23話


錠剤を2つ口に放り込み、コップの水で流し込む。ゴクリと喉が鳴った。

違和感を抱かなくなった味と感覚に飲み慣れてしまったなと思う。ついでに視線にも。

恐怖心は未だにすぐ側にある。だがそれも一回二回と繰り返すうちに薄らいで、1週間もすればポンと口に含めるようになった。

飲めば利点が多いと改めて体験したことが、克服を促した最大の要因だろう。

薬を飲めば痛みは減る。

痛みが減れば、膀胱を酷使することなくトイレに行ける。トイレの心配をしなければ、トイレから離れたリビングに行って暇を潰せる。良いこと尽くめだった。


「那緒さん」


那緒は口をへの字に曲げている。

痛みに行動を制限されなくなったことで、リハビリは順調に進んでいる。このままいけば、近いうちに壁で身体を支えずとも歩けるようになるだろう。

ふいっと顔を逸らした。

二足歩行が可能になれば、悪趣味なトラップで進歩最悪の探索も今よりスムーズに進むに違いない。


「那緒さん、僕は怒っています」


回復に比例して宇久森の出社率も上がりつつある。快適な生活は手放し難いし、犯人のことですぐにとは行かないだろう。

だがあと少し、あと少し辛抱すれば元の生活に戻ることができる。

良いことばかりだ、と那緒は目を閉じる。

囚われている状況というのは精神を蝕む。小さな希望でも持つことは大切だ。

とはいえ、油断してはいけない。日記のような宇久森トラップが1つとは限らない。

特に趣向品おやつのような普段ならば決して手を付けないような物がこれ見よがしにキッチンに鎮座していたとしても、決して、そう決して手を付けてはいけないのだ。


「ポテトチップスを食べましたね」

「……(唇を舐める)」

「な お さ ん」

「……構いすぎるとハムスターは死ぬのよ」

「那緒さんは齧歯類ではないでしょう?それに、あなたの場合はやり過ぎなくらいがちょうどいいと学びましたので」

「ははっ、そんな子どもじゃないんだから」

「はははっ、僕のいない隙にキッチンに侵入してお菓子を食べている方は子どもと大差ありませんよ」

「ははは」

「はははは」

「………」

「…………」

「.......ごめんなさい」

「よろしい」


口元についた欠片を拭われながら那緒は思う。ポテトチップスは美味かった、と。

小腹が空いてキッチンを物色すると、わたしを食べてと言わんばかりの黄色いパッケージを発見。「あかん罠や!」と思ったが、腹が減ってはなんとやら。ついつい手が伸び一枚二枚と拝借し、パリパリの食感と塩味に感動しているところに宇久森が帰宅。隠す間もなく発見され見事に捕獲されたのであった。


( あれは見事なトラップだったわ )


般若顔で仁王立ちする宇久森に念を送る。

ジャンクフードと縁遠い人生を送ってきた小娘の前に、あんなパーティーフードを仕掛けるなんて姑息な奴め。べつに屈してなんていないから、ぜひぜひまた設置してくれてもいいのよ!と唾を飲み込んだ。ほんのり青のりの香りがして目を細める。ジュル。また食べたい。

目敏い宇久森は那緒の緩んだ顔を見て、笑顔で額に青筋を浮かべた。

ひゅおっ、と喉から変な声が漏れる。


「那緒さん、別のことを考えていますね」

「ソンナコトナイデスゥ」

「誤魔化すの下手くそですね」

「よせやい」

「褒めてないです」


いいですか、と宇久森が人差し指と中指を立てて2を作る。ピースサインか。


「那緒さんの罪状は2つ。キッチンへの不法侵入と夕食前のお菓子の摘み食いです」


子どもではあるまい間食くらい好きにさせろと思うだろうが、那緒の食は元より細い。

通常の人間が茶碗1杯食べると仮定すると、彼女はその半分しか入らない。酷い時にはチョコレート1欠片で腹が膨れる超少食体質。無理に胃に流し込めば逆流は必須。万全ではない体調での間食は自殺行為に匹敵する。

ゆえに那緒は間食禁止令を出されていた。だが、ポテトチップス(のり塩味)の前に人類はあまりに無力。那緒は禁忌を犯し、楽園ポテト果実チップスを食べてしまった。

そこに後悔の二文字は無い。

あるのは鼻腔に残る油の味だけ。

けぷっと口から空気を吐き出す那緒に、宇久森は片手で額を抑えた。反省の色がまったく見えない。彼はこれ以上のお説教は無意味と判断した。


「......復唱してください、割れ物が多いキッチンには入らない。はい」

「キッチンには入らない」

「間食は出されたものだけにする、はい」

「間食は出されたものだけにする」

「ポテトチップスは?」

「一食だから食べてもいい」

「なにも分かってないようですね」


食べ掛けの袋に輪ゴムがされ冷凍庫にしまわれる。那緒が食べたのは5枚。まだまだ袋はパンパンだったが、比例せず那緒の腹はすでにパンパンだ。

腹を撫でる那緒に、宇久森か唸る。

だから言ったのに。


「ご自分の食が細いのは自覚しているでしょう。間食は避けるようにして下さい。チョコレートを召し上がって肉じゃがを残したのをお忘れですか?」

「残り美味しそうに食べてたじゃん」

「それは勿論です!那緒さんの唾液がついた肉じゃがは普段の肉じゃがの10倍、いえ、100倍は美味しいんですから!」

「ならいいじゃん」

「よくありません。僕はうはうはですが、那緒さんの体調的には悪です。しっかりと完食できるようになって下さい」


それまで間食はダメです、と詰め寄る。だいたいポテトチップスなどの添加物や油や塩が多い間食など.....と食育ママのようなことを言い始めた宇久森。


「食べれないより食べれる方がいいじゃん」

「そういうのは、茶碗1杯食べれるようになってから言ってください」

「総合すると茶碗2杯分は食べてる」

「ああ言えばこういいますね」


まったく、とぷんすこという言葉が似合う怒り方をする。だがこれに那緒は苦言を呈する。


「そんなに食べさせたいのなら運動させてよ。食っちゃ寝してるんだから、沢山なんて食べられない」

「先日、ようやく壁伝いの二足歩行を可能にした方に人並みの運動なんて許可出来ません」

「人並みって....なにも筋トレしようって話をしてるんじゃないわよ。なんでもかんでも駄目って言わないで、ちょっと家事ぐらいやらせてって話」

「いけません」

「なんで」

「那緒さんは、掴まり立ちから卒業できない赤ちゃんを台所に立たせますか?」

「........じゃあ洗濯でも」

「油が跳ねて避けたときによろけたら?火傷しても素早く水道にいけませんよね?包丁を持っている時にバランスを崩したら、踏ん張れない那緒さんはどうなると思いますか?」


言葉に詰まる。

確かに危ないなと思い直し、台所以外の選択肢を提示したときにはもう遅い。まずいと思ったときには手遅れで、それは始まってしまう。


「危ないんです。本当に」


ゆらゆらとふたつの黒曜石が揺れる。膝を折った彼が那緒の細い腕を掴むが、力は無い。ただ縋るように手首を取られた。チャリと鎖が椅子に擦れて音を立てる。


「お願いですから、やめて下さい。台所に入られるのだって本当は気が気ではないんです。お菓子を取るという簡単な動作ですら、今の那緒さんには危険になる可能性がある。もし、またあんな......」


裾を握る手が震えている。

また、だ。

薬の一件から過保護に磨きがかかった。会話のどこかにスイッチがあって、不意に押してしまうと人が変わったみたいに怯えだす。

取り繕うことなく縋って、願って、那緒を守ろうとした。初日から宇久森がときおり見せる顔だが、それが頻発するようになった。

明らかに情緒が不安定になっている。

離れる時間が増したせいか、それともあの薬の件でかは分からない。だが1日のうちに何度も顔を覗かせるようになった顔それが、那緒は得意になれなかった。


( こわっ )


先端で顔を出すのは恐怖心。でも根本で宇久森を見つめている己は、それに嫌悪したことはない。欲とは違った濁った労り。汚れた思いやりは人間らしくて、純粋の皮を被った綺麗な言葉より余程信用できた。何度も聴いていれば絆されてしまうほどに。

この関係が続いてしまう気がした。

怪我が治った後も。犯人が全てを吐いた後も。ズルズル、ズルズルと宇久森の生活に那緒がいるような予感がしていた。違和感しかなかったこの手枷に、すっかり慣れてしまったように。


( これは慣れてはいけないものだ )


自分は薄氷の上にいる。

頼りない足場の下は光の届かない深海で、身体を支えるロープすらない裸のままそこに立っている。踏み出した瞬間に氷が割れるのか、誰かに砕かれるのか、それとも無事に岸に辿り着けるのか。それすら分からない状態で放置されているのだ。ハンマーを持った男と共に。

自衛せねばならない。

例えどんなに己が立つ氷の上が極楽でも、いつなんどき深海へ沈められるのか分からないのだから。


「それでも、運動はしなきゃ」

「........」

「元気になってほしいんでしょ?それなら寝て、運動して、食べなくちゃ」


諭すように吐いたはずの言葉は、弱味に漬け込むような後味になった。嚥下。


「元気に」

「そう、健康の基本でしょう?」

「..............かりました」

「うん」

「運動が、できればよろしいのですね」

「え、うん?」

「承知しました。2、3日待ってください。すぐに準備しますから」

「うん??」


そうか納得してくれたか、と笑顔になったのは一瞬で、顔を上げた宇久森に表情が固まった。

笑っていなかった。

口元だけが弧を描いていたが、それだけ。目はどこか遠くを見ていて、ぼんやりと焦点が合っているのかも怪しい。

那緒は閉口する。選択肢を間違えたかもしれない、と後悔しても後の祭り。

己はいったいなにを肯定して、彼はいったいなにを承知したのか。その答えを知ったのは、それから3日後のことだった。





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