第9話 予期せぬ求婚
王都に朝の列車で戻る予定のブライアンの見送りには、早朝から屋敷の住人が総出で玄関先まで出てきていた。屋敷の皆が皆彼の安全を願い激励の言葉を掛けている。
今日はさすがに駅までは馬車で行くようで、玄関前には一台の馬車が出発準備万端で待機していた。
この場にはニコラスの姿もある。彼も実は今日王都へと戻るが列車時間は敢えて弟と被るのを避けたのか余裕を持たせていた。
(やっぱり兄様は仲直りしたそうだわ)
さっきから会話のタイミングを探すように弟ばかりを気にして見ているし、そうでなければ見送りになど来ないだろう。
喧嘩と言っても問題はブライアンの方にあるのだろうとクレアは思う。ここ数日彼は終始兄を避けていた。態度も素っ気なく、この調子ではニコラスが一方的に話しかけているだけで百年経っても全く解決には至らないだろうとクレアはやきもきしていた。
シシーの頼みでもあるのでクレアが仲を取り持とうとしてもブライアンは「関係ない」の一点張りだったし、しつこくすれば逃げられてしまうのが落ちでその話題に踏み込めない始末。
だからか、クレア自身も段々と彼の頑固過ぎる態度に腹が立ってきてしまい、昨日の夕食後などは引き止めて話をした際にまたもや「関係ない」と言われ、カチンときて「もういいっ」と怒って自分の部屋に戻ってしまったので多少気まずかった。なので今朝もまだ話し掛けてもいない。
ブライアンはブライアンでその前より一昨日より、そして昨日よりも沈んだ顔をしている。
(そんなに落ち込んじゃうならさっさと仲直りすればいいのに)
一通り皆から出発の激励と無事を願う言葉を掛けられたブライアンは、クレアの方に視線を寄越すと彼も気まずいのか遠慮がちに前まで移動してきた。クレアは彼を見たが彼女からは話しかけてやらないでいた。
ブライアンは硬化したクレアの態度に怖じ気付いたようにたじろいだものの、意を決してか話しかけてきた。
「クレア、えーとそのなっ、昨日はそのっ、喧嘩っぽくなったけどな…………怒りっぽいのはお互い様だろ!」
「へええー」
クレアは余程頭突きをしてやろうかと思ったが、皆の前なので堪えた。
「ブライアン、あなたねえ…………む、無茶しないで無事に戻って来なさいよ!」
(あぁぁーーーー、ツンデレかあたしはっ)
クレアは自分に頭突きしたくなった。
それでも本心からの心配は隠せず不安な目で見上げれば、彼は困ったような笑みで「善処するよ」と言った。
確実な答えを寄越さないのは、一度戦端が開かれればこればかりは神様にしかわからない領域だからかもしれない。
「俺はクレアや家族や皆を護りたい。だから行ってくるよ」
クレアは唇を噛みそうになった。
(ここのところ子供っぽいくせに、すっごく大人みたいなんだから)
クレアは無力感に半分瞼を伏せる。
自分にもこの場の誰にも彼を止められないのはわかっていた。けれどせめて自分にできそうな事はしておきたいと改めて腹を決める。
この時ちょうど彼女の微かに震えるまつげに気付いたブライアンが、やや身を屈めて遠慮がちに頬へと手を伸ばしていた。
そうとは知らずクレアは勢いよく顔を上げる。
「クレア、そんな心配するなって」
「行く前にニック兄様と仲直り!」
発言のタイミングが思い切り被った上、いつになく近い距離で顔を合わせた二人は両者共に驚いて目を瞠って動きを止めた。
クレアは二度、瞬く。
(キス、するかと思った……)
ドキドキとしながらも、クレアはじっと幼馴染みを見つめる。
「ブライアン」
そっと囁けば、彼はピクリと身じろいだ。クレアは尚も視線を離さないままに唇を動かす。
「兄様と仲直りしなさい」
今や屋敷の誰もがロマンス映画のワンシーンのようにクレアとブライアンを見ている。……いや、見ていた。
説教ママのようなピシャリとしたクレアの言葉に例外なくその場の者は目を点にした。何がロマンス映画か。
呆けていたブライアンも直前の自分を取り繕うかのように不機嫌な顔付きで乱暴に頭を掻く。
「別に俺達は兄弟喧嘩をしていたわけじゃない。ただ……」
「ただ何?」
クレアが尚も見つめていると、ブライアンは顔を逸らしてより仏頂面を作った。クレアは両手で彼の顔を挟んで力ずくで戻させる。
「なっ、おい!?」
「薄々思ってたけど、喧嘩ってあたしに関係する事なのね?」
「ち、違うって」
クレアは半眼になった。
「へえー、そうだったんだ」
「違うって言ってるだろ」
「もうその態度があたしが原因だって言ってるも同然でしょ!」
兄弟喧嘩の原因として思い当たる節はないが、自分は無意識に何かをやらかしていたのかもしれないとクレアは
「本当はあたしに怒ってるなら、隠さないでちゃんと言って」
「だから違うって」
「言って。今すぐに。あたしとしては心当たりがないから言ってもらわないと反省も改善もできないし、そもそもしこりを残してこのまま別れるなんて御免なのよ」
「お前が悪いとかじゃないんだって」
「全然説得力ないんですけどっ」
「ああそ、別に納得しないならしないでいい」
「だっからその態度よ、絶対何かあるでしょ。あたしが一体何してムカついて兄様まで巻き込んで勝手に拗ねてるのよ!」
「はあっ? 拗ねてないっ、家ん中で節操なく兄貴とベタベタするなっては思うけどな! イチャ付きたいなら家族の目のない場所を選べよな」
「はーあ? 何を言うかと思えば、節操なく兄様とイチャ付いてなんてないわよ。大体何よイチャつくって恋人でもあるまいし」
心底呆れた顔でクレアが反論すると、ブライアンは面白くないものを見たような顔をした。
「恋人でもないのにベタベタとか、……案外軽いんだな」
「な、んですって……?」
場の空気が一層ピリピリとなる。
「ブライアン、僕に文句があるんだろう。クレアに当たらないでハッキリ僕に言えばいいんだよ」
ここでよりにもよっての喧嘩中の兄からの注意の横やりに、ブライアンは突き刺すような視線を一直線に向けた。
ニコラスは真っ向からその視線を受け止める。
「じゃあ言うけどな、兄貴はこいつとイチャ付く時はもっと人目を気にしろよ。まだ恋人同士じゃないんだろ、たとえ家の中でも醜聞が立ったらどうすんだよ。あーけど責任取ってクレアと結婚するんだっけ?」
「は!? 結婚!? 飛躍し過ぎ!」
クレアが大いに仰天する傍では伯爵夫妻がちょっと空気を読まずに期待を浮かべる。
ブライアンが皮肉っぽく笑った。
「二人はお似合いだよ」
クレアはどうしてか胸がズキズキと痛んだ。どんな顔をしていたかの自覚はないが、彼女を一瞥したニコラスが声を低くする。
「ブライアン、本気でそう思っているのか? お前がそういう態度を貫くなら僕はあの提案を今ここでするよ」
「……っ、ああそうだよ本気だよ。それに勝手にしろって言っただろ。俺は元々別にこいつなんてどうでも――」
「――お前の愚かさには呆れるよ」
ブライアンは閉口したが意地になっているのか睥睨は止めない。
ニコラスは発言以上に失望したようにその目から温度を取り去った。
「僕から皆に言いたい事がある。迷っていたけれどたった今心が決まったよ」
クレアにも屋敷の皆にも彼が何を決心したのかさっぱりわからず下手な言葉を挟めない。兄弟喧嘩の延長戦の中、ニコラスの意図にブライアンだけは正確に気付いたのか、体の脇に下ろした拳を握り締めた。
「クレア、今から言う事は前以て君に相談というか提案するべきだったんだけど、しなくてごめん。突然でびっくりするだろうけれど聞いてほしい。君が望むだけずっとこの町にいられる確かな方法が一つある。そして僕はそれを君に与えてやれる」
それはクレアにとっては全くの不意打ちで、もしやこの流れは魔女の件を大っぴらにする気だろうかとひやりとしたが、次の台詞でそうではないとわかった。
しかしそれらは連動している。
クレアは、まさかと思った。彼女も彼女には使えない回避方法を一つ知っているのだ。
(兄様はもしかして……)
一呼吸置くとニコラスはクレアの正面に跪き、恭しくその手を取って見上げてくる。
「クレア、――どうか僕と結婚してほしい」
予想外な告白に皆も絶句するかどよめく中、決意に富んだ真っ直ぐなその青い瞳は、クレアの心の奥さえ見通すように何処までも澄んで見えた。
ニコラスも、ブライアンも、この青の持ち主だ。
「結婚……」
胸の奥がトクリと跳ねた。
「――勝手にやってろ」
吐き捨てるような黒髪の幼馴染みの声にクレアはハッと我に返った。
どうしてか咄嗟にニコラスに掴まれていた手を引っ込めてブライアンを見てしまったが、その彼はもう背を向けていて表情は見えない。彼はクレア達を見ずに、目を白黒とさせている両親へともう一度改めて出発の挨拶を口にするとさっさと馬車に乗り込んだ。
(え……ブライアン?)
車内からすぐに発車の指示を出したのか御者がそれに従って手綱を操れば、大きな車輪がゆっくりと動き出す。
屋敷の前から走り出した箱馬車はその背中を見せると見る間に速度を上げて前庭を走り去っていった。
「……嘘でしょ、ホントに行っちゃった」
頭に来ていたのも忘れて呆気として突っ立つクレアは半分追いかけそうになったが、足がピクリと動いただけで走り出せなかった。追いかけたところで追い付けないし、奇跡的に追い付けたとしても何を言うつもりなのかとの思考が行動を躊躇わせた。
(でもそっか、ブライアンはあたしと兄様の関係がどうなろうと興味ないんだ。恋人になるならなれって感じなんだ)
クレアはどうにも悲しかった。本来喧嘩別れするつもりなどなかった。
「何よ…………酷い奴」
文句を放ちつつも小さくなるばかりの馬車の見送りをやめないクレアを、ニコラスがどこか複雑な瞳で見ている。
馬車が見えなくなってようやくクレアはニコラスの視線に気付いたが、彼のどこかが痛いような表情には軽く目を瞠った……と同時に直近のやり取りを思い出して大いに焦る。
彼は紛れもなくクレアに求婚したのだ。
その意図が案の定魔力持ちのクレアのためであり、恋愛感情からのものではないとは言えすっかり放置してしまって超絶気まずい。
「ご、ごめんなさい兄様変に中断しちゃって……」
恐縮した心地でニコラスの前に立つと、クレアは気掛かりな目で彼を見据える。
「それにええとブライアンとは大丈夫……よね? 今日はあんなんなっちゃったけど王都に戻ったら連絡取るんでしょ?」
王都で弟に会う。彼にはその気さえあればそれができる。
眉尻を下げるクレアの不安そうな顔に、彼はつい感情的になってしまった先の自身の不格好を恥じるように咳払いすると、いつもの穏やかな平静さを身に纏った。
「そうだね。話さないとね」
クレアがホッとすると、ニコラスは何故か申し訳なさそうにした。
「それで今の話だけど、あたしの例の件のために兄様が無理する必要はないのよ」
皆の前で
ニコラスは普段からクレアによく見せるような苦笑を浮かべると、内緒話の要領で続きを紡ぐ。
「本気だけれど、求婚というよりはクレアの王都行き回避のための提案の意味合いが強いかな」
「思った通りあたしのためなんだ。でも兄様、実際に結婚しちゃったら兄様の本当の結婚に響くわ」
「ふふっクレアは良い子だね。今は自分を護る方を考えるべきなのに。でも安心してよ。僕の一番大事な子はクレアだから」
「え、ええと兄様こそお人好し。あたしが気に病まないようにって思って言ってくれてるんでしょまた」
不満そうな顔をするクレアへと、ニコラスはどこか当てが外れたようなそれでいて心がさっくり傷付いたようなちょっと切ない目をした。
「兄様?」
「……まあどうせわかってはいたけれどね」
この場の誰かさんは筋金入りの鈍感娘なのだ。
「それで、クレアはどうしたい? 僕の求婚を受けるつもりはある?」
「それは……」
「保身のためでも全然構わないんだけど」
「でも……」
ストレートな問い掛けに、クレアは言葉を言い淀んだ。
ニコラスの言うように彼と実際に結婚するのがベストだろう。しかしそれは彼の人生を邪魔し過分に干渉するのと同義なのだ。
(それに本当にその方法は考えてなかったし)
秘密の共有以上の迷惑を掛けるのは本意ではない。兄同然の大事な相手をこんな風に利用するのは嫌だった。
その他の自分の中の理由にはまだ思いも及ばずに、クレアは無意識に自身の胸を片手で押さえる。
(さっきは突然でびっくりしてドキッとしちゃったけども……)
あの時の奇妙な胸の高鳴りが何故か忘れ難く、どこか依存しそうに甘い感覚でもあって、クレアはブンブンと頭を振る。
(でも今兄様を見ても何ともないのよね、変なの)
けれど、あの時だけは別だったのはどうしてなのか、その理由を深く考えるのは駄目だと何故か警鐘が鳴っている。
「どうかしたクレア?」
急に激しく頭を振るという不可解な行動に出た彼女をニコラスがくすくすと笑って見守る。
「え、あ、ううん何でもないんだけど、その……ニック兄様!」
「うん?」
クレアは真っ直ぐに彼を見る。
オーリからこの先王都移住を強制されようと、この求婚は受けられない。
しかし親身になってここまでしてくれたニコラスには感謝を禁じ得ない。だからこそ真摯に返答しなければならない。
「さっきの返事なんだけどね、あたしは――……」
ひと呼吸分、覚悟の空白を保った。
ニコラスももうクレアの真剣を感じ取って表情を引き締めたものにした。
交錯する鮮やかな緑の瞳と深い青の瞳。
「ご――」
「「クレアちゃあああん!」」
横から涙を浮かべた伯爵夫人のシシーに抱きつかれた。
伯爵のバートの方も傍に来て涙ぐんでいる。
「え? な? あの……?」
すっかり邪魔され真剣味など吹き飛んでしまったクレアは困惑するしかない。助けを求めるようにニコラスを見やれば、彼も状況の把握が追い付いていないのかポカンとしている。彼の方もまさか両親が突撃してくるとは思っていなかったらしい。
「うふふふ~知らないうちにあなた達ってばこんなに大きくなっていたのねえ。うちの長男ってばいつの間にクレアちゃんとのラブを育んでたのかしら~? んもう隅に置けないわね!」
結構な頻度で空気を読まないシシーが嬉しそうに言ってクレアに回した両腕をより締める。彼女にそんな意図はないのだろうがまさに絶対逃走不可のがっちりホールドのポーズだ。
「え、あのそこは誤解ですおば様」
「良いのよ良いのよ~隠さなくて! おばさん大賛成だもの。嫌になったらブライアンに乗り換えてもいいのよ~?」
「いや、ええと、悪女ですよそれは」
「おじさんもだよクレアちゃん! いっそ二人と結婚してはどうだろう!?」
「え、あの、重婚ですよそれだと。捕まります」
シシーどころか紳士のハンカチで涙を拭いたバートまでがクレアの手を取ってぎゅっと握りしめてくる。
「このふわふわして頭から花が生えてどこかに飛んで行きそうな不肖の息子と、頭が筋肉になってしまったらしい不肖の息子を宜しく頼むよ。クレアちゃんとならしっかりと倅達も地に根を張って生きていけるだろうしな」
「重婚から離れて下さいよーっ」
「なあに照れない照れない。公の場での節度さえ守ってくれれば、私もシシーもどこで何をしようと黙認するよ」
「いやいやいや! 兄様も何とか言ってあげて!」
ニコラスはどこか霧の中に気配を薄れさせる妖精のように儚げに佇んで、暴走列車は止められないと諦観しているような遠い目で微笑んだだけだった。
しかもその口元が声なしで「本当にごめん」と動く。彼は自身のこの度の行動の是非を顧みて時と場所を思い切り誤ったと自覚していた。ブライアンとクレアと三人だけで話すべきだったと猛烈に反省していた。そうしてからこの両親にも話すべきだったと……。
「ちょっと兄様!」
「クレアちゃん、これからはお義母さんって呼んで頂戴ね!」
「む、シシー抜け駆けは狡い。クレアちゃん、お義父さんと呼んでくれて全然構わないよ!」
話が飛躍し過ぎている。誰かどうにかしてくれと見回すも、屋敷の使用人達も完全に大団円に期待の祝福ムードだ。果てはシシーに促されて口々に息子達の長所を思い付くまま並べ立てる始末。
本人達の意図せずも、外堀は完全に埋められた。
もしまだブライアンがこの場に居たなら暴れるなりして空気はまた違うものになっていたのだろうかと、クレアもニコラスも辟易としたものをその胸中に滲ませていた。
しかしこのままと言うわけにはいかない。
「ええとその、本当の本当にまだそういうのは考えてなくて……」
よって辛うじてクレアが言葉を絞り出せばシシーがクレアの手を握ってきた。
「クレアちゃん、これ以上無理強いはしないけれどこれだけは知っておいてね。本当にあなたに家族になってもらえたら、おばさん心から嬉しいわ」
「おば様……。あたしは幸せ者ですね」
クレアはそっと腕を回すと目を閉じシシーを抱きしめ返した。
母のような温もりをくれるこの人を落胆させたくはないのだ。
ニコラスとのスキンシップは嫌いじゃない。けれどそれは兄を慕うにも似た親愛の情だ。恋人として付き合って行くとなると話はまた変わってくるだろう。
(恋もまだなのにそこをすっ飛ばして結婚なんてどう考えればいいのやらだし)
それでも、この温もりに迷いは生じた。
今はまだだが、時を経て自分が恋する相手はニコラスかもしれないのだ。
未来は誰にもわからない。
(過去はわかるのにね)
「クレア、急かさないからもう少し考えてみてほしい」
「ニック兄様、あたしはっ――」
シシーの腕の中から困ったようにニコラスを見やれば、彼は落胆するでも怒り出すでもなく目顔で小さく頷いた。
とりあえずこの場をやり過ごすためにも保留のふりをしようという意味だろう。そうでなければ伯爵夫妻はタコのように絡み付いてうんと言うまで放してくれないだろうからと。残念ながらそのようだった。
「わ、わかった。考えてみるわ兄様」
彼の優しさには助けられる。
(あの我が物顔殿下とは全然違うわ)
ニコラスを見ていたらうっかりオーリの顔まで思い浮かんでしまって腹の底から忌々しさが込み上げる。
いつか奇跡的にそのチャンスがあれば思い切り平手打ちしてやりたいと拳を握ったクレアだった。
解散しましょうと上機嫌に皆を促す伯爵夫人シシーの言葉にその場の皆は各々の仕事へと動き始めた。伯爵バートは息子のプロポーズが決まらずがっかりしていたようだが、シシーは曖昧な態度のクレアを一つも責めたりしなかった。娘のように大事にされているとの実感にクレアは離れる前にもう一度シシーをぎゅうっと抱き締めた。
それからクレアはニコラスを促して少し庭を歩いた。
優しさで出来ているに違いない彼には礼儀としてもう一度きちんと断らなければならないと思うからだ。
「ニック兄様、ありがとう、ごめんなさい! プロポーズは受けられないけど、あたしのためにあんな恥ずかしい一芝居を打ってくれて心から感謝してる。あたしはあたしのあの件で兄様を利用するのはしないわ。それにもしも兄様が本当に結婚したい相手が現れたら離婚するまでアプローチできなくて辛いじゃない」
クレアの言いようにニコラスはキョトンとして苦笑を浮かべる。
「ふふ、僕を心配してくれてるの?」
「当然でしょ」
彼は何だかくすぐったいような顔をして今日は何だか暑いねと手で顔を扇いだ。
「心配ありがとう。でも僕はともかく、もしもクレアにとって婚姻の必要がなくなれば別れればいいんだから、気に病まないでいいんだよ」
クレアはピタと足を止めた。
「……それ、本気で言ってる? もしも兄様と結婚したら、無責任な真似はしないわ」
真面目な顔付きのクレアへとやや遅れて立ち止まったニコラスは気付くと、ちょっと慌てたような顔をしたが次には嬉しそうにした。
「僕もそのままずっと一緒でも全く困らないよ。とっても可愛いお嫁さんと過ごせるならこれ以上の幸せはないだろう?」
「可愛いお嫁さんって……」
「ノンノン、とっても可愛い、だよ」
「……ああ、うん」
(もー、ホントこれだから……)
彼は大抵の子ならコロリといくだろう台詞を紡ぐ。
内心で大きな溜息をついていたクレアはしかし、ここで重大な点に思い至ってニコラスを急いで見やった。
「失念してたけど、兄様は好きな人いないの?」
「……それは内緒」
彼はどこか意味深に口角を持ち上げる。仄かに艶めいた雰囲気にクレアは意外そうに目を瞬いた。
(兄様にもこんな顔ができたのね)
「まあ、僕としてはクレアが納得いくまで考えて答えを出してくれたらいいって思ってたんだけどね。たとえ僕を利用しても」
ニコラスは本気で利用されても良かったらしい。
「兄様って男なのに慈悲深い女神様みたいよね」
「女神て……」
ニコラスは苦笑いしたが別段気分を害したわけではなさそうだ。彼は笑いを収めると屋敷に戻ろうと柔らかな声で告げてくる。クレアは頷いた。
屋敷に戻るまでの間、ニコラスはまたふと思いついたかのように言葉を口に上らせた。
「クレア、今日のブライアンはあんなだけどさ、どうか見捨てないでやってほしい、クレアの女神の心で!」
「女神て……それは、うん。あたしも話さなきゃとは思ってる。その前に一発頭突きかましてやるかもだけど、ニック兄様の大事な弟君を見捨てるなんてしないですよー」
「あははそっか。良かった。……僕に出来る事があるなら、惜しまない」
一瞬、クレアは何故か深刻な懸念のようなものが湧き上がってきて、息を詰めそうになってしまった。辛うじてそうはならなかったけれど。
「ほほー、それは心強いですな!」
「ぶはっ、どこの長老それ?」
敢えて茶化して声のトーンをミスるのを避ければ、ニコラスは怪訝に感じてはなかったようだ。と言うかウケていた。
(兄様ってホントいい人なんだから。人の事ばっかり)
少し小言っぽくも思うクレアだ。そしてそこはどこまで行ってもニコラス・ウィンストンという男の変えられない性分だった。
彼も同日のうちに王都へと発った。
発つ際にこっそり彼はオーリ王子の出方が気掛かりだと言っていたが、その時はその時だとクレアは堂々として胸を叩いてみせた。
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