変わってしまった世界で
高岩唯丑
第1話
六畳ほどのワンルーム。真っ白い壁に、体をこれでもかと、くっつけている男がいた。この男は何も、壁と同化を試みているわけではない。同化したいとは、思っているかもしれないが。
四十を超えて、新型コロナウイルスで、職を失い、金もない、彼女もいない寂しい男。安田康夫(ヤスダヤスオ)。
まさかこんな世の中になるとは思っておらず、貯金もせずに、だらしなく生きてきた。安月給であったが、節約すれば、貯まる金もあったはずだが、後悔は先に立たず。今はこの有様である。
その安田は何をしているか。それは。
「アッ……メッ、イッ……う」
壁の向こう側から、微かに聞こえる、男女の営み。それを聞こうと必死になって壁にへばりついているのである。
「はぁはぁ、今日は激しいな、声が聞こえやすい」
少し火照った顔が、だらしない顔をより、だらしなく見せる。壁にくっつきながら、安田は股間に手を伸ばそうとして、やめた。
「ダメだ、それはいけない」
他人の秘め事を盗み聞ぎしているのは充分いけない事だが、安田には少しばかりの良心、正義感という物で、超えてはいけない一線を引いていた。その一線を越えなければ、ダメ人間ではないと、自分で勝手に決めたルールを持っている。
「クソ、心臓の音がうるさい」
微かにしか聞こえない壁の向こうの声は、簡単に雑音で消え去ってしまう。冷蔵庫の駆動音。換気扇の音。壁の向こう側で音を発する物と、自分の心臓の音は一番の大敵だ。
安田は一旦、壁から離れ、深呼吸をする。鼓動を鎮めた心臓を、そのままにして、また壁に寄り添う。
壁に耳が密着していると、耳にある血管が雑音を生む。耳が擦れれば、それも雑音になる。それを無くすために、静かである必要があるのだ。興奮したいがために、その音に夢中なのに、矛盾極まりない。
「終わったか」
壁の向こう側は静かになった。一度、声が盛り上がった箇所のあと、ささやく様に何かを喋っていたから、そういう事なのだろう。
「はぁ」
深いため息をついた安田は、自分の布団に仰向けに転がった。情けない夢中が終われば、襲い掛かってくるのは虚無感。自分の現実との対面。壁のこちら側に戻ってくるのだ。
何度か見かけている隣の住民を、安田は思い出した。それほどイケメンではなかった。いつもレンタルビデオの袋を持っている、売れない映画監督っぽい風体の男。モテそうではない。安田はその住民としゃべった事はないから、内面はわからない。もしかしたら、職業がカッコイイか、内面がとてもイケメンか。
「あの男と俺の差はなんだ」
同じ安アパートに暮らしているのだから、収入は多くない。顔はどっちもどっち。
「内面か……」
自分の行為に打ちひしがれる安田は、その言葉で一層、胸が締め付けられた。
「俺は薄汚い」
ふと、安田が窓を見る。ベランダを仕切る壁は簡素で、隣を覗き込める。カーテンは閉まっているだろうが隙間からなら。
「いかん、いかん」
安田は自分に課した無意味なルールを思い出す。ちっぽけな正義感。安田は思う。それを乗り越えてしまったら、真正のクズだ。
意味をなさない、ルールの確認。いつも通りの夜。そうやって、また、夜は更けていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます