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「先達たる楓の子よ、この子が、最も新しく生まれた同胞です」
ある日、僕はそう口にした一人のハイエルフの女性に、赤子を渡され、腕に抱いた。
他人事のような言葉だけど、この赤子は間違いなく目の前の彼女が産んだ子である。
ただ、ハイエルフには我が子って感覚があまりない。
何故ならハイエルフにとって赤子は、誰の子供であるかの前に同胞であり、集落でというか、種族全体で育てるべき対象だ。
そうする事が可能なくらいに、絶対数が多くないから。
血縁への情は同胞への情と混ざり合い、区別が付かなくなっている。
己に連なる子は愛しいが、そうでない子も変わらず愛しい。
それがハイエルフの子供に対する認識だった。
なんて事を言っておきながらなんだけれど、実は目の前のハイエルフの女性は、二百と何十か年下の、僕の弟の娘である。
何でも以前、僕が不死なる鳥を探して深い森に戻った時、あぁ、いや、正確には、それでも故郷に留まらずに再び外の世界に出て行った時に、僕の父と母は交わって弟を生んだそうだ。
そのままだとハイエルフが減ってしまう事を憂いたのか、それとも僕が再び森を去ったから寂しくなったのか、どんな気持ちでそうしたのかは知らないけれども。
まぁ血縁って認識のあまりないハイエルフの弟に、ずっと会わずに過ごしてた僕が今更ながらに兄だと振る舞える筈もないのだけれど、ただなんというか、その弟に娘がいて、更に赤子が生まれた事は実に嬉しい。
しかしそれはさておき、利発そうな赤子であった。
まだ目もハッキリとは見えてないだろうに、少しでも周囲の情報を得ようともがく。
そう、まるで今の自分の置かれた状況を、把握したいとでもいうかのように。
また目を凝らして赤子をよく観察すれば、この子の魂の不滅性は、生まれたばかりにしては既に随分と形作られていて、僕はある事を確信する。
ハイエルフの最大の特徴は、その魂の不滅性にあり、魂が不滅であるからこそ、ハイエルフとしての生を終えれば、次には精霊としての時間が待つ。
但しその不滅性を獲得する時期は個々に違って、生まれた時からそうである者、物心付く頃に漸くそうなる者と、様々だ。
だが千年か二千年に一人程だけれど、ハイエルフの中には、生まれる前から魂の不滅性を獲得している者もいるらしい。
そしてそんな生まれる前、より具体的には前世で死を迎えた後、その記憶が失われる前に、魂が不滅性を得ていたハイエルフは、不完全ではあっても過去の記憶を保持したまま、この世界に生まれて来るのだ。
例えば、僕がそうであったように。
つまりこの子も、その千年か二千年に一人くらいで生まれるハイエルフなら、僕と同じく前世の記憶を持っているのだろう。
尤も、僕の前世とこの赤子の前世が、同じ世界であるとは限らないのだけれども。
まぁそれに、前世の記憶を持っているかどうかなんて、最終的には些事だった。
何せこの子も、ハイエルフとして千年を生き、その後は精霊としてずっと存在し続けるのだ。
その運命から逃れる方法は、僕の知る限り一つしかない。
だからどんな記憶を持ってたとしても、これから先に得る経験、見る景色、食べる物、積み重ねる時間の前には、誤差のようなものとなる。
大切な事は唯一つ。
「今の君には、僕の言葉は理解できないかもしれないけれど、君の物心が付いて、自分が誰であるかをはっきり認識する頃には、きっと僕はもうハイエルフではなくなってるだろう」
僕は指の背で赤子の頬を軽く撫で、囁くように語りかけた。
たとえ理解できなくとも、伝えたい言葉があったから。
「君が以前、どんな存在で、どんな世界に生きてきたかを、僕は知らない。もしかすると、いや、きっと君は、以前の自分と今の自分、以前の世界と今の世界を比べてしまうだろう」
この赤子は、今は僕の指を握る事すら、まだできない。
それでも、僕の声に、赤子はこちらに意識を向ける。
「それでいい。沢山比べても構わない。だけど比べてどんな風に思っても、簡単にこの世界を見切ってはいけないよ。何故なら君に見える世界は、どんなに目を見開いて頑張った心算でも、僅かな一面、ほんの一欠けらでしかないからね」
前世の記憶を持っていれば、どうしたって今と過去を比べてしまう。
僕だってそうだった。
でも別にそれが悪い訳じゃない。
悪いのは、自分が見ているのが物事の一面に過ぎないと気付かず、全てを見切った気持ちになる事。
こんな物だと見切って全てを知った心算になってしまえば、本当に大事な、素敵な何かも見落としてしまう。
「ゆっくり、じっくりこの世界を見るといい。多くの素敵なものが見付かるよ。この世界は、本当にいいところだから、君も好きになってくれると思う」
それが見付かるまでには、長い時間が掛かるかもしれない。
だけど僕らは、何に対してでも長い時間を掛ける事を許された生き物だ。
慌てず、焦らず、見切らずに。
「この世界を愛すれば、愛した分だけ、何かを返してくれる。おめでとう。これからの君が生きる時間には、きっと多くの幸が待っているよ」
だって僕も、多くの幸せに恵まれながら、この千年近くを過ごして来たから。
楽しいばかりじゃなく、寂しかったり悲しい事も決して少なくはなかったけれど、それでも僕は、この世界が大好きだった。
腕の中で僕の声を聞いてる赤子に、この気持ちが伝わってるのかどうかはわからないけれど、この子もその沢山の幸せを見付けられればいいなと、そう思う。
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