第28話 調理実習
週に一回の登校日。
この日は家庭科の授業があった。
高校教育には家庭科の授業も必修らしく、晶子は受けるしかなかった。
そこで問題にぶつかった。
「では来週は調理実習をします。みなさんエプロンと三角巾を持ってきてくださいね」
家庭科の教師は来週は調理実習をするからと、家庭科教師は各自用意するものを黒板に書いた。
家庭科の授業で調理実習をすることになったのだ。
晶子が前にいた高校では一年生の家庭科は主に被服でがメインで手芸や布を使った実習ばかりで調理実習は二年生からだった。なので高校ではまだ調理実習を経験していない。
晶子は料理は得意ではない。
ダイエットで野菜を切って茹でるなど自分の為にヘルシーメニューを作る程度のことはしていたがそれ以上の調理スキルはなかった。
すべて母親にまかせっきりでろくに手伝いもしたことがないのだ。
その為小学校や中学校では男子と混同な班だった為にあまり積極的に調理をする気がおきなかった。
さらに今は何より食べてしまったら吐きたくなるのではないか調理実習が不安だった。
晶子は以前より体調がよくなったというだけで今も過食嘔吐が治ったわけでもなく、家では食べ吐きの毎日だった。
もしも調理実習で食べ物を口にしてその後、吐きたくなったらと思うと恐ろしかった。
学校のトイレで吐いたら摂食障害だということがまわりにばれてしまうかもしれない。
学校のトイレの個室にこもっても嗚咽の音と匂いで吐いていることはトイレの利用者にわかってしまうかもしれないのだ。
学校のトイレでは絶対に吐きたくない。
しかしどうしても調理実習に出なければ出席にならない。
出席しなければ単位が取れないのである。
この学校では単位を落とすなんてしたくなかった。
この調理実習は出席と単位の為に避けられぬ道なのである。
晶子はなんとかして調理実習を出ないで済む方法はないかと考えたが他の方法がなかった。
通信制は週に一日だけの登校しかないかわりに一限でも欠席すると単位習得に大きく関わるのだ。
晶子は調理実習の日を恐れていた。
しかし避けることもできず、一週間はあっというま間に過ぎていき、調理実習の当日が来た。
初めて入った志宮高校の調理実習室はまだ新品の調理器具がたくさんセットされていて、各調理台にはガスコンロ、水道に調理台についている棚には包丁、鍋、ボウルから各道具といった調理器具が一通りそろっていた。
調理実習室は通信制のクラスでにぎわっていて、中学校以来の久しぶりの調理実習に胸をときめかせる者から、普段調理をしないために慣れない調理という場に緊張するものそれぞれだった。
ここではクラスでも女子同士のグループ、男子なら男子同士でという班決めなので晶子は三人のクラスメイトの女性と同じ班になった。
一人は見た目二十代くらいで髪の毛が茶髪の大人びたギャルという感じの新島さん。もう一人は晶子の母親くらいの年齢だろうかと思える宮下さん。もう一人は祖母ほどの年が離れている年配生徒の陽村さんだ。
調理実習に出たくないと思っていたためにやる気のない態度で先生の話を聞く晶子に比べて三人は大人だけあってしっかり先生の話を聞いてメモをしている熱心ぶりだ。
いよいよ恐れていた調理実習が始まった
「今日のメニューはわかめの味噌汁と筑前煮です」
家庭科の先生はレシピを黒板に書く
「まずは出汁をとりましょう」
調理実習が始まると、皆各持ち場についた。
晶子はこういう共同授業の時に自分から仕事を見つけて動くというのが苦手なために同じ班の三人がやっていることをぼんやりと見つめていた。
陽村さんは出汁をとっていた。
お湯に昆布を入れると次第に泡がふつふつと沸いてきた。
同じ班の三人が進んで手を動かしている中、自分一人が何もしないわけにはいかないので晶子はその間、材料を切る係を引き受けることにした。
調理と言えば野菜を切る、これだけしかできないので晶子は調理実習に少しでも貢献できるように自分のできることだけは精いっぱいやろうと思った。
以前夏休みの昼食作りで野菜を切って茹でて食べていたのでこれだけはできるのだ。
筑前煮となれば材料のニンジン、ゴボウ、レンコン、しいたけ、タケノコなどを食べやすい大きさに切るのだ。
まさに切った素材そのものが料理の仕上がりとなる。
包丁でニンジンを切り分け、レンコンやゴボウをストンストンと切っていると新島さんが話しかけてきた。
「清野さん、手際いいね、家でもお料理とかする方なの?」
新島さんは同じクラスとはいえ、同じ班になったのは初めてなので実質しゃべるのも初めてだった。
「い、いえ前ちょっとだけ昼食を自分で作ってたくらいであんまり料理はしません」
年上のクラスメイトは圭よりも年上ということもあるが晶子はバイトで年上の人と話すことはもう慣れていたので返答をした。
「自分のお昼ご飯自分で作ってたの!?すごいじゃん。私はいつも母親まかせだからさー」
「そうなんですか」
「できることがあるってすごいことだよ。あたしなんて包丁持ったらいつも必ず指怪我しちゃうしさー」
新島さんはそう褒めてくれた。
見た目とは裏腹にいい人だなあ、と晶子は思った。
どうしても以前の女子高の経験から晶子は初対面の女性には身構えるようになっていた。
以前の学校に通っていた晶子なら同じ班になった者同士仲良くなれないかとなんとか同じグループの女性と仲良くしようとしていたかもしれない。
しかし以前の学校での球技大会の例もある。
同じ班だからといって仲良くしたい、と思っている人ばかりとは限らないのだ。
つまりは人と接するには距離感が大事なのである。
いきなり他人のパーソナルスペースに踏み込もうとすればかえって嫌がられるものだ。
同じクラス、同じ班とはいえどある程度は距離感を保つことが重要だ。
以前の晶子なら同じ学校の誰とでもいいから友達になりたい、と相手を選ぶことができなかったのだ。
ここまでなら自炊で野菜を茹でる時もしていたことなのでできるが問題はこの先だ。
筑前煮はさらに鶏肉を炒める、こんにゃくとたけのこは水から煮込み、ニンジンとしいたけと絹さやをそれぞれ別に茹でなければならない。
一つ一つに違う調理方法をする手間のかかる料理だ。
ただでさえ煮物作ったことのない晶子にはその一つ一つを下準備せねばならない筑前煮はレベルが高い料理にすら見えた。
しかしそこは料理の熟練者である陽村さんと宮下さんが大活躍だった。
二人は普段は家で主婦をしていて子供もいるのだという。なので料理はいつもやってるから得意、とのことだった。
ここで普通の高校生の年齢の生徒ではなく同じ班に普段から調理をしている人がいてよかった、と思った。
女子高生の通常の年齢なら十代の子供だと家事は基本的に親まかせの子も多いかもしれない。
けれどここは通信制高校だ。生徒の年齢はバラバラなのである。
料理初心者もいれば熟練者もいるのが普通の高校と違うところかもしれない。
すでに料理に関しては熟練者がいるのは大変ありがたいことだった。
その二人のおかげで調理はスムーズに進み、晶子は新島さんと使い終わった鍋を洗ったり盛り付ける皿の用意をしたりと別仕事に回った。
そして調理実習はいよいよ試食の時間になった。
炊飯器で炊いていた白いご飯にわかめの味噌汁、そして作った筑前煮は皿に盛られるとほかほかと湯気を発していた。
レンコンやタケノコは艶がかかって美しく見え、さらにそこへニンジンと絹さやの彩が美しい。
晶子が切った野菜がそのまま完成品の形になっている。
普段ならどう作ったのか手順のわからない食べ物はどれだけカロリーがあるのかわからない為に長らくダイエットをしていた晶子なら口にしたくないところだったが筑前煮なら素材そのものを生かした料理だし、油も鶏肉を炒める時に少量使うだけなので野菜中心の煮物料理だからヘルシーな方である。
調理する手順を見ていたのでこれならカロリーも低いかもしれない、食べられる、と晶子は試食しても大丈夫だと思った。
「ではみなさんいただきましょう」
教師がそう言うと、みんな一斉に手を合わせ「いただきます」と言って試食に入った。
晶子はおそるおそる自分も作ることに関わった料理を口にしてみることにした。
皿から箸で具材をつまみ、口に入れる。
「お、美味しい」
晶子は純粋にそう思った。
タケノコやゴボウは素朴な味に出汁や調味料の味がしみ込み、鶏肉は柔らかく、レンコンはシャキシャキとした歯ごたえが楽しい。
摂食障害になってから料理をまともに美味しいと感じるのはいつ以来だろうか。
料理とはこんなにも美味しいものだったのか、と改めて感じた。
そして同じ班の新島さんと陽村さんが感想を言った。
「清野さんが切った野菜、食べやすい」
「本当ねー」
「ちゃんと味しみこむように食べやすく切ってあるし、筑前煮は材料の切り方が大きく関わるわよー」
「そうそう、レンコンとか本当にちょうどいいわー。おかげで私が炒める時、やりやすかったし」
この調理の大部分を担当していた宮下さんまでもがそう言った。
自分の切った野菜について褒めてくれたのだ。
自分の協力したことに評価がもらえるとは思っていなかった。
晶子は同じクラスの人にちゃんと自分を見てもらえた、ということが嬉しかった。
一つ一つの具材それぞれの下準備という手間をかけて調理してきた筑前煮
何より自分もみんなと力を合わせて作った、という努力を知ってるからその手順を見た分美味しく食べられた。
晶子はここで料理とは素材を準備するだけでもこんなにも手間がかかって美味しく出来上がるまでにここまで手間がかかっているものと初めて認識した。
「お母さんもこんなに苦労していろんなご飯作ってたんだなあ」
今まで母親はこんなにも手間のかかることをしていたのか、と思った。
何を食べさせればいいか、どれが体にいいか、どうやったら美味しく食べてもらえるかと買い出しから始めて家に持って帰り、そこから調理を始めるのだ。
そして食卓に並ぶまでもがこんなに手間がかかっている。
晶子は母親がこんなにもいつも大変な手間をかけて食事を作っていることは知らなくて考えたこともなかった。
ましてやそれを毎日休みもなく作るのだ。
学校やバイトはシフトによって休みはあるが家事に休みなどない。
平日も休日も変わらず一年間三百六十五日ずっと家族の為にと働かねばならないのである。
それだというのに自分はダイエットだからカロリーの低いものにして、とワガママを言ったりダイエットの為に食べないなど母親の気持ちも知らないで粗末にしていた。
母が自分の為に作ってくれている食事をダイエットの敵だから、と食べなかったのだ。
去年の今頃は極端なダイエットをしていてあまり食事を取ろうとしない晶子を心配して母親なりの気遣いで晶子の好物をたくさん作っていたというのに晶子としてはあの時は自分の体重を減らすことが大事でそんな母親に攻撃的な態度をとっていた。
晶子は母親の気持ちがようやくわかった。
あの時は意固地で何も食べようとしない晶子を母は心配していたのだ。
そして晶子を喜ばせたい、どうにかして晶子に何か食べさせなくては、とあっちはあっちで必死だったのだろう。
今日初めて料理を作るという大変さを感じて今思うとなんと子供っぽいことをしたのだろう、と晶子は思った。
自分のワガママで母親の気持ちなんてちっとも考えずに、むしろあの時は母親のことをうざったいとすら思っていた。
調理実習の日が近づくにつれ単位の為に仕方なく出る、という考え方だったが今日はちゃんとこの授業に出てよかったと心から思った。
今日の調理実習を通して晶子は調理方法以外にも大きなものを得たと感じた。
そして一生懸命作る大変さを見て感じた料理は吐くなんてもったいない!と思ったためにその日は晶子は食べ終わった後にトイレに行くことはなかった。
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