凍結しながら伏すように

@rabbit090

第1話

 何かが起こっている、そんな予兆はいつも外れるのだけれど、今回ばかりは違ったようだ。

 「ねえ、どうして固まったまま動かないのだろう。」誰かが問いかける。

 「そんなの決まっているよ、凍っているからさ。」誰かが呟く。

 「そうだ、そうだ。」皆は口々に言い合い、その場を後にした。

 リーゼントヘアーの僕は、いや、リーゼントと言ってもがっちり棒みたいなあれではなく、よく見ればややリーゼントと言える控えめな主張に過ぎないのだが。潔癖に固めた髪を自信として誇っている、つまりこれが崩れたら、僕は僕じゃなくなってしまうのだ。

 「おい、いいのかよ。こんなことをして、許されるのかよ。」やっぱり言わなくては、「良いも悪いも、あるのかよ。俺たちはただ見ていただけだ。あいつが凍ってい行く様を。」そして健一はそう言い放つ。

 僕の名前は牧田洋司まきたようじで、今は仲間3人とこの古い学校で放課後の雑談に興じている。僕たちは高校3年生で、もうすぐ大人になるのだろう、そんな時期を過ごしている。

 誰だってミスというか過ちを犯すことはあるのだろうし、きっとそれを誤魔化したり受け入れたりしながら人生を渡っていくのだろう、と思っている。だが、だが僕らが遭遇した出来事は、到底スルー出来る事案ではない。頭からついぞ離れず、僕はどうにかなってしまいそうだ。

 人が、凍ったまま、死んでしまった?


 昨晩は極寒の夜だった。

 地球温暖化の影響で、あったかくなるはずなのに僕にはよく理解できない何らかの理由で生物が生存するには適さない気温になってしまったということだ。

 「生きているよ。」そう語りかけるのは和田、「生きてるって、だってもう誰とも会っていない、人間には会っていない。」そう言い募るのは健一で、「まあね。」これは僕、牧田洋司のセリフだ。

 そして、「……。」黙ったまま僕らを見つめついてくるのは4人目の仲間、真家濱谷まさいえはまやである。

 僕はコイツに対してはっきりと良い印象を持っていない、いや、薄気味悪いとさえ思っている。でも、でもこの男はなぜか僕らのグループに混ざっていて離れようとしない、本当はなぜなのか理由を知りたかったが、和田も健一も何も言わないのだから聞けず知りようがない。

 「いくらになるの?」僕は言う。

 「一体いくらになるんだ、あのハウスに立ち入るには。」

 ハウスとは急に発生したこの危機的状況を打破できる唯一の希望であった。その存在を知ったのはラジオの放送で、通信網が途切れる前に政府からその存在を伝える放送が流されたのだ。

 そもそも僕たちは日常を当たり前として送っていたはずで、急に突然この極寒の地に高校生4人で立ち向かわざるを得ない状況になるなんて、本当に理不尽だろうと思う。だいたいもう人の気配もなくたまたま頑丈な学校という建物に夜中侵入していたおかげで僕たちは危機を、死の危機を回避することができ、そこで物資を調達し噂に聞くハウスを目指しているというわけだ。

 あり得ない現実が事実として目の前に存在し、僕らは何も気にしない様にと目を背ける。だが、たった一人、あいつは真家濱谷は、そのぎらぎらとした眼光をこの危機的状況の中でも弱めることは無く、より一層光らせているのだ。言葉にするなら、何かを見定めているような、ずっと思考を巡らせているような、そのような雰囲気なのだ。

 「おい、俺の水どこだよ。」健一はそういうが、僕はこんな凍えて何者も凍てついてしまう状況でそのようなとんちんかんな発言ができるコイツをひどく冷めた異物を見つめるような目で見つめる。それは今の状況に対するストレスを含んだ当てつけでもあるのだけれど。

 「お前また何言ってんだよ。水なんて氷を溶かしてなめて摂取するしか方法がないじゃないか。ホント、ふざけんなよって話。」和田は結構はっきりと自分の意思を他人にぶつけるタイプで、でもそれが僕ら4人の関係を案外まとめるための塩となっているのかもしれないと思う、つまり引き締めるって感じ?

 とうとうと歩くのだが、やはり外はまっとうに歩ける状態ではなく、すぐに学校に戻ってきてはまた激しい絶望感に襲われるのだ。戦略の立てようのないというか、そんなものを立てている悠長な余裕などは無い、ということだ。

 幾晩も幾晩も過ぎ去っていく日々の中で僕たちは掴んだものがある、それは絆、というものだ。ああ、いい響きだ、僕たちは団結してまとまって一緒になって、もう尽きかけた食糧を目前に真家濱谷にぶつける。

 ため込んできた不満を、抑えきれない衝動を。

 僕は元の世界では割とまともな人間として生きていたはず、なのにたかが死ぬか生きるかなんてことなのに、あっさりと理性を失ってしまった。だが罪悪感というよりも仕方がないだろうという思いの方が強かったため、特段何も感じていない。

 他の2人は、健一と和田は。

 「………。」

 「………。」

 無言で歪めた顔を貼り付けながら虚空を見つめている、ようだ。特に和田なんかはひと段と生理的に限界を迎えているようだ。もう、口元は締まることを忘れていて、体も震えている。

 僕は、僕はこんな状況になって知ることになってしまったのだけれど、悪い奴らしい。すごく冷静に他人を見つめ、足元しか見えていない彼らを上から動かすことしか頭で考えられない。これはやっぱり、悪魔的だと感じている。

 そんな悪魔がこの集団のリーダーとなって先頭に立つようになり、一層組織化した社会のごとく無駄をそぎ落とし働き始めた。

 僕は、牧田洋司はどす黒い、つまり彼は正気じゃない。


 夏の日だった。あったかい心地を感じながらウッドデッキに寝転がる。すごく優雅だ、なんて思いながら海風に当たっている。

 「ねえ、ちょっと来て!」

 何かせかすような声が聞こえる、一体何だってんだよ、でも心は穏やかでのんびりとしているから、「なーに?」とすっとぼけた声を出す。

 「洋司、何でお前昨日約束を破ったんだよ。」そうきつい口調で問い詰めてくるのは同級生の男の子。

 あれ、約束って何だっけ、そんなものしていたのだったっけ。そんなふうに思っていると、「おいなんか言えよ。お前が取り決めた事だろ…!」そう言って手に掴んだ何かを見せつけてくる。その手は震えていて、その子は今にも泣きそうな顔で怒っている。何で、そう思っていると、「お前、正気じゃないよ。俺を巻き込むな!」そう言って走り去ってしまった。手に掴んでいたものはぼとりと床に落ち、広がっている。

 それは、鳥のむくろであった。


 は、気付くと僕はベッドの上に伏せっていて、体を起こす。

 今日は一段と気温が高いということを、昨日テレビ番組を見て知った。

 小心者の僕は常日頃から起こるであろう些細な変化にも意識を向けていないと、気が休まらないのだ。

 あたたかい。

 まさにその通り。

 数か月前の異常気象、異常寒冷からすぐに復帰した世界は元通りになった。あれは一時的なものであったらしく、すぐに凍り付いたような世界は無くなって元通りの穏やかな場所が帰ってきた。

 そう、場所だけは、だって死んでしまった人は生き返らないのだし、してしまったことは取り戻せないのだし、やってしまったことは取り返しがつかない…。

 和田と健一は相変わらず床に伏せっている。

 あいつらはもう起き上がれないのかもしれない、二人ともなんだか気力をそがれたようなうつろな目をし続けているから。でもじゃあ、一体僕は?一体僕はどうなっているのだろうか、答えは現在逃走中という身の上である。

 やらかしてしまった、あの地獄のような環境から抜け出すことに成功したものの、どうやら僕はもう元には戻れないのらしい。体中から本能のような理性をぶっちぎった感覚がほとばしり、止められない。一言で表すのだ、止められない、と。

 「牧田洋司容疑者が現在逃亡中であり、白いパーカーにバッグ等を身につけず身長は175㎝程ということです。」

 テレビのアナウンスは僕の特徴的な部分を告げている。

 「牧田容疑者は、殺人の疑いで指名手配されております。みなさま、情報がございましたらこちらにご連絡を、ぜひご注意ください。」そう締めくくり、僕は呆けた顔でそれを見つめる。

 人を殺してしまった、それは衝動的なものだったのかどうかも本当は分からない。ただ、気付いたらしまった、なんて思ったものだけれど実行している時の僕は冷静そのものだったと思う。

 「……です。」ベッドサイドのテレビはじりじりと音を途切れさせながら情報を懸命に吐き出しているようだ。

 「水早斐みずはやいさんを殺害した容疑で指名手配されています。」


 「お母さん。」

 語りかける子供はどこか物悲しく不安そうな顔をその声の先へ向けている。

 僕だ。

 僕は、真家濱谷という。


 「はあ、はあ、はあ。」ああ、もう死んでしまうのだと実感する。

 まさか自分が、殺されて死ぬなんて、しかもまだたったの18歳で、同級生に殺されるなんて、それは案外痛いものであった。

 物理的にもひどく苦しい、呼吸が苦しい、できない。

 「ヒューヒュー。」

 思えばろくな人生ではなかったように感じる、周りを見回すと、当たり前を当たり前として享受している人間の多さに少し辟易としていた頃だったから、だからあいつら3人にあの危機的状況の中で犠牲を強いられたのは特に辛くはなかった。だって、理由が明確なのだから、ただこんな理不尽な状況の中で人間の本性があらわになっただけなのだから、十二分に理解できるし、咀嚼してしまえる。

 だが僕は知りたい、僕はなぜおかしいのか。

 一番、辛い、だって僕は変なのだから、理由なんか分からない、教えてくれよ。

 ロクすっぽいいことのなかった人生だった、この走馬灯のような記憶の渦と感情の入り乱れに戸惑っている、非常に心地が苦しい。

 終わりまでこんなものなのかと、世を嘆く。

 消え入りそうな意識を何とか保ち続けようと僕の身体はなかなか終わりというものを迎えさせようとはしない、だから。

 いい加減にしてくれ、いい加減にしてくれ、いい加減にしてくれ。

 「僕は辛くて痛くて苦しくて、死にそうなんだ。死なせてくれ。」そう呟きながら、叫びながら、もうそろそろかもしれないと意識が遠のくことを感じる。

 やっと、そう思ったのに。

 「まだだ。まだ、死んではいけないだろう。」

 誰かの声が耳元でこだまする。僕は体に生暖かいぬくもりを感じながら羽が生えたような軽い感覚を覚える。

 だから、この飛んでいきそうな感覚なのだから、やっぱり…。

 「僕は死んだんだろうか。」

 気付く。はっきりと理解する。僕はどれだけの間意識がなくなっていたのかは分からないが、覚醒した時にはすでに自覚した。

 生きている、と。

 そういえば、そうだ、あの声の主は誰だろう。確か、あのぶっきらぼうな口調に似合わないかわいらしい声をした女だったように記憶している。きっと、僕をあの瀕死の状態から何らかの方法で蘇生のように命を救ってくれた存在、何者か。

 僕の勘が告げるところでは、多分人間ではない、というか常人ではない。だって僕ははっきりと助からない致命傷のようなものを負っていたし、あの極寒の世界の中で普通に助かるという見込みはなかったはずだ。だから、何か常識では測れない人並み外れたチカラを持つ何者かだということだけは、断言できる。


 水早斐は苦悩してしまった。

 それは、取り返しのつかない悪行に当たる。

 え、だって大したことじゃないだろう、苦悩なんて生きていれば人類皆が経験して当たり前なことだと思うのだから。だが、だが決して水早斐は、私は、それを行ってはいけないのだ。

 宗教的な家に生まれた。

 新興宗教である。母一人子一人で暮らしていたのだが、ある日私が3歳になった頃母は「イウソア」という名前を掲げ宗教を立ち上げる。中身は、除霊だ。

 ざっくりというと人には霊が付きまとっているタイプの者がいて、それを取り払ってやろうといういわゆるシンプルで古典的な考え方をする。

 だが、全く他と異なっているのは、その力が本物だということであろう。

 私は、霊を目視することができ祓うこと、つまり殺すことができるのだ。

 実は母は、いや母も幼いころから霊というものを目視することができ、私がその遺伝子を受け継いだというわけらしい。だけど私は生まれて初めて物心がつき対峙した霊に殺されそうになったから、殺してしまった。

 今になっても疑問は尽きないのだけれど、そもそも霊というのは何なのだろうか、一般論では死んだ者の成れの果てということだろうけれども、私には決してそうは思えない。あいつらは、触れるし触ってくるし襲ってくる、到底もともと人間であった存在ではないだろうと感じている。

 私の手には光が宿る。こんな言い方が正しいのかどうかはよく分からないのだけれども、ぼうっと光り始めて私が除霊したいというか、まあ死ねとはっきりと目の前の例に対して念を込めると跡形もなく消えてしまう。ひどく神秘的に映るのだから、宗教として立ち上げたい母の気持ちも分からないでもなかった。

 だって母はたった一人、よりどころもなく味方もおらず孤独だったから。宗教を、「イウソア」を立ち上げたことで娘に生じる異変も自身に降りかかりのし募る不幸も何もかも溶かしたのだ。

 だから、私は苦悩してはいけないし、それは決してやってはいけない禁忌に該当するのである。つまり、私が思い悩むとこの除霊の力はかすんでいくのだ。何も思い悩むことなくただ前だけを見て素直に純粋に突き進むことだけが、この力を発現させる条件なのである。疑問は許されない、もちろん不安も。

 人と会ったのは久しぶりで、だから私は少し興奮していた。自然しか存在しない山の中で獣とばかり対峙していたものだから、同じ年頃の男を見てこうなんていうか、人間の感覚を取り戻したのかもしれない。

 そいつは、「君が、何でここにいるの?」と言う。私は全く何のことだか分からずすっとぼけた顔をして返答する「何でって、私はここに住んでいるから、ずっと。」と答えになっているのかなっていないのか分からない問答が行われる。

 この男はなんだか私を知っているような口ぶりで、そして恐ろしく疲れた目をこちらに向けている。

 だから私は「あなたこそどうしたの?すごくやつれているように見える。」と逆に言い放つ。しかしそういう私の質問には何も答えず、ただ虚空を見つめているような表情で呟く。「君は、ここにいてはいけないんじゃないか、だってそう言っていただろう。」何のことだか分からないことを発言し、私の目を見据えている。

 一体何のことだ、この男が呟いているのは、何のことだ。

 不思議な現象ならご存じの通り幼いころから大抵多くのことは経験してきたつもりである。だが、まだ、まだ私なんかが知らない未知があるというのか。

 「君は、死んだんじゃなかったのか。」

 は?

 私は男の呟いた言葉の意味が一つも理解できず、つい汚い疑問符を吐き出してしまう。

 「は?」

 そして嫌に冷静な目ではっきりとその男は告げる。

 「君は、だって僕が殺したんだから。」

 だから私は、「あなた誰?」と言い、「僕?僕は…牧田洋司。」とその男は言った。


 未来は、一体どこに存在するのだろうか。

 宇宙にはもしかしたらあるのかもしれない、そんなことをこの風の吹く河川敷の傍で考える。

 僕は若いころに罪を犯して、その後50年間逃走を続けている。というか、こんな長い間逃げ続けることができるなんて、案外僕は生命力が強いのかもしれないなんて、どうでもいいことを思ってしまう。

 たった、たった一人で息をするようにこの街に潜んでいる。人とすれ違うことは極力避けなくてはいけないのだから、とにかく神経をすり減らさなくてはならない。

 疲れた、これが今の率直な気持ちである。

 もう人生という牢獄から抜け出してもいいんじゃないかとここ最近はずっと頭の中を離れない思考に振り回されている。そう、人生というのはいくつになっても何だか何かに振り回されているような感覚が付きまとうのだ。

 僕は水早斐を殺害した。

 あの時若かった僕と水早斐はあの山の中で出会ったのだ。

 特に意味もなく目が合って、それからしばらくはともに過ごす時間を送っていたのだが、だんだんと分かってきていた。

 早斐は、監禁されているって。

 早斐は何も知らないのだ、外の世界のことも、自身の置かれている状況も。僕はあの異常気象の世界から生還したのだから、つまり、友を手に掛けたのだから、逃げ出したかった。ただ日常を平穏に続行しようと意気込んでいるまっとうな世界から僕は抜け出したかった。

 捨てられるにあたいする。

 早斐はよくそのようなことを口にしていた。

 自分はくだらなくて価値がないのだから、捨てられるに値すると、思い込んでいた。僕に見せてくれたのは、そんな弱い彼女の素の姿だった。だから何だかこんなにぶっ壊れていた僕なんかが、彼女を、早斐を救ってあげたいだなんて、思ったんだ。

 だけど、だけど結末は。

 水早斐は牧田洋司に殺害された。

 悔しくて悲しくてもどかしい、とりとめのない感情に溺れるだけで、ただ現実は粛々と厳しく存在していた。

 

 「僕、一体何が起こったのか全く分からないから…。」

 そう呟く真家濱谷には記憶がなかった。

 意識を取り戻す前の記憶が。異常気象を通過した世界はひどく混乱していた。真家濱谷はだから思い出そうと、苦心している。せめて過去の記憶でもないと、この拠り所のない世界では生き抜くことが困難に感じたからである。

 ただし体にはうずく感覚が残っているように感じる。

 どくどくとして不気味な感覚。でもいくら思い返してみても記憶は吹き飛んでしまっているのだから思い出せるはずもなく、ただ訳も分からずこの不気味さをやり過ごすしかないのだ。

 「真家さん、どうしたの?」

 あ、小早川さんだ。小早川さんは非常に可憐な人で一言で表すならモルモットといったところだろうか。人に対してモルモットだなんて失礼かもしれないが、僕の消し飛ぶ記憶のかけらとして残っている昔飼っていたペットのモルモットは非常に慈しんでいたような気がする。

 そういう感じで僕の記憶はつながりというものを失っていてまとまりというものを保ってはいないという感じなのだ。

 「小早川さん、今日早く出勤してるね。何で?」そう僕は彼女に問う。「ええ、実は家で嫌なことがあって…。」

 「父親が失踪したんです。」そう告げる。

 「そうなんだ、まあ今のご時世だしね。」と僕は軽く受け答える。

 そう、この大変なことを経験した後の世界はひどく混乱していて、常識ではありえない行動ですらも受容するという、受容せざるを得ないというなんとも不安定な形をしていた。だから誰かの父親の失踪なんてふっと吹き飛ばすように軽い話として扱ってしまう。

 だって、死ぬか生きるかですら不確かな世界なのだから。

 今の世界の状態を端的に言い表すなら、混乱といった所だろうか。本当に不完全なまま存在していて、そう、ルールといったものの定義ですらあいまいなのだ。以前の世界で築いていた既得権益は崩れ落ち、世界は新たな形を急速に形作ろうと邁進しているようだ。



 分かっていた。分かっていたんだ。

 おかしいってこと、ずっとおかしかったってこと。

 詩的な言葉で世界を表現するならこんな感じかな、なんて老いた水早斐は考える。本当は、

 「本当は私は死んでいるはずだった。だからこの未来にはきっと存在していないはずだったんだ。」そんなことをぼんやりとこの日の当たる縁側で思いふける。

 

 「僕は君を殺したんだ、早斐。」

 私の目の前で震える牧田洋司はそう言った。

 当然、見も知りもしない男から伝えられたその言葉には全くの心当たりもない。だが彼が言うには、私たちはお互いを知っていて、その結論は彼が私を殺すというおぞましいものだということだ。

 「だから、じゃあ何があったの?」私は彼に問う。「君を守ろうと思って、ただ手を握ってあげたんだ。」と言い、「それだったら私は死なないじゃない。」と答える。

 「違うんだ。」

 「君の除霊の力があるだろ?」

 そうだ、私には霊を滅する光の力が宿っている。だから、何なのだろう。

 目の前の男は口をためらわせるようにして話を続ける、

 「僕は危険なんだ。一度罪を犯した人間だから、君の力の特殊性と呼応してどうやら、暴発したらしい。」

 泣きそうになりながら、顔をゆがめる男は伝える。

 「そしたら、君はいなくなってしまったんだ。消えてしまった。」

 「気付いたら僕が君を殺したことになっていて、君は世界からいなくなっていた。」

 そう言い切り、私に理解を求めるような視線を投げかける。そんなこと言われても私には全く何のことだか一片も解すことはできないのに。

 だが、だがなぜだか胸が痛む。なぜだか胸が痛むのだ。だからもう少しこの男の言い分を聞いてやってもいいのかな、なんてうっすら思えてくる。

 「僕はもう年老いた年齢になっていて、よくは分かっていないんだけどいつも通り眠りについたはずなのに、目が覚めたのはずっと昔、君と出会ったこの時代に来ていた。この、極寒の異常を経験した混乱の世界に。」

 そうだ、今は異常気象からの復興という名目で非常に人々は殺伐とし、狂気と発狂を伴った異様な熱気に包まれている。祭りのような特別な感覚、非日常。この時代に来たというのだから、あの男は別の世界から来たってことなのか。

 だから、「じゃあ、どうしろっていうの。私はあなたなんか初対面だし、知らないんだから。もうこれ以上なんて望まないでよ。」ただ感情に任せてこの変則的な状況を乗り過ごそうと目論む。

 なのに、彼は言ってしまった。

 「でも、僕は君をいくら世界が変わったって、見過ごしておけないんだ。」

 それは私にとって、この辛い現実を受け入れる私にとって、ただ単純に救いだったのかもしれない。


 「……!」

 何だか熱気を伴った狂気を感じる。この空気は異様だ。

 「…、い、真家死んじまったぞ。」ああ、和田がそう呟きながら、「おい!牧田。」と健一が叫ぶ。

 そうだった。

 僕たちは加減というものを失っていたのかもしれない。いくら過酷な状況だからって、誰かを虐げていい理由なんてないはずなのに、僕たちは何かを誤ってしまった。

 「…もう行こう。」僕はそう言う。

 「……。」焦ったような表情ででもそれを受け入れる顔をしながら健一と和田はうなずく。

 なす術はなかった。痛めつけて、粗末に扱った末に迎えた残酷な現実、これはきっと救いようがない。僕らはただの大バカ者なのだ。

 だから死んでしまった友を置いて僕らは極寒の世界へ歩を進める。そして行き着いたのは、平和な世界だった。いや、正確には平和なんて言葉はそぐわない荒れ果てた秩序のない所だったのだが、ただあの凍るような恐怖の寒さを纏う世界からは抜け出すことができた。

 だから人々はみな一様に昔の面影を消してしまったかのように、人の好い雰囲気を振りまく。この妙な熱気と興奮、だが僕らはそれを受け入れられるほど、大人じゃなかった。きっとみんな生き残るために残忍な現実と直面してきているはずなのに、なぜ明るく善を振舞えるのかがどうしても理解できない。

 体が、拒む。

 だから、え、今になってこんなことになったなんて、こんな事実が存在していたなんて、思いもしなかった。

 「お前、牧田だろ。」

 男は呟く。見覚えのあるその顔は正しく真家濱谷のものであった。

 「何で?死んだんじゃなかったのかよ、真家。」そう言葉を絞り出す、これが精いっぱいなのだから、何で。

 「僕は、死んだ。確かに死んだよ、お前らに殺された。だけど…。」

 そうだ、やっぱりそうだ。真家濱谷は僕たちが殺したのだ。だけど、だけどって?

 「助けられたみたいだ。変な女に。」と真家濱谷は少しはにかんだ表情で言う。何だって?助けられた?「そうだよ、今まで忘れていたけれど、名前を言っていたのを思い出した。それは」

 それは、何なのだろう?

 「牧田洋司のために死んではいけない、私は水早斐というのよ。」と言っていたんだよ。

 「何でお前のためなんだよ、お前らは俺を殺した、いや見捨てた。」そう言って真家の顔は鋭く怒気をはらむようなしぐさを見せ、そのまま立ち去って行った。

 「………。」

 一体今出会った人物は、今起こった現実は、出来事はどういうことなのだろう。これはまるで、正しく蜃気楼のようだ。

 ああ、僕はずっと幻でも見ているのだろうか。そう言えば昔から正しいことなんて、まっとうなことなんて何一つ掴んだことなんかなかったのだ。

 そう思うと自然と目からは雫がこぼれてきて、でもそんなものはすぐに枯れ果てて、もうどうでもいいようなからっとした心地を経験する。

  


 幸せになりたかった。

 その本心はずっと誰にも伝わることは無く、溶けていくだけで、あいまいだった。

 「いっそのこと、隠して決めよう。」と言葉を吐き出し、眠りにつくのだ。

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