第4話 執事シリル
北へと向かう馬車が、ガタゴトと揺れながらゆっくり進んでいく。
敷地外に出るなんて何年ぶりかしら。少なくとも小屋に移ってからは一度も出られなかった。
町に行くにも敷地内を通るか危険を冒して深い森を抜けるかのどちらかしかなかったし、敷地内は騎士が出入りを見張っていたからこっそり出かけるということもできなかった。
だから、“外”の景色を見るのは本当に久しぶり。
目に入るのは畑ばかりだけれど、なつかしくて愛しい風景だわ。
お母様が生きていた頃はよく農作業の手伝いなどもしていた。屋敷でふんぞり返っているだけでは領民の心に寄り添えない、伯爵家の人間だからこそ領民の仕事と生活を知るべきだと。
牛馬の糞の片づけ、餌やり、種まき、稲刈り。色々貴重な経験をしたわ。お父様は一度もなさらなかったけれど。
春の種まきは終わったのかしら。豊作だといいのだけれど。
……それにしても。
眠い。
馬車の乗り心地は決していいものではないのに、眠気が襲ってくる。
ついさっきマリアンが持たせてくれた昼食のサンドイッチを食べたから、よけいに眠いわ。だって昨日は結局寝ていないんだもの。
眠い……。
……。
「お嬢様、起きてください」
御者の声にはっと目を開ける。
馬車の窓から外を見て驚く。いやだ、いつの間にか夕方になっているわ。ずいぶん眠っていたのね。
ここはどこかしら。どこかの街のはずれのようだけど。
「ここは……?」
「ガーランド辺境伯領最南端の街です。今日はここでグランヴィル家の方と落ち合うことになってます。迎えが来てるはずなんですが……あっ」
馬車の外で、御者と誰かがボソボソと話している。
ほどなくして、馬車の扉がノックされた。
「扉をお開けしてもよろしいでしょうか」
若い男性の声。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
扉がゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、二十代前半くらいの男性だった。
オレンジ色のふわふわのくせ毛と空色の瞳がとても綺麗。
「お初にお目にかかります。グランヴィル家の執事シリルと申します」
ずいぶんとお若い執事だわ。
きっと優秀な方なのね。
「ご丁寧にありがとうございます、シリルさん。フローラ・アストリーと申します」
「私は執事なのですから、敬語などおやめください。私のことはシリルとお呼びください」
シリルが手を差し出してくれる。
私はその手をとって馬車から降りた。
「ありがとう、シリル」
「いいえ。それよりも、侍女はお連れではないのですか?」
「ええ、一人で参りました」
「護衛の騎士も……」
「おりません」
「承知いたしました。お荷物は……そのトランクのみでよろしいでしょうか」
「はい、トランク一つだけです。……ごめんなさい」
さすがに恥ずかしくなってしまった。
だってすべて辺境伯に用意してもらおうというのが見え見えなんだもの。
きっと図々しいと思われたわ。
「謝罪される必要などありませんよ。もともと身一つでとこちらから申し出ているのですから」
シリルが私を安心させるようににっこりと笑う。
その笑顔に、少しだけ救われた。
「気遣ってくださってありがとう。シリルは親切ですね」
「もったいないお言葉です」
シリルがさっとトランクを持ってくれる。
「宿をご用意してあります。今日はそちらに宿泊していただき、明朝出発いたします」
「わかったわ」
乗ってきた馬車はそのまま伯爵領へと帰っていった。
案内された宿はとても立派なつくりで部屋も広かった。きっと貴族やお金持ちの商人が利用する宿なのね。
宿側で身支度を手伝ってくれる人を用意してくれるとのことで驚いたけれど、手伝ってもらうような身支度もないのでお風呂の用意以外は断った。
夕食はレストランで食べるか部屋で食べるかを選べたので、部屋で食べることにした。
鴨肉をローストしたものに、ふわふわの白パン、ベーコンとアスパラのサラダ、玉ねぎのスープ、果物のパイまで。
どれも美味しくて美味しくて夢にまで出てきたほどだった。
気兼ねなく入れるお風呂と久しぶりのフカフカベッドはとても心地よくて、ぐっすりと眠ることができた。
美味しい朝食をいただいて身支度を整え終えたところで、シリルが部屋をノックした。
「どうぞ入って」
「失礼します、お嬢様。昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、とても寝心地のいいベッドでぐっすり眠れたわ。起きた後に体が痛くないって素晴らしいわね」
「? それはよかったです。お顔の色も昨日よりいいですね。それにとてもうれしそうに見えます」
「朝食のあとにいただいた紅茶がとても美味しくて」
「……? お嬢様は紅茶がお好きなのですね。馬車の準備が整いましたが、出発してもよろしいでしょうか?」
「はい。行きましょう」
外に出ると、伯爵家のものよりも数段立派な馬車が停まっていた。
馬を連れた護衛騎士らしき人も二人いる。
シリルの手を借りて馬車に乗ると中も広く、椅子も驚くほどふかふか。こんなに豪華な馬車、乗ったことがないわ。
「私も同乗させていただいてもよろしいでしょうか」
シリルが遠慮がちに訊いてくる。
「ええ、もちろん」
御者席は一人用だし、当然同乗するものだと思っていた。
「本来ならば馬車の中とはいえ二人きりになる状況は避けるべきところ、こちらの不手際で申し訳ございません」
「とんでもない。私が何も用意してこなかったのがいけないのです……」
嫁入りする貴族は、最低でも一人は気心の知れた侍女やメイドを実家から連れてくるのがならわしなのよね。
けれど、お父様にそれを言ったら「たった一年で離縁されるのにメイドなんてつれていったらうちにもあちらにも迷惑だ、一人で行け」と言われてしまった。
お父様はどこまでも伯爵家の体面を気になさらない。いくら形だけの結婚といえど、最低限の体裁は整えていただきたかったのだけれど。
……だめね、つい愚痴っぽいことを考えてしまうわ。
「お嬢様が気に病まれることはありません。何かと都合を押し付けているのはこちらなのですから」
シリルが私から一番離れた斜め向かいに座る。
馬車はゆったりと進み始めた。
少しずつスピードを上げるけれど、思ったよりも揺れが少ない。
「馬車というのはこんなに早く走れるものなのね。揺れも少ないわ」
「まず馬が特別仕様で普通ではありません。それと、道をできるだけ凹凸の少ないよう舗装してあります。また、馬車にも工夫をこらしています」
「素晴らしいわ」
「現辺境伯が道の整備に力を入れているのです。まだ後を継いでから五年ほどなのですべての道を整備できたわけではありませんが」
「道の良し悪しは輸送の時間などにも影響するし、大事なことよね。立派な領主様なのね」
「そうですね。領主として、そして騎士として見るなら素晴らしい男ですし尊敬しています。ただ夫としては……」
シリルがちらりと私の顔を見る。
そんなにひどい方なのかしら? それとも例の噂のことを言っているのかしら。
「申し訳ありません、お嬢様によけいな先入観を植え付ける必要はありませんね。わが主をどう判断するかはお嬢様次第なのですから」
「そうね。お会いするのが楽しみだわ」
シリルに笑顔を向けると、彼はどこか困ったような笑みを浮かべた。
噂通り冷たい方なのかしら?
でも優しいシリルが尊敬するほどの人だから、きっとひどい人ではないはず。
話し上手なシリルが領地のことなどをいろいろ話してくれたので、馬車の中で過ごした数時間は楽しい時間になった。
そして、西の空が赤く染まり始めたころ。
「お城……?」
とんでもなく広いお屋敷に、到着した。
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