第2章 ハンメルダールの公女
2-1 侯爵家の姫君
突然、人垣がくずれて、隊列の前にばらばらと通行人がはみだした。
大型の
しかし一瞬遅く、前に飛び出した少年がはねられ、車道にころがった。
「ベールヘーナさま、お怪我はありませんか」
ストレイ警護隊長が後部座席の少女に声をかけた。
「わたくしはなんともありません。それより早くあの子を」
ストレイが運転室とを仕切る硝子板を開いて命じると、助手席から警護官がとびだし、
「わたくしもおります」
「今しばらくお待ちください」
ストレイはいって、浮揚停止している
車道の両側では近衛騎兵が輪乗りしながら、はみだした野次馬を歩道に押し返そうとしている。
客室の扉に
鋭い眼で安全を確認したストレイが客室の扉を開けた。
水をかけたように周囲のざわめきが消える。
人々の視線のそそがれる中、ベールヘーナ公女がおり立った。
初冬の午後、風が冷たい。澄んだ空に
ベールヘーナは人垣には目もくれず、右胸を押さえたまま倒れている少年に歩み寄った。
色褪せた紺の上着に短い髪。麻の
「どうですか」
「骨は折れていないようです」
手早く少年の体を調べた警護官が顔をあげていった。
「よかった。筏に乗せて。城の病院に運びます」
警護官たちが少年をそっと担ぎ上げ、ベールヘーナの坐っていた後部座席に横たえた。足をのばしてもまだ頭の上に余裕がある。
騎兵が物見高い人々をようやく歩道に追い立て、工芸品のような御料筏はハンメルダール侯国の首都ビスビューの広い車道をふたたび滑りだした。
ベールヘーナは後部座席と向き合った補助座席にストレイとならんで坐り、眼を閉じた少年を観察した。
がっしりとした肩や胸、陽にやけた肌、ごつごつした指。昨日や今日働きだした身体ではない。
服装もまた戸外で働く者のそれだ。帽子の日除け布と、上体をゆったりとつつむ
ベールヘーナは好感をもった。でもいきなり筏の前に飛び出すなんて……。誰かに突きとばされたのかしら。
中央通りから宮城前広場をわたって外苑に入り、赤松の林をぬけると、正面に青く輝く城壁がそびえている。高さ約七メートル、全周六キロメートルにおよぶ壁の表面は、紺と緑を基調とした
〈大変動〉によって岩と砂と火山灰におおわれた
仲間と共に再開発事業に加わっていたビスビュー家の初代は、独立してハンメルダール
歳月とともにビスビュー家の勢力は城壁を越え、荒れ地を開墾し、さらに新たな地熱発電所を建設しながら急速に広がった。そして三代目にいたってハンメルダール男爵を称し、ビスビュー家を中心に農工商の経済圏が自立したことを宣言した。
この間に都市ビスビューの防衛は城壁から常備軍に肩代わりされ、かつての旧市街はそっくり宮城にとりこまれた。美しく改修された城壁も今では史跡として、周囲の外苑とともに観光名所になっている。
前後を近衛騎兵隊に護られた御料筏は、衛兵の敬礼を受けて大手門をくぐり、広大な内苑に入った。葉の落ちた雑木林の間からビスビュー
「筏をとめろ」
ストレイが硝子の仕切りを開いて運転手に命じた。
ベールヘーナはくっきりとした眉をよせた。
「どうしたのですか。早く病院に運ばなくては」
「その必要はないかもしれませんよ」
ストレイは答えて、
「坊主、気がついているんだろう。起きろ」
少年は眼をあけ、むっくりと起きあがって坐りなおした。
「いつわかりました」
「最初からだ。おまえをはねた時の衝撃が軽すぎた」
ストレイは物騒なことをいった。
「それでは、なぜ乗せてくれたんですか」
「往来のど真ん中で見世物をはじめる気はなかったからな。さ、言え。おまえは何者だ。なぜこんな真似をした」
少年はいきなり流暢な〈回廊語〉でいった。
「申し遅れました。秋津翔馬といいます。明日の夕刻までかくまっていただけないでしょうか」
「おまえ、〈回廊語〉ができるのか」
ストレイはおもわずいってから、質問の無意味さに気づいて苦笑いした。
〈回廊語〉は
「何をやらかしたんだ」
ストレイの〈回廊語〉は、少年にくらべるとだいぶ訛りがある。
「なにもやっていません。おれは被害者なんです」
「なんの?」
「それは……」
少年は口ごもった。
「いえないようなことか」
少年の唇が頑固そうに結ばれた。
「あなた、おいくつ?」
ベールヘーナが横からたずねた。こちらは宮廷仕込みの洗練された発音である。
少年はつられてベールヘーナの方を向き、とたんに感電したように顔をしかめた。
「やはりどこか怪我をしたのですね」
「ちょっと打っただけです。齢は十四です」
「あら」
大人っぽくみえるからわたくしより上かと思ったけれど、一つ下だったのね。
「ストレイ、まずはこの子を医者に診せましょう。詳しいことをたずねるのはその後でもよいのではないですか」
「かしこまりました」
すでに軍事施設としての目的を捨てているビスビュー城は、行政府でもある宮殿と、今も市の電力の半ばを供給している地熱発電所を中心に、大小の邸宅と付属施設で構成されている。
ベールヘーナの山荘風の
ストレイが病院から戻ってきて報告した。
「あの坊主、肋にひびが入っていました」
「まあ」
「たいしたことはありません。一週間もすればまた筏に体当りできるようになります。身元のほうはただいま照会中ですが、それにしてもなかなか思い切ったことをする坊主ですな」
「それで、彼は事情を話しましたか」
「いえ、これから警備本部に連れていって、ゆっくり喋らせるつもりです」
ベールヘーナは顎の前で両手の指先を合わせて考えていたが、
「その前に読書室であの子と話をしたいのですが」
宮城内は格式がやかましく、公女が道で拾ってきた平民の少年と
ストレイはうなずいた。
「わたしも隣の部屋できかせていただきます」
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