獣のニオイ


「獣のニオイがするな」

「え……?」


 会食の席に着き、暫し経って現れたアリスとクリスに挨拶をして直ぐの事だった。

 獣のニオイがする、と怜に話し掛けてきたのは、隣のテーブルの外国の女。

 そして突然匂いを嗅いできたのだ。座ったまま背を反らし、首筋の辺りを嗅がれる。思わぬ言葉に怜は固まった。


 服装はどう見ても紅華フォンファ国の民族衣装だ。しかし顔も見た事なければ、知り合いにも心当たりすら無い。

 目尻と唇に赤い紅、白粉おしろいで白い肌はより白く、艷やかな長く黒い髪は丁寧に編まれ、アイスブルーの瞳は猫のように鋭い。歳は同じぐらいに見えるが、その声は貫禄を感じさせた。

 彼女の猫のような鋭い瞳を何処かで見たような。だが思い出せない。


「この国が、まさかこんな獣を飼っているとはねぇ」


 もう一度首筋を嗅いで、ニヤリと笑う。彼女の強い華の香りが、肺まで満ちていく。

 その孤を描く口元に乗せられてはいけないと、怜は我に返った。


「一体何の事でしょうか?」

「ふん、白々しい。分かっておろうに。望んでなった訳ではないようだがね」

「……何の、話だか」


 ふふふ、と釣り上げる口角は意地悪をする時の自分のようだった。

 しかし一体彼女は誰だ。ホールで踊っていた記憶もない。纏う民族衣装と、印象的なアイスブルーの瞳は一度視界に入れば記憶に刻まれるだろう。


「さて、今回は楽しいパーティになりそうだ」

「……どういう意味だ」


 不敵に笑う顔は、明らかに何かを企んで、そして楽しんでいる。その顔をする時は、怜も同じく何かを企んでいる時だから。


「ところで、後ろのテーブルの彼女はずっと此方を見つめているが……。恋人かな? 彼女は君とは違ってとても良い香りがするね。何処の者だか知らないけれど」

「え……?」

「おや。今度は汚い男に身体を触られているみたいだよ」


 嫌な予感がして、思わず振り返った。ハモンド侯爵に愛おしそうに手を繋がれていた、あの席を。

 一瞬、アオイの姿を捉えたが、「駄目だ。君には見届けてほしいのだから」と、冷たい指先で顔の向きを戻された。


「何なんだ、さっきから何の話をしているんだ」

「まぁまぁ。見ていれば分かることよ。ほら、もうすぐ幕が上がる」


 その言葉と同時に、大ホールの灯りは消え、振り返ってもアオイの姿を捉えることは出来なかった。


「知り合いか?」


 鳴り響く楽器の音に紛れ、クリスは言う。

 隣の女は何事も無かったように舞台を見つめ、未だ不敵に笑っていた。


「いいや」

「……そうか」



******


 大ホールが暗くなる少し前──、アオイの方では。


「やぁ、君も来ていたんだね」

「え? あ、……えぇ、まぁ」


 怜の姿に視線を外せなかったアオイは、隣のテーブルから声を掛けられた。蒼松国そうしょうこく側の席だ。

 聞き覚えのある、ねっとりとした厭らしい声。

 横を向けば、本邸のパーティに居た〈もう名前を覚えるほどでも無い男爵さん〉だ。そう、あの処女好きな。

(山田 清志郎せいじろう、だっけ。何だかんだ覚えてる自分が悔しいわ……)


 彼も男爵家、だから隣のテーブルなのだろう。

 舞台へと目線を外し、これは逃げようが無いなと、口角はにこやかに上げたまま、少し眉を歪めた。

 しかしアオイのその表情が何を勘違いさせたのか、彼は「はぁ〜……」と熱のこもった息を吐く。

 不審に思いまた彼を見れば、確実に先程より席を近くに寄せている。テーブルが別とはいえ、隣同士だ。手を伸ばせば余裕で届く距離。


 男爵家のテーブルは一番後ろなので、アオイ達の後ろには、背を向けドアの出入りを警備する騎士だけ。

 大ホールの四隅には騎士も控えているが、距離が遠すぎる。アオイと同じテーブルには幼さの残る可愛らしい女性が二人。

 助けを求めようも、この子達が危険な目にあってしまうかもしれない。騒ぎを起こすわけにもいかないし。

 黙って耐えようと、決意した。


「あぁ、君の背中は本当に美しいねぇ」

「……ありがとうございます」


 簡潔に、素っ気なく、答えればやり過ごせるだろうと、そう思った。

 だが、彼の本題に入る早さを舐めていた。


「それで、アオイ嬢は婚約者は居るのかね?」

「……居りません」


 何を聞かれようとしているのか、考えるだけでゾッとした。人身売買の男達に触られた感触が蘇る。それでも凛とした態度で己を強く保とう。


「今まで、居たことも?」

「……ありません」

「そうなのかい? きっと縁談が持ち込まれるだろうに」

「いいえ、興味ありませんから」

「男性にも、興味がないのかい?」

「ええ。それが何か?」

「いいや、そうかい……」


 沈黙の後、鳴り響く楽器と共に、暗くなる大ホール。

 あぁ良かった始まるんだわとホッとした。して、しまった。


 暗くなって、皆の視線が舞台に集まる。

 隣の男爵は、より、アオイに近付き、そっと太腿に手を添えた。


「……!!?」


 アオイは上げそうになった悲鳴を、なんとか飲み込んだ。


「じゃあ、男性に興味を持つよう、私が教えてあげよう」

「!?」

「気持ちの良いことだよ。きっとアオイ嬢もハマってしまうだろう」


 さすさすと、太腿を撫でる。

 込み上げる怒りも恐怖も吐気も、今度は何とか抑え込んだ。以前連れ去られた時を、思い出し、冷静に。

 擦る手を、丁寧に返した。


「山田様? 始まりましたので、舞台に集中しませんと」

「あぁ、アオイ嬢の手は小さいねぇ。私のが、包めるかな」


 丁寧に返せば、その手を、アオイの手を、男爵の大事な場所へと連れて行かれる。


「ッ……!?」


 強く手を引っ込めたが、少しだけ、触れてしまった。

 興奮しているのか、既に硬くなっていた。


「っ山田様、おふざけはいい加減に」

「意外と焦らすのが得意なのかなぁ?」


 舞台の灯りに照らされる笑顔は、正直に言わなくても気持ちが悪い。


「はぁ。山田様、自国の建国記念日ですよ」


 いかにも怒った表情で、その男を睨めば、「こんな記念日、毎年同じだよ。それよりも私は今、アオイ嬢に興味がある」と、中々諦めない。


 懲りずに、アオイの背中の編み上げに指を滑り込ませてくる。

 全身が震えた。あまりの気持ち悪さに。

 しかしこの男はまた何かを勘違いしたらしく、「はぁ、はぁ、」と息を荒くしている。

 腕を掴んで、振り払って、「お止めください!」と、そう言おうとしたその時、毎年同じだとフラグを立てたからか、幕が上がれば既に事件は起こっていた──。

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