2-2 〈大変動〉

 翔馬は通された部屋を見まわした。

 すでにベールヘーナがハンメルダール侯爵の息女であると聞かされてはいるが、古びた絨氈、時代を感じさせる内装や重厚な鏡板からはそうした華やかさはうかがえない。壁の書棚いっぱいにならんでいる蔵書は素人目にも〈大変動〉以前の貴重な古書とわかる。背表紙をざっとながめたが、知っている題名はない。

 かすかな衣擦れに振り返ると、部屋着に着替えたベールヘーナ姫が入ってきた。翔馬は丁寧にたすけてもらった礼をいった。

「本に興味があるようね」

 ベールヘーナは窓際の椅子をすすめていった。

「どんな本が好きなの。物語? それとも詩集とか」

「いろんな技術書です。あとは商品の説明書かな」

「――それって、面白いの?」

「物語ほどじゃありません」

 翔馬はほほえんだ。

「ただ、仕事の役には立ちますよ」

 ベールヘーナはあきらめたように首をふり、話をかえた。

「なぜ追われていたのですか」

「売られそうになったからです」

「まさか」

 ベールヘーナは思わず叫び、あわてて指先を口にあてた。

「天山回廊に奴隷制度なんてありません。人身売買は重罪ですよ」

「ということは、裏では売買されているわけでしょう。あ、もちろんおれは奴隷じゃありません」

 翔馬はホンという交易商の隊商の一員で、おもに天山テングリオーラ南回廊を往復している。ビスビューを訪れたのもこれが三度目だ。

 天山回廊とは、天山山脈の麓をめぐる交易路をいう。五、六千メートル級の高峰が壁のように東西に連なるこの山脈は、南側は草原地帯、北側は森林地帯と、気候までちがう。

 越えるには峰々の間を縫って道ともいえぬ道をたどるしかないが、ヤモリのように絶壁にへばりついて渡らなければならぬ難所も多く、馬や騾馬らばではまず越えられない。浮揚筏ラフトにしても、こんな高峰を越えるだけの燃料を積んだら貨物が載せられない。

 そのため両山麓の間は直線距離でわずか四、五十キロほどしかないのに、物資を輸送するためにはわざわざ東西いずれかの山麓をまわらなくてはならない。天山回廊は東西だけでなく、南北交通の大動脈でもあるのだ。

 この大動脈の周囲に天山連邦、あるいはハンメルダール侯国のような大小の国家が複雑な縞模様をつくりあげている。

「ホン社長は、商人としてはなかなかやり手なんです」

 本来なら、とうに回廊西端の大都市西宮ニシノミヤか東端のゼウンガールに本店を構えていてもいいはずだ。それがいまだに一年の大半を隊商とともに旅の空で暮しているのは、生来の博打好きのせいだ。

「ふだんはがまんしているけど、酒が入るとつい手が出てしまい、そのたびに猛烈に後悔して心を洗い直すという繰り返しなんです」

 隊商を率いてハンメルダール侯国に入ったホンは、昨夜ビスビューの宿で、昔の顔なじみの商人ハザードに再会した。懐かしさに酒をみかわすうち、気づいた時には荷はすべてハザードに巻き上げられていた。

 一夜明けてさすがに血の気をうしなったホンに、ハザードは翔馬を譲るなら荷の半分を返そうと申しでた。

「譲るなんて、まるで人を品物扱いではないですか」

「雇用契約書を担保に金を借りている人は、契約書が他の業者の手にわたると自分もついていかなくちゃならないんです」

「それを人身売買というのではなくて」

「さあ。でもそれで誰かが罪になったという話はききません。だいいちおれには借金がないので、雇用契約書には雇用条件の確認の意味しかありません」

「では譲られることもないはずですね」

「ええ。しかし社長にとっては荷の半分がかかっていますからね。なりふりかまわずってやつです」

 翔馬は他人ひと事のようにいった。

「不当な移籍ならば、交易従業者組合か、わが国の商務監察局に申し出ればよいのに」

「その前に、社長かハザードにつかまってしまいます」

 翔馬は移籍を知って宿から逃げ出した。

 慌ててホンと部下が追う。

 人垣にぶつかり、あやうく追いつかれそうになったとき、たまたま騎兵の護衛つきの高級乗用筏リムジンが来るのを見て、とっさにその前にとびだし、狙いどおり城内に運びこまれたというわけだ。

「受身には自信があったんですが、思ったより筏が固くて」

 ベールヘーナは眼を丸くした。きつい声で、

「なんて危ない真似をするのです。打ちどころが悪ければ肋にひびだけではすまなかったのですよ。それに、わたくしたちがあなたを乗せるとはかぎらないではないですか」

「おっしゃる通りです」

 翔馬は顔を赤らめた。

「もし考える時間があったら、絶対にやらなかったと思います」

「あきれた」

 言いながらもベールヘーナの頬に笑みがうかんだ。

「でも、なぜハザードから逃げるのですか。彼はあなたのことを高く買っているのでしょう」

「べつにおれの能力を買っているわけじゃないです」

 翔馬は吐き捨てるようにいった。

「それでは何を」

「それは――いいたくありません」

 はっきりした返事に、公女は一瞬表情を固くした。が、すぐに何もなかったように、

「あなたをかくまうのはかまいませんが、ハザードたちはどうするのですか」

「だいじょうぶです。社長は明朝出発する予定だし、ハザードだっていつまでもここに滞在しているわけにはいきませんから」

「でもホンは、荷をハザードにとられてしまったのでしょう。出発できるのですか」

「注文済みの品もあるから、すっからかんになったわけじゃないです。売掛金も残ってるし、社長のことだから、また振り出しからやり直しますよ」

「あまりホンのことを恨んではいないようですね」

「悪い人じゃないんですよ――賭事さえしなければ」

 翔馬は笑いかけて顔をしかめた。肋に響いたのだ。


 夕方おそくストレイが公女の邸を訪れ、少年の身元についてわかったことを報告した。

「なかなか面白い坊主です」

 ホンの隊商に入ったのは二年ほど前だという。野盗に襲われた開拓団のただ一人の生き残りと称しているが、開拓団の名前や襲われた場所など、詳しい身の上は語ろうとしない。

「顔つきと名前、それに〈回廊語〉が達者なところからすると天山連邦の出身でしょう。それがなぜ南回廊の隊商に入ったのかはわかりませんが、他の言葉もいくつか話せるし、あの齢で動力筏の操舵助手までまかされていたそうです。移籍に関する事情も坊主のいうとおりでした。ホンという商人、どうやら賭金以上の損をしたようですな」

「でもあの子の話では、ハザードは彼の能力には関心がないということですが」

「それなのですが……」

 急にストレイの歯切れが悪くなった。

「なんですか。はっきりいいなさい。わたくしは驚きません」

「アキツは今どこにいますか」

「召使たちと夕食をとった後、召使部屋で眠っているそうです」

「それはまた、神経が太いのか、鈍いのか」

 ストレイは感心してみせて、

「実はハザードという男、稚児趣味があるというもっぱらの噂です」

「ちご……? あっ」

 ベールヘーナの顔が真っ赤に染まった。

「たしかにアキツは美少年といえぬこともありませんな。姫さまはどうお思いですか」

「知りません!」

「わたしにはそういった趣味はありませんが、ことによるとあの手の子が、その道の連中の好みなのかもしれませんな」

「ストレイ、わたくしをからかっていますね」

 警護隊長は笑って、

「あわてて逃げだしたところをみると、あの坊主にはそのはないようです。となると別の意味で心配です。今夜はとりあえず警備本部に泊めましょう」

「そうですね」

 公女はうなずき、

「でも、真面目な子のようでよかった」

「おっしゃる通りですが、とっさに身を捨てて危機から逃れるなど、そこらの虚勢を張っている悪ガキどもにはできません。見かけよりしたたかな坊主ですよ、あいつは」

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