第百世 いなくなったグーラ

 おでこに何かひんやりとしたものが乗っている、全身に溜まった熱が少しずつ抜けていくようで気持ちいい……何が乗っているのか見たいが瞼が重く開かない、腕や足どころか指先を動かす事すら出来ずどうしたものかと思っていると、やがて聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。


「……駄目ね、熱が全然下がらないわ」


「少年がここまで持ち直してくれたのは良かったけれど、これはこれでマズい状態だね……まさか人間ってやつがここまで熱に弱いとは……」


「極冷系の魔具で冷やそうにも今度は肌が火傷したみたいになってしまったし……ああもう、こんなに脆い身体なのにどうしてあんな無茶するのよ……!」


「だね……とにかく今は治癒魔法をかけ続けながら少しずつ冷やして、後は免疫力や組織の再生速度を上げる薬を投与して様子を見るぐらいしか無いか……墨白の様子は?」


 墨白、その言葉につい反応してしまう。

 今はどこにいるのだろう? 彼女に会いたい、匂いを嗅ぎたい触れてもらいたい……あの優しい声が聞きたい。


「まだ奥のソファで倒れてる、睡眠もとらずに彼に魔法をかけ続けてたんだもの……無理も無いわ」


「そうか……でもこの感覚はなんなんだろうね、こうやって少年にいくら魔力を注ぎ込んでも穴の空いた器から殆どが抜け落ちてくかのような手ごたえの無さ……傷は塞がっているし臓器も再生しているのになんで……」


 墨白が倒れている? そんな一大事に寝てる場合じゃないだろ俺、これだけ頭の中で叫んでいるのに……どうして指の一つも動かないんだ。


「それでも止める訳にも諦める訳にもいかな……待って」


 胸に軽く重さを感じる、それが何かは分からないが自分以外の重さを感じるだけで少し安心してしまう俺がいる。


風重かざね、どうし……」


「待って、少し静かに……一回、二回……」


 胸元に重さ以外にも指先のような何か細いもので定期的に叩かれるような感覚がする、何かを数えている?


「……っ間違いない、呼吸が変わった! 墨白! 七釘なぎ!」


 風重が叫ぶ声とほぼ同時に部屋の奥から何かが飛び降りるような音と共にこっちへ駆けるかのような音が響き、足音荒く誰かが傍までやって来た。


「どうした! 目を覚ましたか!」


「まだよ、でも意識を取り戻そうとしてる! まだ万全じゃないでしょうけど、その魔力も使ってもらうわよ!」


「構わぬ! 枯渇するまで注いでくれよう!」


「足りない分は私がカバーする、いくよ!」


 七釘の掛け声と共に全身が温かな感覚に包まれた、少しずつだが指先にまで熱が渡っていくのを感じる。


「ぐっ……おのれ」


「魔力を出し過ぎよ墨白! 気持ちは分かるけど焦らないで!」


「頼むよ少年……アタシは借りを作りっぱなしは嫌いなんだよ」


 自分の体の筈なのに遠くに聞こえていただけだった胸の鼓動が段々と強くなる、皆俺の為にきっと酷く消耗している筈だ……ここで応えられなきゃ何の為に頑張ったのか分からない、目を開けろ! 声を出せ!……起きろ!


「!……みな魔力を抑えよ!……お前様よ、儂じゃ……分かるか?」


 薄くしか目を開く事が出来ず視界も随分とぼやけているがそれでも皆がこちらを見つめているのが分かり、中でも一番近くにある顔からずっと焦がれていた匂いを感じる……。


「ああ……お」


 分かるよ、そう言いたかったのに呂律が上手く回らず言葉にならないが墨白にはこれで十分だったようだ。


「良かった……ああ、本当に……本当に良かった……!」


 勢いよく抱きつく彼女を抱き返したかったがまだ体が上手く動かず背中にそっと乗せる事すら出来ないのが悔しい……だが視界の端で揺れる白銀の髪と共に天井を見上げると何とも言えない幸福感に全身が満たされた……俺は、帰ってきた……帰って、来られた。


「はぁ……良かった、本当に良かったよ」


 七釘の力無い声を皮切りに風重や灰飾も同じように視界から消え揃って床に座り込んだようだ、やはり皆の消耗は相当なものだったに違いない。


「……おおあ?」


「む……ここか? ここは警備局内にある再生施設の一つじゃよ、藍夜あやのやつが融通を聞かせてお前様をここに送り込んだのじゃ、部屋やら道具やら治療に必要な何もかもが揃っておってな、お陰で迅速な治療が出来た」


 再生施設……つまりは医療施設の事だろうか? この出入口と思われる道が一本の長く伸びた透明な廊下しか無く俺が寝ている部屋はやはり透明なドーム状をしており、どこを見渡しても見える景色は一面の水中というこの空間が医療施設の中だとでも言うのだろうか。


「検査した結果君……つまり人間という種族は水に最も関係が深いようでね、だから水の傍の方が回復も早くなるだろうと思ってこの部屋にしたんだ」


 そんな馬鹿な、と言いたかったが確かに時々音を立てて水底から立ち上る白い泡や部屋に差し込む青い光は何だか気持ちが落ち着くような気がする。

 ……そういえば痺れているような感覚はあるが、先程まで全く動かなかった体が今なら動かせそうだ。


「お、お前様……? 起きたばかりじゃ、あまり無茶は……」


「だ……あ」


 不安そうにこちらを見つめる墨白に頷きながらベッドに手をついて少しだけ体を起こし、首筋を走る痛みに顔をしかめながら周りをゆっくり見渡していると不意に喉奥からせり上がる不快感を覚え、急いで手振りで墨白をどかす。


「ぐ……かはっ! げほっ!」


 何度も咳き込み次に視界に映ったのはべっとりと赤色に染まった両手とベッドのシーツだった、口内や喉奥に残る鉄臭さが何とも不快だ。


「お前様!」


「ちょ、ちょっと大丈夫!? やっぱりまだどこか異常があるんじゃ……」


「待って待って、アタシにちょっと見せて」


 焦って駆け寄ろうとする風重を制して灰飾が吐き出した血と俺の様子を軽く観察すると、安心したかのように小さな溜息を漏らした。


「……大丈夫、これは少年の血管や臓器が活動し始めた証拠だよ、戻しちゃったのはまだ少し痙攣を起こししているのかもね……でもすぐに良くなるよ」


「そ、そうか……良かった」


 その言葉に墨白達が安心して肩を落とし、それを確認した後で灰飾は再びこちらに向き直ると口の端に残っていたのであろう血を指で拭いニヤリと笑った、いつもであれば意地悪な笑みだが今はその笑顔が随分と心強い。


「まだ無理は禁物だけど体も動くようだし数日休めば呂律も戻るだろうさ、七釘は悪いけど掛け布団の交換を頼めるかい? アタシらじゃここの勝手は分からないからさ」


「分かった、じゃあ……すぐに替えを持ってくるから少しだけ我慢してくれるかい?」


 僅かに頷くと七釘は笑みを浮かべて素早く布団を回収し、通路を足早に駆けて行った。


「冷えると体に良くない、お前様よこの毛布を……お前様? それは何を持っておるんじゃ?」


 不思議そうな表情を浮かべる墨白の視線を追うと俺が握りしめている紙袋に辿り着いた、そうだ……これの事をすっかり忘れていた。

 落とさないようにゆっくりと腕を持ち上げて灰飾の方へ向けると、不思議そうな表情を浮かべて自分を指差した。


「……それアタシに? 開けてもいいのかい?」


 俺が頷くのを確認すると両手でそっと紙袋を受け取った、ずっと握りしめていたせいか紙袋はくしゃくしゃだ、中身が無事だといいが……。


「どれどれ……? これは……!?」


「なんじゃ? 何が入っておったんじゃ?」


 首を傾げる墨白をよそに灰飾は素早く部屋の隅に投げ捨ててあった上着を羽織ると、紙袋を握りしめて足早に通路へ向かった。


「悪いけど先に戻るよ、コレありがとう!」


 紙袋を掲げ、まるで嵐のように去っていった灰飾をポカンとした表情で見送る二人の顔がこちらに向いた。


「な、なんじゃあいつ急に……お前様よ、あいつに何を渡したんじゃ?」


「というか……あの紙袋は一体どこから出てきたの? 寝かせた時には何も持っていなかったわよね?」


 さぁ困った、この呂律の回らない口でどう伝えたものか……そう考えていると不意に唇に白い指が触れ、体がビクリと跳ねる。


「無理に声を出さずともよい、一文字ずつ口で表してみよ……よいか?」


 なるほど、口の形や動きで伝える手があったか……墨白に頷きで返すとゆっくりと一文字ずつ口を動かした。


『万年百合の朝露、灯歪ひずみから』


「灯歪じゃと? あやつ、お前様の一大事にも関わらず姿を見せぬと思ったら……しかしどこで会ったんじゃ?」


『夢』


「夢、って……夢の中って事?……もう何でもアリね」


 呆れたように肩を落とし天井を見上げる風重に自然と笑みが浮かぶ、俺だって気付けば灯歪の家にいるとは思わなかったのだから。


「まぁ今更驚かぬよ、それにしても万年百合の朝露か……通りで灰飾のやつが慌てて出て行った筈じゃ」


 万年百合の朝露……確か以前は灰飾がフィル用の薬を作る為に欲しがった素材の中の一つだった筈だ、他の素材はさほど珍しい物では無いらしいがアレだけは蒸気世界でないと手に入らないとか……ようやく脳が動き出したのか改めて周りと見回しフィルの姿が無い事に気が付いた、俺の自惚れで無ければこういう時はいつも傍にいてくれた筈だが……。


『フィルは?』


「……ええ、っと」


 俺の言葉に二人は顔を見合わせ困ったような表情を浮かべた。

 まさか怪我でもしたんじゃ……想像が悪い方向にばかり走り痛む体を起こすと、そんな俺を墨白が焦った様子で押し戻す。


「ああ待て! 分かった話す、話すとも!」


「墨白、貴方本気? 彼に話したら……」


「分かっておる、分かっておるが下手に隠し立てして病室を抜け出されでもしたらそれこそ事じゃろうよ?」


「それは……確かに、フィルと同じ立場なら彼が来ちゃうって思うわね……いいわ、私が話す」


 納得はしたが渋々といった様子を見せる風重がベッドに腰掛けながら俺の胸に手を押し当てる、不安に脈打つ鼓動が手を伝って彼女に届いている事だろう。


「本当は起きたばかりで負担をかけたくは無いのだけれど……貴方が倒れてから色々あったの、良い報告と悪い報告……どちらから聞きたい?」

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