第7話 栞奈の場合 その4

「開けてあげる」

 迷いながらもチョコの箱を開け、外したリボンを手に握らせる。薬が効いているのね、ブタの手は異常に熱い。これを食べさせれば最後よ!

「はい、あーんして」

 ぼーっとしている。思考能力はなく、もはや夢見心地になっている様子。

「手作りチョコだよ?」

「ンゴ」

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

「ンゴ」

「……もう帰ろっか?」

 やっぱり人を殺すのは怖い。まだ……引き返せる……?

「ね、美味しい?」

「……ンゴ」

 反応おっそ! 効いてる。効いてるわ。


「ほらぁ! こぼしてるよ」

 落ちたチョコがブタの股間あたりに。えっ!? 股間が膨らんでない? きもっ! 触りたくないから、ブタの手を取りチョコの欠片を払った。

「そう……わ、渡さ、なきゃいけ、いけない、ものが……」

 ブタが覚束ない手つきでポケットから何かを取り出す。勃起じゃなかった!

「ん? なあに?」

「こ、これ、ンゴ」

 震える手で差し出された濃紺の小箱。何だろうと見ていると、箱が落ちそうになり慌てて受け取った。

「何?」

「あ、開けて、みて」

 箱の中にあったもの。高そうなオパールのリング。太陽に反射して青と赤の文様が浮かぶ。キレイ!

「あ、これは、私に?」

「ンゴ……たん、たんじょ、う石を、え、えらん……」

「ありがと」

 ヤバい……決心が揺らぐ。このブタを殺処分して、全てを終わらせる。……そのはずなのに……

「か、栞奈。こ、告白、す、する……が、ある」

「なに?」

「ぼぼ、ぼくと、僕と……け、結婚を、ぜ、ぜんて……」

 ほとんど何を言っているか分からなかった。でも一生懸命に告白してくれているのだけは伝わった。なぜ? 涙が……止まらないよ……




 2月でも暖かいポカポカ陽気。ブタの隣で少し眠っていたみたい。ふと気が付くと、まばらにいた周囲の人影がない。

「見て! 人がいなくなったよ!」

 意識なく眠ったように座るブタを大声で呼ぶ。やるなら今しかない!

「今がチャンス! ね、渡ろ?」

「ちゃん、す?」

「足が震えてフラフラでしょ。私知ってるんだから」

「うん」

「今なら誰にも見られないし、恥ずかしくないよ? ほら、今がチャンス!」

「ん……」

 弱ったブタ。誰もいない吊り橋。千載一遇の好機。今この瞬間を逃せば、二度とこのブタと離れるチャンスは来ないかも。人を殺す。人殺しになる。それはとても恐ろしい。心臓がドキドキして破裂しそう。この恐怖から逃げ出したい。

「……やっぱり……やめて帰ろっか?」

 私の逡巡を知ってか知らずか、

「行く!」

 ブタは力強く答えた。命の瀬戸際にあって、急に生命力を取り戻したの? そうも思ったけれども、やはり足腰には力が入らないみたい。

「行くよ! せーの」

 ふらつくブタを支えて立ち上がる。


「いち、に。いち、に」

 意識朦朧としているブタを二人三脚の要領で運ぶ。

「ね! さっき告白してくれたでしょ? 実は私も。告白があるの」

 どうしよう。怖い。ここから弱り切ったブタを突き落とす。それで全てが終わる。誰も見ていないし、証拠も残らない。

「私の告白はね。あのチョコレートとサンドイッチ」

 でも最後の一歩を踏み出す勇気が出ない。怖いよ。人を殺すなんて。人殺しになるなんて。いいえ! やるのよ私! 心を鬼にするの!

「実はあれ、私が徹夜で作ったの! おかげで寝不足!」

 勇気を出すの! ここまで来たら引き返せない!

「この日のために大学で研究してきたんだ。ずっと待ってた、このチャンスを」

 言いながらも、まだ私の心には迷いがある。本当にやるの?

「人の体が動かなくなるおクスリ。睡眠薬とか、しびれ薬みたいなものね。少し動けなくなる程度なら、100均やドラッグストアで売っているものだけで作れるの」

 言った! ついに告白してしまった!

「パンとチョコ。タオルにも沁み込ませてあったよ」

 ブタは驚愕の表情を浮かべている。そりゃそうよね。あと一歩! 最後の一押し! それで全てが終わる! この恐怖に打ち勝って、ブタを鉄柵の上から落とすだけ!


 ……それなのに。ただそれだけが出来なかった。心臓がドキドキする。濃紺の小箱が妙に熱い。なんでよ! ここまで来て……なんで出来ないの! 私の意気地なし!

「栞奈?」

 私どうしちゃったんだろう。海や川で一緒に泳いだこと。受験勉強の日々。あの夜の出来事。思い出がフラッシュバックする。

「栞奈が望むなら……」

 ブタが自ら鉄柵の方へ向かっていく。

「僕が邪魔なんだよね……」

 立てない足で。震える腕で。這いずるように鉄柵を掴んで登ろうとする。待って! ダメ! そこを乗り越えたら落ちちゃう!

「栞奈。大好きだよ……」


「だ、ダメッ!」

 気が付くと、柵を今にも乗り越えそうな耕作の体にしがみ付いていた。なんで? なんで止めてるの私?

「か、んな……?」

 そんな不思議そうに見ないで! 私にだって……分からないよ!

「僕が邪魔でしょ?」

「違うの!」

「だって僕を薬で……」

「ごめんなさい! 違うの。ううん、違わない。耕作を殺そうとしたけれども……」

 涙が溢れて止まらない。

「いいんだ。泣かないで」

 震える手で私の濡れた頬を拭うと、もう一度柵に手をかける。そんな耕作の足にしがみついたまま、私はいつまでも泣き続けた。




「覚えているンゴ?」

 耕作のプニャプニャした、だらしないお腹を枕にすると安心して眠れる。帰国した私たちは結婚を前提に付き合う事になったの。どうしてこうなった?

「何を?」

「あの日の事ンゴ」

「あの、吊り橋の……」

 思い出したくない。

「僕もあの日、ある計画を立てていたンゴ」

 何言ってだ?

「吊り橋効果って知っているンゴ?」

「うん、聞いた事ある」

「栞奈を落とすためにね、吊り橋の力を借りたンゴ」

「ふーん」

「名付けて、吊り橋効果で気になるあの娘を落とそうバレンタインデー大作戦ゴ。もちろん、栞奈みたいに落とす(物理)じゃないンゴよ」

 そう言って彼は笑った。


 あの時。色んなものが重なって、私の心臓は爆発しそうだった。全てをぶちまけて。酷い事をして。でも彼は全てを知って。全てを受け入れて。全てを許してくれた。あの時のドキドキが何だったのか。今になっては分からない。でもね。ただの錯覚なんて思わない。優しい彼と。柔らかい体に包まれて。今、私……


「幸せよ」

「何か言ったンゴ?」

「ううん、何でもない!」

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