リバーシ

ヘイ

第1話

 カラン。

 と、世界は裏返った。

 二転三転。

 何度廻ったか、世界は宙返り。

 コインの表裏はくっ付かず。

 白も黒も混ざる事はない。

 

『おやすみ』

 

 優しい声が響いて、世界は定まった。

 カランカランカラン。

 わずかに揺れた世界はピタリ止まった。

 カタカタカタ、カタン。

 微動が止まり、世界は正常に進み出す。

 

「どんな心地かな」

 

 病室、いや、診療室だ。

 三人がいる。

 丸い身体の狸のような医師と、スレンダーな体つきの看護師、不健康そうな目の下の隈が目立つ黒髪の少年。

 

「……眠いです」

黒木くろき白墨はくぼくくん、診察は終わったよ」

「あれ、いつの間に?」

「ついさっきね」

 

 記憶の中を探る。

 ただ記憶は眠りに落ちた時のように曖昧で判然としない。眉間を指で揉みながら、更に深く記憶の中に潜るが何も出てこない。

 

「……ああ、それで何でしたっけ」

 

 覚えていない。

 病院に来た理由はなんだったか。

 

「君の記憶が飛ぶことについてだけど」

「……ああ、そうでした」

 

 カチッ。

 スイッチが入ったように白墨の意識が覚醒する。冷や水を浴びたように、産毛が立つように。

 

「問題は無いよ。ただ、一応問題があるようなら、また来るように」

「あ、はい」

 

 気が抜けたような返事。診察室の出口を看護師に案内されて待合室に出る。

 窓の外は明るい。

 白墨は流れるように空いたソファに腰掛けた。

 

「…………」

 

 壁の時計が目に入る。

 チク、タク。

 時を刻む。

 十四時三十五分を僅かに過ぎて。秒針は回り続ける。今日はどうにも人が少ない。

 そう言えば今日は平日だった。

 

「んー……」

 

 学校に連絡は入れたのだったか。

 

「まあ、いいか」

 

 白墨は意識を逸らして、ポケットにしまってあった携帯電話を取り出す。

 表示されるのはシンプルな画面。

 初期設定から何も変えていない。

 面倒は嫌いだ。

 白墨は自らの人生に於いて、無駄という言葉は入り込ませたく無いと考えている。

 病院に来たのは父親に言われたからだ。行かなかった場合の対処を考えれば、行った方が面倒はないと考えた。

 

「黒木白墨さん」

 

 カウンターから女性の呼ぶ声が聞こえて白墨がソファから立ち上がる。

 

「はい」

「診察の結果です。あとこちらが……」

 

 紙袋。

 それも小さな物。

 恐らくは薬だろう。

 

「用法用量はお間違えないように」

「あー、はい」

 

 白墨としては不健康である事は確かに認めるが、まさか高校生という若い身空でありながら薬に頼る事になるとは思いもしなかった。病院通いの者達がいる事は把握していた、薬を渡される者も居るのも。

 それが自分になるとは。

 

「朝、夜の二回です」

「分かりました」

 

 財布から一万円札を一枚取り出してカウンターに乗せる。父親から渡された一枚だ。

 お釣りを確認して、財布に仕舞い込む。

 

「ありがとうございます」

 

 白墨が振り返ると女性の声が聞こえて、軽く会釈をして病院を後にする。

 

「何か、後ろめたいな」

 

 別にサボッタージュをしたと言うわけでもないが、昼間と言っていい時間帯に特に励むわけでもないが机に向かわずに外にいるというのは思うところがある。

 空は真っ青。

 暑いと思えるほどに。

 そういえば蝉の鳴き声が五月蝿い。

 じんわりとかく汗の不快感も、耳の奥まで揺らす蝉の姦しい音も。

 夏は嫌いだ。

 日差しが強い、暑い、五月蝿い。

 よりどりみどりの三重苦。

 

「帰るか……」

 

 健康上の問題があったわけではない。

 あった所でそのまま帰る。

 タクシーに乗る理由などない。

 白墨が病院の敷地を出た瞬間に、カランと何かが聞こえた。

 近くから。

 

 カラン、カラン、カタカタカタ。

 カチン。

 

 反転した。

 同時に、白墨の足が自然と動き出す。引き寄せられる様に。理解不能なまま。聞き覚えのある音の方へと。

 

「…………」

 

 好奇心が勝手に足を動かすと。

 白墨は昔、祖母が言っていたことを思い出す。物を無くしたのなら、それは足を生やして勝手にどこかに行ってしまったのだとか。

 好奇心は足を生やしたのか。

 突き動かされる身体を止められない。

 

「…………」

「あーと、えーと」

 

 見知らぬ道。

 わからない場所。

 目の前にはキャップを被った少女が蹲っている。音の発生源はここだった。だが、何の意味があるのかが分からない。

 もう、音は治ったのだ。

 だが、不可解な音が響いた。

 ミシリミシリ、メキメキ。

 骨を砕く様な音。

 チューチューと、いや、ジュルジュルと啜る様な音。

 鼻をついたのは腐った様な臭いと、鉄の臭い。彼女の匂いと思しき物は搔き消える。

 白墨は顔を歪めた。

 臭い、暑い、五月蝿い。

 

 ミーンミンミン。

 

 蝉の音が木霊する。

 蝉の音と何かを啜る音。

 えらく不愉快なデュエットは確かにストレスを蓄積させる。

 

「あ、は……」

 

 振り向いた彼女の口元は紅に濡れ、ただそれは口紅ではない事は理解できる。見開かれた金色の目は確かに白墨を捉えていた。

 胸は大きく、薄いTシャツを押し上げている。スポーティーな格好をした彼女は血に塗れてさえいなければ確かに魅力的だったろう。

 

「…………っ」

 

 不味い。

 察知した白墨は逃げ出そうとする。

 四つん這いの女性が時速四十キロメートルの速度で迫る。人間の出せる速度ではない。開かれた口は糸を引く唾液と赤い舌。

 肉食獣の様に。

 白墨の左足に噛み付いた。

 

「あ、ぐっ…………いっづぅあああああ!!!!」

 

 噛まれた。

 人間に。

 脚を。

 顎の力の話を思い出す。人間は覚醒状態にある時の顎の力はそう大したものではないが、無意識下の、歯軋りの様な物をするとき人間の顎の力は肉食獣に迫ると言う。

 だからと言って。

 彼女は明確に殺意を持って襲ってくるのだ。

 意識はある筈。


「ヴルルルルルゥゥウウ……」

 

 人間らしき理性はなく、獣性に溢れた彼女は例えるのであれば獅子。

 

 グンッ!

 

 軽自動車に跳ね飛ばされた様な衝撃。

 

「かっ、は……!」

 

 不健康で細い身体で耐え切れるはずもなく、白墨の口から唾と空気が漏れた。

 黒い髪。

 白墨の記憶の中に彼女はいる。

 有名人だ。

 陸上部の少女。

 全国大会三位にまで至る学校の星。白墨とは関わりがない。

 本来ならば。

 

花芽はなめらん……サボりかな」

 

 ふざけた調子に尋ねて見せるがより一層の力で迫る。マウントポジションを取られてしまった。

 蘭は美少女の部類に入る。

 しかし、こんな状況では興奮など覚えるはずもない。

 蘭の口からは赤の混じった唾液が垂れてくる。

 

「俺は、サボりじゃないから……さ!」

 

 蘭の脇腹を右手で殴りつけるが苦悶の表情すら浮かべない。不味い、不味い不味い。

 暑い。

 重い。

 五月蝿い。

 

 カラン、カラン、カラン。

 

 こんな時だというのに、呑気にも眠気に襲われる。白墨の視界がグルグルと回り出す。

 カタン、カタン、カタン。

 時計の針が回る様に。

 

「────おはよう」

 

 優しい声が響いた。

 紡いだのは白墨の口。

 弧を描いている。

 何もかもが違う。

 雰囲気の全てが。

 再び白墨の右拳が蘭の脇腹に突き刺さり、今度は彼女の体を数メートル吹き飛ばした。

 

「バッド・モーニングだ」

 

 白墨は髪をガシガシとかき上げる。

 不健康そうな目の下の隈は消え、毛の色は白色に。

 目つきは鋭く、体つきは細身から筋肉質に。黒木白墨だとは思えない。

 

「二回も起こされんのは嫌だな。気分が悪い。イライラする」

 

 白墨は右腕を振りかぶり、蘭の脳天に叩き込む。

 

「蝉が五月蝿い、暑い、気持ち悪い。そんなんでも何かにぶつければスッキリできる」

 

 クラクラと、脳を揺らされたからか蘭は千鳥足。ガクガクと脚を揺らしている。

 

「だからお前は、サンドバッグだ」

 

 ニタリ。

 胸倉を掴んで、蘭の顔をタコ殴り。容赦はない。白墨はイライラしているから。

 

「あ、ぶっ……ぁ……」

 

 呼吸すら辛いだろう蘭の顔を殴り続ける。

 

「ハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 高笑い。

 楽しくてたまらない。

 拳は血で染まっていく。

 暴力は快楽だ。

 何かを傷つける事で心は癒される。

 

「……チッ、スッキリしちまった」

 

 ボロボロの蘭を投げ捨てて物足りないと言うように舌打ちをする。

 

 カラン、カラン、カラン。

 

 世界が廻った。

 

 カタン、カタカタカタ。

 

 再び世界が定まって、白墨は檻の中。

 記憶が見つからない。

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リバーシ ヘイ @Hei767

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