神鯨の海
O(h)
第1話
静かな海。その色はどこまでも青く、白い泡のような紋様が四方によよと拡がっている。木尾は小さな四角いテーブルの上に乗ったポットから、木製のコーヒーカップにお湯をなみなみと注ぎ入れる。
クジラはその大きな口の中に木尾を住まわせているのだが、最近、陸(おか)から色々な道具を持ち込む彼にいささか辟易していた。
『木尾、そろそろ「持ち込み」は止めてくれない?僕の口の中も限界ってもんがあるから』
声はクジラの骨を伝導して、口内に響き渡る。まるで拡声器を使った放送のようで、いつも木尾は笑ってしまうのだった。
「だって、やっぱり生活するとなると色々いるじゃん。ぼくはミニマム生活を目指すって訳でもないから。好きなように生きたいだけだよ」
鼻を擦りながら、木尾は木製のスプーンでインスタントコーヒーの粉末をカップに入れてくるりと一回かき混ぜる。
昨夜クジラは歯と歯の間に吊るしたハンモックのなかですやすや寝ていた木尾が水圧で起きてしまったのもお構いなしにひたすら深く水底まで潜っていった。理由はひとつ。餌となる魚がもういつもの深さの場所ではとれないから。
空腹に耐えかねて潜航を始め、3000メートルの深さまで潜った。太陽の光はもはや届かない。音のする気配もなく沈黙と闇の世界がクジラの視界に拡がる。
口の中でカンテラを灯した木尾は水圧で耳が変になりながらあたりを眺める。
「ずいぶん潜ったんじゃない?こんなに暗くなるのもこんなに耳が痛くなるのも初めてだ・・・。」
クジラはそれにはなにも返答せず、ひらすら餌となる深海の生物を探し続けていた。
「なんだかさ、海の色が紫っぽく見えるんだけど気のせいかな・・・。これは海が汚れているからなのかな。それともぼくの眼がおかしくなっちゃった?」
テーブルの上にあった茶色い紙袋から木尾は眼鏡を取り出す。自分のセーターの裾の部分でレンズの曇りを軽くふき取ってからかけた。
「眼鏡をかけたって、色は変わらないよね。でもさぁ、幾らか青に戻ったような気がする。」
一人で話続ける木尾。海流が突然きつく流れるところでクジラはそのおおきな体躯をぐいんと捻じ曲げた。
すると口内で生じた傾斜でテーブルがすうと横滑りする。木尾はちょっと苦笑いでもとあった位置にテーブルを戻して
「どう?お魚見つかった?もう3日くらい食べてないよね。?」
ずっと沈黙を守っていたクジラは、木尾のそのそっけない一言に静かにこたえを投げかけた。
「最悪の場合は。最悪の場合はね・・・。君を頂くことにするよ。」
海はどこまでも青くそしてどこまでも深く横たわっている。
神鯨の海 O(h) @Oh-8
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