縛られるってことはM、なのだろうか。なんて明るくて人懐っこいんだろう。ちらりと見上げた柊平は、鼻の下を伸ばしてぽーっと呆けた顔をしていた。

「ごめんね。彼女、ここの近くのフェティッシュバーの子なんだけど、だいたいいつもあんな感じで」岩谷さんが軽い調子で言う。

「げ、元気なんですね……」

「エイジさんとのここでのショーが久しぶりだからテンション高いのかも。あ、エイジさんて、緊縛ショーと講習会の講師をする緊縛師ね。ホームページの今日のイベント告知のところにプロフィールを載せてるから、興味あったら見るといいよ」

 すっかり敬語が崩れた彼を見送って、「とりあえずなんか飲もう」と、柊平を誘った。

 カウンターではさっきの三人がまだ喋っていた。一つ席を空けてスツールに座ると、顎ひげを蓄えうなじのやや上で髪をひとつ結びにしたバーテンダーが、「ご注文は?」と聞きに来る。

 ジンジャーエールを二つ頼み、柊平はポケットからスマホを取り出した。

「さっき言われたやつ?」

「うん。見ておこうと思って」

 首をせり出し私も画面をのぞき込む。イベントページにある小さな写真と簡易プロフィールを、柊平が二本指で拡大した。

 真摯な面持ちで女性を後ろ手に縛る横顔。底深さが窺える野性的な瞳。そのくせやわらかそうにウェーブした、首にかかる髪。

 千堂せんどう瑛二えいじ、三十四歳。緊縛師・フォトグラファー。記されていたのはそれだけだったけど、ここでなにが起こるのか判然としなかったものが急に明るさを帯びた。この人があの女の子を縛り、私に緊縛を教えてくれるのだ。

 どうぞ、グラスが二つ置かれ、私たちはそれぞれを手に取った。

「コンペ受賞おめでとう」

 思い出したようにお祝いを口にして軽くグラスをぶつけると、柊平ははにかみ「ありがとう」と言った。

 本人からは今の今まで報告もなにもないまま。それもあって、すごいねとか、やったじゃんとか言い足せそうな言葉は、うまく声にならなかった。真緒が言うより大したことではなかったのかもしれない。

 複雑な気分をかかえたまま、グラスを静かに傾ける。お酒の力でも借りられればよかったのに、それすらもらえないのがどうにももどかしかった。


 時間です、と声を掛けられ、ステージ前に向かう。お客さんは十五人ほどで、スーツの人やカップル、おじさん、女性とさまざまだ。

 さっきは気づかなかったけど、そこは数センチ高い半径三メートルほどの半円状のステージになっていて、みんな周りを囲むように床に座っている。上を見ると、手の届きそうな位置にフックが降りていた。

 照明がスポットライトだけになり、ピアノの調べが聴こえてきた。そこへカナさんがあの格好でゆっくりと歩いてきて、ステージの上に横を向いたまま正座した。明るく手を振ってきた子と同じと思えないくらい、妖艶で気だるげだった。

 その彼女に、男の人が静かに近づいてきた。写真で見た『瑛二さん』だ。左手に縄の束をかかえている。彼のまなざしは鋭くまっすぐ彼女だけに注がれ、私たちのことなど目に入っていないかのようだ。

 彼の全身を見上げる。黒のパンツにグレーのTシャツで、背が高く凛とした様子は猛禽類の出で立ちを思わせた。

 彼女の真後ろに立った彼は、左手の縄をパッと床に落とし、床に膝をついて彼女を抱きしめた。まるで恋人にするような、深い抱擁だった。

 これから縛るのに、どうしてそんなに愛情にあふれた抱き方ができるのだろう。

 思ったのもつかの間、今度は首を締めるかのように両手が巻きつく。その手は緩やかに彼女の腕から手首、手のひらへ。それから再び首を撫で、顎を捉えて彼はそのまま彼女を上に向かせた。

 上下で絡まる二人の視線。やがて彼は右手で彼女の大きな目を覆い、手振りひとつで閉じさせる。はあっ、と息を発して、彼女の頭はかくんと前に落ちた。

 まだそれだけしかしていないはずなのに、高揚感があった。興奮とか欲情とかそんな単純なものじゃないなにかが、全身を粟立たせた。

 ただただ、正面の光景から目が離せない。

 縄をほどいた彼は、彼女の両腕を撫でるようにして背に連れていき、上下に重ねて縄をかけた。しゅっ、しゅるっ、と縄を手繰るたび、軽くも厳しい音が空と床を叩いていた。手首を括ったその縄は、左の上腕へと向かう。

 彼女を優しく抱くように胸の上にかかり、右の上腕へ。背中を回りもう一周。二の腕にわずかに食い込んだ縄が、彼女の柔らかさを伝えていた。彼がなにかを囁いたのか、彼女が小さく声を漏らす。

 戻ってきた縄は起点の一本と背の一本を通してぐっと引かれた。彼女の手首が背の縄に窮屈そうに近づいて、背がそらされる。

「あ……」

 発した声が自分のものだと気づいて思わず手に口を当てた。

 ずっと彼女を見ていた彼の目が、ほんの一瞬だけこちらに向けられた気がした。今の声、邪魔でもしてしまったのだろうか。

 だけど彼は何事もなかったように、新たな縄を足して胸の下を括る。彼女を抱きしめるように、何度も縄を回していく。そのたびに彼女の躰は、縄に任せて小刻みに揺れていた。

 背から首の脇を通って胸の下の縄をくぐり、また背に戻る。胸が形よく張り出し、存在感を主張する。縄に挟まれた彼女の豊かな柔肉は、シャツ越しだというのに写真で見るよりもずっと背徳的に映った。

 彼は天を仰ぎ、うしろで結んだ縄をフックに掛ける。それからまた彼女に何かを囁き、縄を力いっぱい引いた。

「んぅっ……!」

 彼女がたまらずといったふうにうめき声を上げた。上半身が持ち上がるにつれ彼女のお尻は浮き、太ももが伸びて、膝がぎりぎりつくかというところで止まる。そして彼は彼女の肩に手を置くと、私たちのほうを向かせた。彼のなすがままの彼女の半開きの口から、喘ぐような息が聞こえる。

「……カナ」

 熱い吐息混じりの低い声に呼ばれた彼女は、ゆらりと気だるげに顔を上げ、胸を張った。その彼女を褒め称えるように、彼はそっと彼女の頬をさすり、唇の端に口づける。

 彼女が閉じていた目をうっすらと開けた。上気した頬。潤んだ瞳。その表情はまさに恍惚としている。

 なんて、綺麗なのだろう。まるで開花だ。

 両手で塞いだままの口から、思わずため息がこぼれた。

 彼は最後に愛おしそうに彼女を背後から抱きしめて、胸に置いた手を時間を掛けながらお腹、腰、太ももと順に撫でる。

「はぁっ……」

 今度は彼女から声がもれた。

 彼が彼女から離れ、スポットライトが彼女だけのものになる。この異様な空間の中で、彼女だけが照らされていた。

 戻ってきた彼は、手にしたカメラを構えて彼女に向けた。

 シャッターが切られ、彼女の躰がぴくりと跳ねる。この空間ごと切り取るように一回、二回、三回。力強い音が鳴るたびに、彼女の肢体に角度が生まれた。

 満足げに笑った彼は、カメラを床に据えて立ち上がり、フックの縄を緩めてゆっくりと彼女を地上へ戻す。

 一本ずつ丁寧に彼女に巻かれた縄が解かれていく。解くときも抱きしめるように、結び目の一つ一つすらも慎重に。

 最後には、眠りに落ちたお姫様を寝かせるかのように、彼は自身の膝の上にそっと横たえた。それを合図にしたように音楽もスポットライトも消えた。

 真っ暗になった視界の中で、私の頭は闇に捉えられたように呆けていた。


「遥香ちゃん?」

 柊平に声を掛けられて、ハッと顔を上げる。

 照明が灯されたステージで、演者二人はその場に座して頭を下げている。沸き起こる拍手に、私は弾かれたように手を叩いた。

「大丈夫?」拍手に紛れて柊平が耳打ちする。

「あ、うん、なんか……、ぼおっとしちゃった」

「ね、凄かったね」

 なんだろう、この感じ。映画ですごく感動したときによく似てる。

「このあとの講習に参加される方で、パートナーがいない方は?」

『瑛二さん』が低いけど張りのある声で周りの人たちに尋ねる。一人の男性が手を挙げた。

「僕いないです」

「じゃあ今日はカナ……、彼女を受け手に受講してください。講習はこのあと、十五分後から」

 彼の号令で場は一旦お開きになった。

「……柊平。私、お手洗い行ってくる」

 彼に断りを入れ、立ち上がる。とにかく一度一人になって、頭を整理したかった。

 油断すれば転んでしまいそうで、慎重に歩く。やっとの思いで女子トイレにたどり着き、個室のひとつに鍵を掛けてようやく息をついた。

 さっきのは一体なんだったんだろう。今もまだドキドキが続いている。

 思っていた感じと全然違う。もっと荒々しかったり、女の子が苦しそうにするものなんじゃないかって。なんならロウソク垂らしたり、鞭で叩かれたりするんじゃないかって。

 だけどさっきのは、ただ縛っただけなのに、セックスよりもずっと深い繋がりがあるように見えた。

 個室を出て手を洗いついでに鏡を見る。表情筋を動かしたつもりはないにもかかわらず、むず痒そうに歪んだ顔と目が合った。

 とたんに頭がわーっとなり、ペーパータオルで乱暴に手を拭いゴミ箱に放る。と、扉が勢いよく開いた。

「あ、さっきの子だぁ」

 カナさんだ。ステージの妖艶な姿から一変、最初に出会ったときの調子で明るく声をかけてくる。

「お、お疲れさま、でした。カナさん」

「やだあ、さん付けなんて柄じゃないよぉ。ねっ、見てた? どうだった?」

 小走りで迫られ両手を握られ、思わずたじろぐ。格好に、その胸に、なによりギャップにドギマギして視線が泳ぐ。

「あ……あの、凄かったです。カナ、ちゃん」

「うんうん、それから?」

「思、ってた緊縛のイメージとは違ったけど、圧倒されたし……。きれい、でした」

「うわぁー、うれしい!」

 ステージ上で恍惚としていた様子からは想像もつかないほど、彼女はよく笑ってよく喋った。

「瑛二さんはねぇ、ぶっきらぼうだし曖昧で独特だけど、いつも絶対きれいにしてくれるんだ」

 そう言ってうっとりとしたため息をつくと、私をのぞき込んだ。

「講習会も出るんでしょ? 縛り手? 受け手? ていうかお名前聞いてないや。なにちゃん?」

「は、遥香です。一応彼を、縛るつもりで」

「わあっ、女の子で縛り手になってくれるの、うれしいなあ。縛るの上手になると、女王様にだってなれるんだよ。がんばってね、遥香ちゃん!」

 さっきと同じように手をひらひらと振り、カナちゃんは個室へと消えた。

 女王様って、私が。

 響きが全然しっくりこなくて、想像を巡らせながらそこを出る。

 脳内でのその姿は、仮面をつけ、黒光りするピチピチのボンデージで、網タイツやハイヒールを履いて鞭を持ってる強い女性だ。私なんて到底らしくない。

 結局感情の落とし所は見つからないまま、私はステージ前に座り込む柊平の隣に腰を下ろした。

「柊平は、どうだった? さっきの」

「そうだなあ。思ってたよりもエロさは感じなくて、むしろ官能的というか、美、っていうか」

 言葉を探すようにしながら柊平が述べる。

「きれいだったなぁ……」

 頷きついでに、うつろな声でもう一度言った。

 縄を手繰る緊縛師、空を切る縄、自由を奪われているはずなのに開花したみたいだったカナちゃん。官能的で背徳的で、秘めやかな美しさを見せつけられた。

 興味本位だけだったのに、なんて世界を覗いてしまったのだろう。

「……柊平もされたくなった?」

「う、うん……。遥香ちゃんは? 縛ってみたいとか縛られたいとか思った?」

「私、は……」

 縛ってみたい、縛られたい、とかそういうのは、なんかちょっと違う、ような。

 あえて言うのなら、どっちもしてみたい。技術そのものに惹かれてる気がする。その技術によって引き出される空気とか、世界とか、美しさに。

「……どっちもあるかな。とりあえず今日は縛ってみるけど」

「うん、わかった」

 私の思いなど露ほども知らない様子で、柊平はうれしげに笑った。


「それでは、講習会を始めます。講師を務めます、千堂瑛二です」

 ステージの周りを囲むように集まった私たち参加者七人の前で、瑛二さんは座ったまま自己紹介をした。

 Tシャツとショートパンツに着替えたカナちゃんが、人懐っこい笑みを浮かべその隣でぺたんと座っている。一方改めて見る瑛二さんは、近寄りがたい強面をにこりともさせず、愛想というものがまるでない。

「今日は、先ほどお見せした後手(ごて)縛りのベースとなる三点留(ど)めを教えます。緊縛の基礎とも言える縛り方です。緊縛では縄を受ける人を『受け手』、縛る人を『縛り手』と呼びます。使用するのは七メートルの麻縄(あさなわ)。じゃあ、縛り手になる方は前へ」

 言われて、おず、と前に出る。女性の縛り手は私だけだ。手渡された麻縄は段ボールのような色でやわらかく、埃っぽいにおいがする。想像よりもずっと軽い。それでいてなぜか、言いようのない重みを感じた。

「最初に、緊縛をするうえで一番重要なことを。AVなんかじゃ軽く扱われている印象も多いけど、実際の緊縛はあらゆる危険が伴います。どんなときでも必ず同意の上ですること。受け手が嫌がる行為はしないこと。それから近くに、鋏(はさみ)を用意しておくこと」

 そこで言葉を切り、彼は切れ味の鋭そうな黒い持ち手の鋏を掲げる。

「安全性の確保は縛り手の責任です。これができないなら、縄を握るべきじゃない」

 彼の重い声と言葉に周りがしぃんとした。瑛二さんが私たちの顔を見渡し、私は反射的にこくりと頷いた。彼がふ、と笑った気がした。

「それから受け手も、負荷が高かったり、異変を感じた場合はすぐに伝えてください。その際この場ではセーフワードとして、『レッド』と言うこと。ではまずは基本となる本結びの結び方から。カナ、腕」

「はーい」

 カナちゃんは慣れた様子で両腕を揃えて前に差し出す。瑛二さんは彼女の腕の前で縄を半分に折った。

「縛るときは基本こうして、半分に折ってください。一本だと皮膚へ負荷がかかり、うっ血や神経を痛める原因になるんで、二本同時に肌に当たるようにする。輪っかがあるほうを縄頭(なわがしら)、結び目のほうを縄尻(なわじり)と呼びます。最初は縄頭を利き手に取って手首に二回、上から下へ巻き付ける。縄は、縄頭のほうに肘から手首分くらいの長さを残してください」

 では始めて、と言われて柊平と向かい合い、半分に折った縄を二回、腕に巻き付ける。

「巻けたら下から上に向かってかぶせ、巻いた四本を全部巻き込んで左右に引く。左から来た縄は左へ、右から来た縄は右へ流すようにして、縄頭をできた穴に通して引く。このとき指二本分程度の余裕を持たせ、もう一度結ぶ」

 カナちゃんの手首と縄のあいだを瑛二さんの指が通って抜けた。ぎちぎちにするわけではないらしい。

 言われたとおりぎゅっと引くと結び目ができて、そこから動かなくなる。

「これはもちろんうっ血防止。目に見えて変色してなくても、指先が冷たくなってきたら拘束を解いてください」

 あっさりとできてしまった。案外簡単かもしれない。

「柊平、解いてもう一回やってみていい?」

「う、うん」

「解くなら、結び目に向かって縄をたわませるといい。解きやすくなります」

 瑛二さんが私たちを見て告げた。「え?」と返しつつたわませてみると、たしかに緩む。

「ほんとだ」

「できるようになったら、今度は後手ごてでやってみようか」

「さっきのショーみたいに、ですか?」

「そう。背で左右の腕に互いに触れる感じで、背中側に下から縄頭を通して頭の上まで引く。縄を掛ける位置は腕の外側な。内側は血管があって危ないから」

「わかりました」

 もう一回手首だけでやってみる。これはたぶんもう大丈夫だ。

「後手するから、うしろ向いて」

 柊平が私に背を向け、うしろで手を組んだ。柊平は躰がやわらかくないようで、手首付近にやっと縄が掛かる程度だった。

 さっきやったのをそのまま横にするだけで、難なくできた。周りのひとたちも同じように、後手縛りを始めている。

「では次。今度は本結びをする前に四本分の縄の張り――テンションを均一にさせる。縄と腕の間に指を入れて引き、四本すべてのテンションが揃っているかを指で確かめます」

 試しに今のテンションを見てみる。たしかになんだかバラつきがある。

 解いて縛り直す。指の余地を入れつつテンションを整え、こんなものかと首を傾げた。

「見ようか」

 瑛二さんがまたそばに来たから、「お願いします」と横にずれた。

「この一本だけ少し緩いな。でも上出来」カナちゃんを縛っているときと同じように、彼のまなざしは真剣そのものだった。

 自分でも再度確かめる。微妙でよくわからないけど、言われたらたしかにそんな感じもする。つまり彼は、さっきのショーの最中も常にそれらを確認しながらやっていたわけだ。

「続きいこうか」

 カナちゃんの背後で説明が始まった。

「縄尻を真上に引いて結び目を上に、そこを起点に左上腕から右上腕へ回して背を通りまた左上腕へ。縄を掛けるときは必ず相手の躰から縄を持つ手を離さないでください。テンションが緩む上に受け手も動いてしまう」

 瑛二さんの説明に合わせてか、カナちゃんがわざと動いた。

「この通りね。だから、抱きしめるように縄を回す。二週目を回すときは一週目との交点を一度押さえて回すと緩まない。このときも指一、二本入る強さにします」

 四本の縄がカナちゃんの躰に巻き付き、瑛二さんは指を動かして見せる。

「二週回したら起点からの二本の下をくぐらせて右下に抜く。そして上へ引く。襟留えりどめという形になります。これを作ると縛った手首が摩擦で動かなくなる。で、上の縄の上を通して下へ。襟留めの上から今度は左上へ胸縄の下をくぐらせて引く。で、ここに隙間を作り縄尻を通す。これが三点留めです」

 一気に複雑さが増した。上に下にとなんだか忙しい。

「まあ、ここは言葉よりやったほうが早いので、わからなかったら都度訊いてください」

 とりあえず、左腕へ縄を回してみた。そのまま胸にかけて右腕。左腕に戻すときに一度支えもう一周。起点からの二本の下……。

「くぐらせたら下に抜く。そう。で上。この交点持って、彼の手、少し動かしてみて」

 瑛二さんの指示に従い柊平の手首を握りなにげなく持ち上げた瞬間、「いぃぃぃっ!」と柊平が声を上げた。すぐさま瑛二さんが私の手をつかみ、元の位置へとゆっくり戻す。

「緊縛中は受け手を痛がらせるような急な動作は絶対にするな。動かすなら相手をよく見て無理が生じない方向に。つったり脱臼する危険がある」

 元々の強面の内から、怒気が増したのがわかった。否応なく「はい」と言うと、ふてくされる暇もなく彼の指導は続いた。

「上の縄の上を通して下、で回してそう。胸縄の下をくぐって隙間作って通して引く」

 言われた通りにすれば見事にそれらしいかたちになり、「できた」と呟く。

「うまいな。手先がやわらかいのか器用だ」

「ありがとうございます」

 怒られるのはいやだけど、できると楽しくなってくる。「柊平、もう一回やっていい?」

「いいけど先に休んでいい? 力んじゃったみたいで腕が……」

「えー……」

 手が覚えてるうちに練習したい私は、あからさまに不満をもらす。振り返った柊平は申し訳なさそうに眉を下げ、ごめんと言った。

「わかった。でもなるべく早くね」

 結び目を解いて縄を引くたび、先ほどのステージで聞いていたしゅるしゅると気持ちのいい音がする。縄のしなやかな感触も心地よく感じていると、

「きゃっ!」

 突然カナちゃんが叫んだ。険しい顔で背後の男性に詰め寄っている。

「ねえ。今わざとおっぱい触ったでしょう」 

「なっ、なんだよ、偶然当たっただけだろ」みんなが手を止めて二人に注目する中、男性の方がムッとして言い返した。

「カナ、どうした?」

「この人、胸縄締めながら触ってくる」

 すぐさま彼女のそばに駆け寄った瑛二さんに、カナちゃんは奮然と抗議する。男性は鼻の周りにしわを寄せ、バツが悪そうに言い訳を重ねた。

「だからちょっと当たっちまったんだよ。なにをそんな大げさな……」

「あんたにとってはちょっとでも、された方にしたら違うこともある。受け手が嫌がることはするなと最初に言ったはずだ」

 長身の彼が男性を見下ろした。細めた目の眼光の鋭さもあいまって凄みが増す。

「彼女はあんたのものじゃない、俺のパートナーだ。触れないのが不服ならよそ行ってくれ。そういう店はいくらでもあるぞ。まあこの辺じゃあ高くつくがな」

 鼻で笑った彼が放つ威圧感におされ、私も周囲もまたしぃんとした。

 受け手をそんなに大事に扱うなんて。パートナーと言ったけどまるで本当に恋人みたいだ。

「き……気を、つけます……」

「わかれば結構。カナは?」

「へーき。ありがと瑛二さん」

「んじゃ、どうぞ続きを」

 自分が言われたわけじゃないのにヒヤヒヤとして、促されても私はどこか上の空だった。

 これが、緊縛師。何度か瞬き、瑛二さんをちらりと盗み見る。イメージしていたただ偉そうで威圧的なご主人様像と、彼の姿はまったくかけ離れている。

「遥香ちゃん。もう大丈夫だよ」

「あ、うん……」

 やっぱり私、とんでもないことをしに来てしまったようだ。


「では本日の講習はここまで。また来週も同じ時間で講習があるんで、よければぜひ」

 瑛二さんとカナちゃんが一礼して、講習会は終了した。触った触らないのひと悶着以降はそれなりに和気藹々としていたけど、ひりついた空気は結局最後まで引きずった。

「遥香ちゃん。俺トイレ行ってくる」

「うん。待ってる」

 ほかのみんなも立ち上がって散り散りになったけど、私はなんとなくその場から動くタイミングを失い、カナちゃんと瑛二さんが縄を片づけるのをぼんやりと見ていた。

「君たちはセフレ? カップル?」視線に気づいたのか、瑛二さんが私に尋ねる。

「カップルです」

「ふうん」

 訊いてきたわりに返事は素っ気なく、怪訝に思って「どうしてですか?」と逆に尋ねた。

「いや、なんとなく」

 言葉を濁され眉をひそめたところで、カナちゃんが口を挟んできた。

「瑛二さんのその曖昧な言い方、ほんとウザぁい」

「カナ。お前ウザいとか言うな」

「ね、わかんないよねえ、そんなこといきなり言われてもさあ」

 とたんにぶっきらぼうな物言いになった彼そっちのけで私に投げかける彼女に、無言で頷いた。彼は一体なにが言いたいんだろう。

 しばらく瑛二さんは縄をしゃっしゃっと手繰っていたけど、ひとつため息を吐いて私に意味深な視線をよこした。

「お前、愛してないだろ」

「え?」

「彼のこと。違う?」

 不意を突かれて目を見開く。

 この人はいま、なんて言った? 柊平のこと愛してないって言った?

「そのぶんじゃ気づいてねえか」

「気づくもなにも、そんなことない! 今日だって、彼が縛られたいって言うから来て……」

「縛ってる最中なんも感じなかったか?」

「言われたことをするので精一杯で、そんなの――」

「じゃあ時間の問題だな。断言してもいい」

 いくら反論しても一向に効かず、むしろ私のほうに焦りが生まれていた。そのうち、さっきの男性に向けたような鋭いまなざしが私を刺す。

「……縛って、なにがわかるって言うの?」

「さあな」

「縛れるようになったらわかる?」

「知るか。んなもんお前次第だ」

「ならもっとわかるように教えてよ」

「ああ?」

 突然吊り上がった声にたまらず怯む。すると「うわあ、瑛二さんイジメっ子ー」と、カナちゃんが助け舟を出すように明るく混ぜ返した。

「イジめてるわけじゃねえよ」カナちゃんを軽く睨んだ瑛二さんは、めんどくさそうに頭に手を差し入れ、私に向き直る。

「来週。同じ時間に来ればいい」

 なにを言われるのかと身構えていた私は、は、と間抜けな声を放った。

「講習。ただし一人でな。あと三回も来れば、とりあえずの基礎は覚えられる」

「教えてくれるの?」

 思わず身を乗り出すと、瑛二さんが肩を竦める。

「こっちは商売だ。金さえもらえりゃ誰でも」

「そうじゃなくて、いま言ったことの意味」

「それはお前が自分で掴むべきもんだ。俺には関係ねえ」

 また突き放した物言いをされた。悔し紛れに彼を見据えると、彼はまっすぐな視線をよこした。

「……名前は?」

「遥香です。前嶋遥香」

「はるか……」

 瑛二さんが逡巡するように口元に手を当てて私の名前を繰り返した瞬間、本名を名乗るなと言われたことを思い出す。瑛二さんは気にしていないのか、なにか閃いたようにまた私を向いた。

「ルカだな」

「ルカちゃん!」パンッ、とカナちゃんが手を叩き、私は「へ?」と訊き返す。

「これ、一応渡しておくわ」

 瑛二さんに一方的に押しつけられたのは、彼のプロフィールがそのまま書かれた名刺だった。

「……はあ」

「あとこれもやる。二メートルしかねえけど、ちゃんと使える麻縄だ。本結びの練習しとけ」

 左手はいつの間にかカナちゃんに握られ、右手には名刺と縄。真ん中の私が置いてけぼりになっている。

 戸惑いが広がっていく。だけどなにかが始まる予感だけが、私の胸に潜んでいた。


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