第二話
政界に激震が走った。
内閣総理大臣
刻々と伝わる病態から考えれば執務復帰は今後にわたり不可能ではないかと思われた。
このころ小淵澤政権は岐路に立たされていた。連立与党だった
ともかくも緊急事態である。政局は緊迫の度を増しており政治日程の空白は寸刻も許されない。
尾長の姿は赤坂プリンスホテルの一室にあった。紫煙の充満する薄暗い一室をぐるりと見渡せば、ここにいるのは葛西説得に失敗して官房長官を更迭され、いまは党幹事長代理に身をやつしている
ガチャリ、とドアノブが捻られる。
尾長は一瞬期待した。今後の方針を決定づけるこの場に
小淵澤の勘気を蒙って反主流派の冷や飯を食わされていた葛西圭一が復権する。この一室がその再出発の場になるのではないか。もしそうなれば尾長は、前回総裁選での立候補を巡りぎくしゃくしていた関係など水に流して、今度こそ永年の夢であった「葛西圭一内閣総理大臣」を実現すべく協力を惜しまない肚であった。
しかし。
「なんだ。こんな大事なときにこんなところに集まって」
しわがれた、野太い声でぼやきながら入室してきたのは
「まさかこの四人で決めようってんじゃないだろうな」
総理を、である。
「きみを入れたら五人だよ」
青梅が冗談とも本気ともつかぬ合いの手を入れた。
少し考えれば分かることだが、葛西は前回総裁選以降、自派閥の領袖という非公式の役職以外には、党役員、閣僚名簿の一切に名を連ねておらず、こんなところに呼ばれる道理がないのである。翻って林盛雄がついている幹事長という役職は、総理総裁に代わって党をまとめ上げなければならない自権党の実質的トップであった。葛西がいなくても話は進む。しかし林がいなければまとまるものもまとまらぬ。残念ながらそれがいまの自権党の風景だったのである。
実力者会議で今後の方針を決定することや、その実力者のなかに葛西が含まれていないことなどもとより承知のうえだったじゃないか。
尾長はそうやって自分を納得させるしかなかった。目の前に横たわる案件は国の重要事なのである。個人的な願望など二の次であった。
(国の重要事?)
疑念が湧く。
日本をこのさき百年は戦争をしなくてもよい国にする。
これ以上の重要事がほかにあるか。
先の大戦は、戦死した若者と同じ数だけの未来と可能性をこの国から奪ったのだ。祖国日本の行く末を熱っぽく語っていたあいつが、来たるべき戦後世界の
次期総理総裁候補者が若者を戦争に送り込むなどと言いたいわけではない。
しかし
「百年先を見据えて、戦争をしなくてもよい国づくりをする」
その大計を国民に語り、実現に導くには葛西をおいて他にない。そのことだけははっきりしていた。この国を二度と引き算でつくられたような国にしてはならぬ。葛西よ、きみはなぜここにいないのか。
尾長の悲痛な思索を断ち切ったのは寺下の不意のひと言だった。
「あんたやればいいじゃないか」
林に水を向ける。
我に返った尾長が見れば、まんざらでもなさそうな林の表情。
先述のとおり幹事長といえば実質与党トップである。派閥領袖としては率いる議員多数であって党内基盤も磐石。そこらの木っ端議員ならいざ知らず、自分がおかれている圧倒的優位を意識することなくこの場に身を置いているとしたら、それはそれで政治家として資質を欠いているといわざるをえない。
林の表情に確信を得たのか、背中を押す如く亀戸が続けた。
「やりたかったんだろう」
もったいぶったようにゴホン、と咳払いをする林。
「やってもいいが、支えてもらわにゃ困るよ」
「新総裁は両院議員総会にかけて選出することになる。文句を言われる筋合いはあれへん」
尾長がそう答えた。
両院議員総会とは、緊急の案件があって党大会を開催する
しかしそれは
「党則に則り選出するのだから文句を言われる筋合いはない」
と答えたのであった。
林が危惧したとおり、党総裁に選出され、これに次ぐ首班指名選挙で新たに内閣総理大臣に就任した林に対しては、野党や世論のみならず党内反主流派からも
「密室談合ではないのか」
との批判が浴びせられた。
だがいくら批判の声が上がろうとも、政権側は
「手続きに
との主張を繰り返すだけであった。
かみ合わない議論。募る国民のフラストレーション。低い内閣支持率。
事件勃発のカウントダウンが静かに、しかし確実に刻まれていく。迫る大乱の予兆に気付く者は、誰ひとりとしていなかった。
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