信長の経済学

鏡銀鉢

第1話 プロローグ 信長が戦国の覇者になれた理由

 織田信長は、日本史上もっとも経済政策に優れた人物である。


 軍事面の活躍ばかりが取り上げられる信長だが、彼の軍事力を支えていたのは、目が飛び出るような経済力であった。


 その金をどう稼いだか。


 戦国の魔王という後世のイメージから想像するに、悪代官よろしく国民から絞り取ったか。いや、実はこの信長、戦国随一の超『減税』大名だった。


 平成日本ならば、国は金が必要になると増税する。だが信長は『減税』し国民の暮らしを楽にすることで国の収入を上げるという、経済政策の錬金術師なのだ。


 もちろんこれはただの比喩表現。


 信長は錬金術師でも、まして魔王でもない。


 誰もが平和に豊かに暮らせる方法を模索し、そして実行した、ただの恋する少年だった。




 戦国時代の日本。尾張の国。平成ならば愛知県西部にあたる地にて。


 桜の咲くとある日の昼下がり。信長一行は戦から帰城した。でも、その一行は少年や青年ばかりだった。格好も並び方もてきとうで、隣同士で笑いあいふざけあっている。平成でたとえるならば、学校祭後の打ち上げに行く男子高校生たちのようだ。


 そのなかには、のちに無双の槍使いとなる前田利家、猛将池田恒興、織田四天王丹羽長秀、といった英傑たちが、まだ無名のままぞろぞろと歩いている。


 その先頭を歩く青年は、のちの戦国三英傑筆頭、織田信長だ。


「勝った勝った♪ おいお前ら、松葉城取り返してきたぜ!」


 上機嫌に居城である那古野城に凱旋してきた信長一行。

 信長とその家臣団を出迎えたのは、可愛らしい女中の女の子たちだ。女の子たちを前に、家臣団は急にふざけ笑うのをやめ、冷静に振る舞いカッコをつける。


 信長は屋敷には上がらず、足を庭へ向けた。

 井戸水を浴びて汗を流すつもりだ。

 女中たちは、みな笑顔で信長のあとについていく。

 可愛い女の子たちに鎧を脱がされながら、信長は大笑した。


「かっかっかっー♪ このまま尾張を統一するぜぇ!」


 この頃の信長は、死んだ父の後を継ぎ、織田家当主となっていた。だが出身尾張国の国主ではない。どういうことか。


 まず、織田家と言っても一枚岩ではない。尾張国内には信長の父、信秀の兄弟やら従兄弟やらさらに遠い親戚の織田家がたくさんいて、それぞれが尾張を分割統治している。


 信長の父である信秀はヤリ手のデキる男だったため、どの織田家も渋々従っていた。


 しかし、信秀が死に、息子信長の代になると、親戚連中は尾張国内で独立割拠群雄割拠。尾張国内はプチ戦国時代に突入してしまった。


 この頃の信長は、天下統一の前に、尾張統一のための戦に明け暮れていたのだ。


「まっ、信友や大膳のおっさん共なんか、俺の敵じゃあないよな♪」

「ずいぶんとご機嫌がいいようですわね」


 信長の笑顔にヒビが入った。

 井戸の前で信長は右向け右。壊れたカラクリ人形のようなぎこちなさで振りむく。縁側に品良く座り、澄まし顔を向ける美少女がひとり。その冷やかな視線に、信長は動けない。


「それで凱旋した信長さん。妻であるワタクシに、なにか言うことはありませんの?」


 頬を引きつらせたまま、蛇に睨まれたカエルのように動けない信長。女中たちは信長の着物を脱がせ、上半身に桶で井戸水をぶっかけ、手拭で全身を拭いて、乾いた新しい着物を着せる。


 そして女中たちは逃亡。柱や曲がり角から顔だけ出して、観戦態勢に入っていた。

 美少女は自身の左隣を手でやさしく叩く。


「信長さん。どうぞこちらへ」

「えぅッ!? お、おいお前らッ」


 家臣団は、のちの織田四天王丹羽長秀しかいなかった。長秀はメガネの位置を直し、


「全員お腹が痛いからって帰りました。僕も女子は苦手なので帰りますね」

「クァッー! あの童貞どもが!」

「信長さん」

「はぶっ!?」


 一歩あとずさる信長へ、美少女は恐毒蛇(マムシ)のような目でもう一度、


「こ、ち、ら、へ」

「ひゃ、ひゃい……」


 信長はカチコチになったまま、トントン紙相撲の力士なみの動きを披露。美少女の隣に腰を下ろした。


 美少女の名前は帰蝶(きちょう)。後世では濃姫の名で知られる、信長の妻だ。奥様だ。ワイフだ。しかも一番最初の妻、いわゆる正室である。


 とはいえ、いまは中世日本の戦国時代。信長と帰蝶は親同士が決めた政略結婚で結ばれた仲だ。愛しあって結婚したわけではない。もっとも、武家ならばどこの夫婦も同じだ。


 ただし……


 信長は視線を逸らし、帰蝶の横顔を盗み見る。奥様の横に座って、奥様の顔を盗み見る。


 絹のように艶やかな髪は夜空を切り取ったように黒く、月のように太陽の光を受ける。


 手を加えずとも整った眉。大きく吸い込まれそうな瞳は黒真珠のように美しく、長いまつ毛に縁取りされて信長を魅了した。


 それに、品の良いくちもとや、陶磁器のように白い肌は、見ているだけで触れたくなってしまう。美貌だけでなく体にも恵まれ、着物の上からでも胸の発育ぶりがうかがえる。


 額と背中が汗ばむなか、信長は息を吞んだ。


 ――うわぁ、すげぇ……いやいやいや、ヤバイだろ。これが俺の奥さんとかありえないだろ。絶対ヤラセだろ。おい仕込みの連中、早く『大成功』って書かれた看板持ってネタバラしにこいよ! いまなら許すから! ていうかお願いきてぇええええええええ‼


 帰蝶は美濃国を支配する大名、斎藤道三の娘だ。


 ただ、同じ大名の子と言っても信長と帰蝶は天地ほども違う。


 まず帰蝶は、京の都にも近い首都圏のオシャレであかぬけたビッグな大国美濃の主、斎藤道三の娘として生まれたお嬢様育ち。上流階級のお姫様だ。


 対する信長は、美濃の隣国ではあるが田舎の小国尾張の主、織田信秀の息子。しかも大名の御子息とは名ばかりで、ろくに勉強もせず幼い頃から悪ガキ共とつるんで山野をかけまわり泥だらけになって遊んだガキ大将だ。


 なにもかもが違いすぎて、信長には帰蝶が同じ人間とは思えなかった。


 ――ヤベェよ、帰蝶スゲェいい匂いするんだけど、これお香の匂いじゃないよな? 帰蝶自身の匂い? どんだけ高貴な匂いだよ! これが本物のお姫様なのか!?


 どうやら信長は、自分が織田大名家の王子様であることを忘れているらしい。信長の姉妹は、全員本物のお姫様である。


「さきほどから何もおっしゃりませんが、ワタクシと一緒にいるのは退屈ですの?」

「ヴぇ!? そ、そんなことはないよぉ」


 ――ああもう口のなかが胃液の味しかしねぇよ。俺はなにを話せばいいの? お姫様は俺になにを求めているの?


 神仏を恐れぬ信長が、天にもすがる気持ちで話題を振る。いや、思い出す。


「あ、あーそういえばうん、俺、戦に勝った、ぜ、でございますですよ……占領された松葉城ね、取り返したから」


 うわずった声の信長に、帰蝶は語気を強める。


「ッ……他に、なにかありませんの?」

「え!? 他に!?」


 もういっぱいいっぱいの信長は裏返った声で、


「お、尾張統一も、夢じゃない、ぜ?」


 帰蝶の眉間にしわがよる。


「妻にもっと、気のきいた言葉はありませんの?」


 信長は胃痛に耐えながら振り返る。


 柱や曲がり角から顔を出す女中たちは握り拳を作り、口パクでがんばれと応援してくる。


 ――違うんだ。応援じゃなくて台詞と話題が欲しいんだ。


 信長が池のコイのように口をぱくぱくさせると、小柄で細身の女中が、筆で紙になにかをしたためた。勢いよく紙を裏返すと、


 バッ 『がんばれ』


 ――燃えるゴミ増やしてんじゃねぇぞゴルァ!


「コホン」


 帰蝶が咳払いをして、信長は目を充血させる。


「えっと……て、天下を統一して俺が天下人になるから、期待していろよ?」


 流れる沈黙。帰蝶は息をついて、ぷいっと顔を背けた。


「もういいですわ」

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」


 奈落の底へ落ちてゆく絶望感。取り返しのつかないことをしてしまったような喪失感。起死回生の話題は出張中。このままでは間が持てない。というかいまは持っているのか、という自問の渦。


「そういえば帰ってくる途中、商業活性化のいい案が浮かんだんだよ、聞いて驚けよッ」


 無反応の帰蝶。言葉を吞みこみ、信長は走り出す。


「おぉっと! お腹が痛くなったぁああああああああああ!」


 脱兎のごとく逃げ出した信長の背から視線をはずし、長身巨乳の女中が鋭く、


「記録は?」


 メガネをかけた爆乳の女中が残念そうに顔を上げ、


「二分十五秒です……」


 さっきの小柄で細身の女中が、やれやれと首をふる。


「奥さんと三分も話せないなんて、情けないっすねぇ」


 メガネ女中はメガネの位置を直しながら、


「わ、わたしは可愛い人だと思いますが」


 と頬を染める。長身の女中は涙ぐむ。


「うぅ、かわいそうな信長様」


 他の女中たちは、金銭のやりとりをしている。どうやら信長がどれだけ話せるかで、賭けごとをしていたようだ。


 女中たちがこれだけ緩いのも、主君との距離が近いのも、信長の性格によるものだ。けれど、堅苦しくない信長は女中たちから慕われている反面、家臣たちからの評判は悪い。


 帰蝶から逃げ出した信長は馬に乗ると、すぐに那古野城を飛び出した。

 途中、すれ違った大人の家臣たちが噂する。


「また奥方さまをほうって、どこへ行くのやら」

「信長様の価値なんて、奥さんの実家っていう後ろ盾だけなのにな」

「あーあ、先代様の命令で、この那古野城に勤務させられたが、弟信行様のいる末森城に勤務したかったぜ。なんであんな『うつけ者』なんかの家臣に」

「いや、どうも末森城じゃ信行様を当主に、という動きがあるという噂が」

「本当か? ならそれを機に俺らも」


 噂ひとつで、大人の家臣たちは色めき立つ。


 遠ざかる家臣たちが何を言っているか、信長には容易に想像できた。


 歯を食いしばり、信長は北へと馬を走らせる。

   

―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—―—

●第6回カクヨムWebコンテスト 現代ファンタジー部門特別賞受賞作●

【スクール下克上・超能力に目覚めたボッチが政府に呼び出されたらリア充になりました】

 ★2022年3月1日発売です。★

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る