3-4 約束

 


 初夏。出発を二日後にひかえたこの日、翔馬はベールヘーナの招きで外苑にある将校会館を訪れた。宮城の外で公女が翔馬と落着いて会える場所といえば警備上からもここしかない。

 通りの店をのぞくふりをして、飾り窓に映った姿をたしかめる。

 服は衣装屋で借りた。これから隊商に加わるのに外出着など買ったら荷物になるだけだ。

 会館の受付前には、先日の異動で警護局長に昇進したストレイが近衛将官の制服で待っていた。

 平和がつづいて軍の要職が貴族に占められる傾向のあるなか、平民でこの制服を着られるというのは尋常なことではない。まだ力のないベールヘーナの引きというのは考えられぬので、やはり実力にちがいない。

「念を押すまでもないと思うが、例の減刑の件、きさまは知らないことになっている。いいな」

「はい、わかっています」

 女性近衛兵が絨氈を踏んで翔馬を最上階の一室に案内した。

「アキツ殿をお連れしました」

 窓の外を見ていたベールヘーナがふりかえった。

 淡い桜色の袖なしの長着ローブに真珠の光沢の帯。腕の肌をさらしているのは、戸外で働く必要のない身分のあかしだ。腰まである白絹の肩布ケープには拳ほどの〝満月をつかむ水竜ナーガ〟が金糸で縫い取られている。細い黄金の糸を編んだ髪飾りが陽光に輝いている。

「ありがとう、クローゲル。あとで呼びます」

 近衛女兵は敬礼し、翔馬の背後で厚い扉を閉めた。

 明るく華やかな部屋だ。片側の壁いっぱいに、朝焼けに染まった天山テングリオーラ山脈を背景に木立の中のターネを描いた絵がかかっている。反対側の硝子棚には美しい陶磁器の皿が並べられている。拭きこまれた胡桃材の丸い卓と椅子が中央に置かれ、卓の上には茶器の一式と菓子の皿がのっている。

「しばらく見ないうちに背が伸びたのではないですか」

「はい、三センチほど」

「そのわりに痩せていないわ。大人っぽくなりましたよ」

 ベールヘーナさまも、と言いかけた言葉を翔馬は呑みこんだ。

 宮城を出てから一度だけ、翔馬はベールヘーナを見かけたことがある。といっても、大通りを乗用筏リムジンで走り去るのをたまたま眼にしただけで、顔など一秒も見えたかどうか。もちろん公女は通行人の一人である翔馬には気づかなかっただろう。彼は切なくてその夜はなかなか寝つかれなかった。

「背中の――傷はどうですか」

「もうほとんどあとも残っていません」

 翔馬は嘘をついた。もし執行人が手加減してくれなかったら、本当に殺されていたかもしれない。

 ベールヘーナは翔馬の顔をじっと見て、そっと溜息をついた。

「わたくしがもっと気をつけていれば……」

「ベールヘーナさまにはなんの責任もありません。それにもう済んだことです。忘れてください」

「ショーマは忘れられるのですか」

「さあ」

 言葉を濁した。むろん忘れることはできない――とくにアールドベンら四人については。

 だが、それを言っては自分がみじめになる。かといって、忘れられる――と白々しく口にできるほど翔馬の心はれていない。

「でも、狼が兎を恨んだりするでしょうか」

 顎をあげて言った。同情されるより、傲慢だと嫌われたほうがいい。

「あなたらしいわ」

 ベールヘーナはほっとしたように笑った。

 公女は手ずから茶をれ、翔馬にすすめた。

「隊商がみつかったそうですね」

「はい。グリモンという南方専門の交易商と契約しました。交易商としては小さいほうですが、信用のある男だときいています」

「ブハラに着くのは、いつ頃になりますか」

「いったんベセスタに立ち寄り、ほかの商人たちと隊商を組んでから出発するので、ひと月ほどかかるかもしれません」

 ベセスタは南方草原交易路の起点の一つで、ハンメルダール侯国きっての富裕な都市だ。南部軍管区司令部のおかれた軍事的な要衝でもある。小さな交易商はここでいくつか集まって大きな隊商を編成する。そのほうが護衛屋を雇う経費も少なくてすむ。

「こんどは売られるようなことはないでしょうね」

「だいじょうぶでしょう。少なくともグリモンには、ホンのような賭け癖はないようですから」

 翔馬は公女と顔を見合わせて笑った。

 やっと堅苦しさがほぐれた。

「いつビスビューに戻ってこられますか」

「ブハラで姉の行方がわかれば、秋のうちにでも……」

 語尾が宙に消えた。翔馬自身、そんなに都合よくいくとは思っていない。

「つまらぬことを訊いてしまいましたね」

 ベールヘーナは先日、父侯爵の周辺で自分の縁談が極秘裡に進められているのを知ってしまった。早ければこの冬には正式に婚約が決まるだろう。むろんそうなれば翔馬と会うことなどできなくなる。

 ベールヘーナは髪をかきあげ、ふたつの耳飾りをはずした。

「ショーマ、これをお姉さまをさがす費用の足しにして」

 翔馬は驚いた。今のベールヘーナ姫の経済力では、装身具を購入するのも決して楽ではないはずだ。

 おもわず遠慮しようと眼をあげた瞬間、公女の思いつめた瞳が胸を貫いた。

 翔馬は言葉を呑みこみ、公女の手から耳飾りの片方をそっとつまみあげた。天然紅玉ルビーの逸品である。ベールヘーナの肌の温もりが伝わってくるようだ。

「ありがとうございます。大切にします」

 丁寧に手巾ハンカチに包み、胸の隠しにしまった。むろん飢え死にしても売るつもりはない。

 ベールヘーナは立って広い窓辺に寄った。背を向けたまま、

「ショーマ、正直に答えて。あなたはわたくしにお姉さまをみていたのではなくって」

「はじめはそうでした」

 ベールヘーナの肩が一瞬、小さくふるえた。

「でも、ある日気づいたんです、ベールヘーナさまをどうしようもなく好きだということに。おれだって馬鹿じゃない。忘れなくちゃいけないことくらいはわかってます。わかっていますが――」

「わたくし、どうしたのかしら」

 ベールヘーナは両手に顔をふせた。

「こんなことを口にするつもりはなかった。ただあなたにひとことお別れをいいたかっただけなのに」

 翔馬はベールヘーナの背中に歩み寄った。ほのかに清潔な髪の香りがする。

「おれはいいません、別れの言葉なんて」

 ベールヘーナは顔をあげた。窓の外を見たまま、ささやくように、

「わたくしもあなたと一緒に旅をしたい。森の息吹をかぎ、草原をわたる風を頬に感じたい。見知らぬ国を訪ね、ちがう言葉を話す人々の街を歩いてみたい。あなたと逢わなければ、わたくしは自分が宮廷のとらわれ人であることに気づかずにすんだのに」

「行きましょう!」

 翔馬は叫ぶように言った。

「公女さまが旅に出たっていいじゃありませんか。ストレイ局長が同行すれば――」

 公女がかすかに首をふったのを見て翔馬はあとの言葉をのんだ。

「うそです」

 ベールヘーナはふりむいて翔馬を見あげた。

「いまいったのはみんな嘘。あなたと知りあえて、わたくしは楽しかった。ショーマ、いつかきっとまた会えますね」

 ふたりは一瞬、互いの眼を見つめ合った。

「はい、必ず」

 翔馬はかすれ声でいった。

「約束ですよ」

「もちろんです。旅の報告を楽しみにしていてください」

 ベールヘーナはほほえんだ。その瞳に涙がうかび、笑みがくずれた。

「だめ、やっぱり笑ってお別れはいえない。お願い、わたくしが気づかぬうちに部屋を出ていって」

 ベールヘーナは背を向け、両耳をふさいだ。

 翔馬は公女の肩に手を触れようとして、ためらった。それからベールヘーナの背中に深く頭を下げ、静かに扉を開けた。

「ショーマ、待って!」

 ベールヘーナは振りかえって叫んだ。

 扉はすでに閉まっていた。

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