第6章 ガルダン高原騎行
6-1 チャハルの世界
翔馬とトゥムルが、ガルダン高原と呼ばれる東方高原地帯に入ったのは、秋も深まった頃だ。すでに初雪をみたが、冬を通して膝まで積もることはほとんどない。
地形はおおむね平坦だが、峻険な岩山や〈大変動〉の名残である隕石孔の
この広大な高原を遊牧領域とするガルダン族は約七百の氏族から構成されている。なかでも有力な氏族が五十ほどあり、群小氏族はそれら有力氏族のいずれかに属することで権益を守っている。だから盟主とあおぐ氏族の力が弱まればさっさと別の有力氏族の傘下に移り、場合によっては盟主の座を乗っ取ることもある。厳しい実力主義の世界なのだ。
現在のガルダン族は、それら有力氏族のなかでも特に力のある四つの大氏族によって勢力の均衡が保たれている。彼らはそれぞれハーンと称する大族長を頭として部族を構成しているが、全ガルダン族を統率する大ハーンはここ数十年あらわれていない。
トゥムルはなんと、この四人のハーンのうち、二番目に大きなチャハル部を率いるブルゲド・ハーンの甥だという。
「道理で人を使うのがうまいとおもった。だがトゥムルがそんな大物なら、姉さんの行方もすぐわかるかもしれないな」
「チャハルの勢力圏内ならすぐだが、そうでないとちょっとやっかいだな」
トゥムルは首をひねって、
「ま、昔からの
ふたりは替馬に交易品の包みを積んでいる。医薬品と粉末ダイヤモンド、それに縫針だ。粉末ダイヤモンドは焼結させて蹄鉄や
この春、グラレフはキタン沙漠の東にある交易拠点ベルナウで交易会社を発足させ、翔馬もトゥムルとともに参加した。
当初は参加の意欲をみせていた坑夫たちだが、大半は一時金を手にして去っていった。やはり出身地に戻って出直すらしい。
看守たちはほとんどが黙って行方をくらましてしまった。どうやらアドラ山でのグラレフの厳しい処置に恐れをなしたようだ。ラモンもその一人だ。
もっともいくらラモンでも、グラレフの会社で歓迎されるとはさすがに考えてなかったはずだ。彼としては正しい選択というべきだろう。翔馬にとっても因縁のある男だったが、いなくなってからは思い出すこともない。その程度の存在だった。というよりは、考えることが多くてラモンどころではなかったのだ。
人材不足で、本来ならもっと経験を積んだ者が担当するはずの仕事をあれもこれもと任されたおかげで、それからの半年というものは食事も睡眠も仕事の合間につまむようにしてとるありさまだった。リニイがいつのまにかグラレフの愛人になっていると知ったときも、さすがにグラレフには余裕があると感心したほどだ。
今ふりかえっても仕事以外のことはろくに憶えていない。毎日が無我夢中で、つらいなどと思っている暇さえなかった。むしろ日々の経験がそのまま身体の一部となっていく充実感に、いくらでも活力がわいてきた。
実際この半年間で、すでにできあがっている会社でうかうかと五年十年勤めるよりも実力がついたのではないか。
だから翔馬が辞職を願いでたのは、グラレフにも意外だったようだ。
「新しい役職が気にいらないのか。わたしの補佐役ではつまらんかもしれんが、しばらく辛抱すればいずれ経営陣に加わってもらうつもりだ」
「仕事に不満があるわけではないんです。でも行方不明の姉の件がありますから。ここで情報を集めるつもりだったけれど、やはり自分でさがさないと気がすみません」
葉月のことは本当だが、仕事については嘘だった。
会社が成長して仕事量が増えたため、先日グラレフは業務を部門に分け、翔馬は現場の責任者から取締役副社長に昇格した。
職制上は大変な出世だが、要はグラレフの補佐だ。部下はなくなり、実務からも離れてしまう。いつまでもグラレフの手足となって働くならともかく、将来の独立を考えるなら、これ以上グラレフのもとにいても得るものは少ない。
結局、翔馬とトゥムルはグラレフの好意で、取締役副社長という役職はそのままに無給の休職扱いとなった。
「会社の名前がふたりの役に立つといいんだが。世の中には、自分の眼より肩書で相手を判断する連中も多いからな。ふたりには会社のいちばん大切で苦しい時期を、ろくな給料もなしに死にもの狂いで働いてもらった。せめてこれくらいのことはさせてくれ。アキツ、姉さんが見つかったらいつでも会社に戻ってきてもらいたい」
おそらくグラレフにとって、トゥムルまでが辞めたのは大変な痛手だっただろう。翔馬の語学力、企画力は貴重な財産だったが、管理職としてはまだ未熟だ。その点トゥムルの統率力は本物で、抜けた穴を埋めるのは難しい。
トゥムルは何も語らなかったが、あとで翔馬が耳にした噂では、グラレフからかなりの好条件で引きとめられたらしい。が、トゥムルは翔馬と行を共にする方を選んだ。友のこの選択を、翔馬は重くうけとめた。
「帰ってきたぞ! チャハルの世界だ」
トゥムルが天に叫んだ。
「どうした、いきなり」
「今おれたちは、チャハル部の遊牧領域に入ったんだ」
「へえ」
翔馬はまわりの平原を見まわした。細長い草が冷たい風に立ち枯れて、どこまでも薄茶色の布を敷いたようにみえる。水分をたっぷり含んだ夏草よりも、こうなってからのほうが牧草としては向いている。
「どこが境界だ。目印なんて何もないぞ」
「あの
と指でさし示した。
「この線の西、今まで旅してきたのはハミナ部の勢力圏だ」
「よくおれたちを通してくれたな。チャハル部とは仲がよくないんだろう」
ハミナ部も四大部族の一つで、境界を接するチャハル部とはしばしば紛争をおこしている。だが翔馬たちが途中で出会った小氏族の家族たちはいずれも親切にもてなしてくれ、敵意などはまるで感じられなかった。
「旅人はいいんだ。軍隊や家畜を無断で入れると戦いになるかもしれないが」
そういってトゥムルは、風にふくまれるかすかな草の香りに酔ったような眼をした。
翔馬は羨望をおぼえた。
「故郷ってのはいいもんだよな。おれはもう七年も帰っていない」
そうだ七年だ。葉月姉さんはもう二十二、長すぎる。おれだってこんなに変わってしまった。姉さんもきっと……。
翔馬は首をふった。考えたってしかたない。まずは姉さんをみつけることだ。
四日後、トゥムルが馬をとめていった。
「ここがおれの一家の放牧地だ」
「へえ」
翔馬はあたりを見まわした。草が短く噛み切られ、あちこちに家畜の糞がころがっている。だが地平の果てまで
トゥムルは馬からおり、爪先で
「五日前か。明日には追いつけるな」
季節を追いながら家畜の群れと共に野営地を移動するガルダン族だが、家族ごとにその道筋は決まっており、たがいに割り込むことはない。来年またここへ放牧にくる頃には、この牛糞は乾燥して熱量の高い燃料となっている筈だ。
「つぎの野営地はこの南だ。明日の陽があるうちにショーマを家族に紹介できそうだ」
トゥムルの言葉通り、翌日の夕方、翔馬は低い岡の麓に遊牧民独特の円形の
数頭の黒犬が吠えながら駆け寄ってきた。トゥムルが馬からおりて声をかけると、とたんに尻尾を激しく振って争うように脚にまつわりついた。
幕舎群にはトゥムルの両親、次兄一家、そして下働きの男女たちがいた。翔馬とともに帰ることは出発前に知らせておいたので、今日か明日かと待ちかねていたらしい。とくに両親の喜びは大きかった。
「ほかの家族の人たちは一緒じゃないのか」
ひとしきり再会と歓迎の挨拶がすんだところで翔馬はたずねた。四大部族のハーンにつながる家族の野営地にしては思ったより小さい。幕舎の五十も並ぶ堂々たる野営陣を想像していたのだ。
「上の兄貴や郎党たちは独立しているんだ」
遊牧に最適な家畜の数があるので、人数もそれに応じて決まるのだという。
これまで出会ったガルダン族と同様、彼らも男女を問わず貴金属の装飾品を身につけている。これについて翔馬は、財産を運びやすい形にかえているのだろうと考え、トゥムルに
「それもあるが、やはり身を飾るためだな。おれたちの本当の財産は人だ。どれだけ多くの人が自分のために闘ってくれるか。はっきり権力といってもいい」
「なるほど」
トゥムルがその齢で抜群の統率力をもっている理由がうなずける。
「ついでにいえば、一年中移動しているおれたち遊牧民と定住民とでは、財産に対する考えもちがう。おれたちにとって大きな家具や着きれないほどの服は邪魔物でしかない」
それも理にかなっている。隊商だって商品以外の荷物は極力少なくしようと工夫している。
夜になると、トゥムルの冒険譚を聴こうと、両親の
期待は裏切られなかった。一同は眼と口を開けたまま息さえ忘れて、トゥムルの語る物語に聴き入った。おまけにトゥムルがまたこうした物語をききながら育っただけに、聴き手をとらえてはなさぬつぼを心得ている。
地下遺跡での劣悪な環境と苛酷な労働についてのくだりでは、一同がそろって憤りの唸り声をあげた。翔馬が自分の食糧が稼げぬのを承知でトゥムルたちの配電盤を修理した一件に話が及ぶと、一瞬座が静まりかえって、全員が翔馬を注視した。とくにトゥムルの父親の眼が光った。さらに崩落事故での翔馬の沈着さや叛乱の指揮ぶりをトゥムルが語ると、賛嘆の眼は尊敬のそれに変わった。これには翔馬もさすがに照れた。
「その遺跡は、今どうなっている」
と父親が訊いた。
「周辺の領主が軍をだし、コライ共和国と睨み合いになってますよ」
とトゥムルは杯を干しながら答えた。
みんなが呑んでいるのは高価な
頃合いをみはからって、トゥムルが切り出した。
「父上、お願いがあります。ショーマのために力を貸してください」
トゥムルにうながされて翔馬は、これまでの
「おれはブハラの博労に馬を売った人に会って、その馬をどこの誰から手に入れたかをたしかめたいのです」
ガルダン族が犯人だと疑っているのではないことをはっきりさせるため、言葉に気をつかった。それでも話し終わると座は静まり返った。身に覚えがないわけではないのだ。
実のところ、これまで小氏族の歓待を受けながらガルダン高原を旅してこられたのは、トゥムルが一緒だったからだ。翔馬一人だったらたちまち馬と荷を奪われ、運が悪ければ殺されていたかもしれない。遊牧民にとっては掠奪も狩猟の一種にすぎないのだ。
だがガルダン族の旅人を襲えば、その氏族からの仕返しを覚悟しなくてはならない。彼らが敵対する氏族をも精一杯もてなす慣習は、果てしない復讐の連鎖を避ける知恵でもあるのだ。高原を旅する隊商が必ずガルダン族を道案内兼護衛に雇うのはそのためだ。
ややあって父親がいった。
「さっそくチャハルから全ての氏族に問合せをだそう。手掛りがつかめるまでここにいるがいい」
翔馬はほっとした。
「よろしくお願いします」
「礼にはおよばん。トゥムルの恩人ならわしの倅も同じだ」
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