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「兄ちゃん、兄ちゃん、エイサー兄ちゃん」
海に向かって釣り糸を垂らした僕に懸命に話し掛けて来るのは、七歳になったパドウィンだ。
二年前、妹が生まれた時くらいから、彼は僕の事を兄ちゃんと呼び出した。
どうやらパドウィンの母親が生まれた妹を見せながら、
『パドもこれからはお兄ちゃんだから、エイサーさんみたいに妹を守ってあげるのよ』
なんて風に言ったらしい。
それをどんな風に解釈したのか、パドウィンは僕の事を兄ちゃんと呼び始めるようになったのだ。
まぁ、ちゃんと妹の面倒も熱心に見ているし、島の学び舎にも頑張って通ってる。
何よりも気の赴くままに瞬間移動を行う事も減ったので、呼び方くらいは好きにしてくれても良いのだけれど。
ただ何というか、僕は彼の両親よりも遥かに年上だから、何となく申し訳ないなぁって気分にはなった。
「んんっ……、ちょっと待って」
ピクリと動いた竿先に、僕は手を動かして合わせながら、掛かった魚と格闘を始める。
意外と大きな手応えに、無理に引き上げる事はせず、魚の動きに合わせて竿を動かし、時に引っ張り、相手の疲労を待つ。
しかし流石に、魚の動きに気を払いながらでは、パドウィンの相手は難しい。
尤もそこは彼も空気を読んで、僕が魚を釣り上げるのを期待の眼差しで待っているけれども。
やがて疲労からか動きを鈍らせた魚を、僕は一気に引き上げた。
釣れた魚は手応え通りの、抱えて持つような大物だ。
種類は、……詳しい名前は知らないが、食える事は知っている。
僕はそれを木のバケツに突っ込んでから、
「ごめんごめん、なんだっけ?」
パドウィンに問う。
すると彼は首を横に振って、
「うぅん、オレも釣りしたい。マノンに、魚食わせてやるんだ」
なんて言葉を口にする。
マノンというのはパドウィンの妹の事だから、本当にすっかりお兄ちゃんだ。
でもどうしようか。
今は釣り竿が、この一本しかなかった。
パドウィンに貸してやるのもいいんだけれど、彼の体格にこの釣り竿は、些か大き過ぎるだろう。
それに釣れなかったら不貞腐れるだろうし、宥める為にくれてやる魚を、もう少しばかり釣っておきたい。
「……そうだねぇ、じゃあ明日は林に行って、君の竿を作ろうか。糸と針も要るしね。今日のところは、この魚をあげるから持って帰りなよ」
それに何より、今日はパドウィンを早めに家に帰した方が良さそうだ。
魚の入ったバケツは重く、子供には運ぶ事も一苦労ではあろうけれど、瞬間移動を行える彼にはあまり関係なかった。
嬉しそうに、でもちょっとだけ申し訳なさそうに、表情をコロコロ変えて礼を言っていたパドウィンは魚の入ったバケツを抱え上げ、フッとその姿が消える。
僕は瞬間移動も見慣れてるから、便利だなぁとこそ思えど、今更驚く事はない。
けれども遠目に、こそこそとこちらを覗いていた連中は違う様子で、動揺した気配が伝わってきた。
話には聞いていても、実際に目の前で消えられたら、そりゃあ驚きもするだろう。
何しろ彼らの狙いは、今しがた消えてしまったパドウィンなのだから。
近頃、時々こうした連中が出るようになった。
元々船乗りは、清廉潔白とは程遠い存在だ。
危険を伴う仕事だから荒くれ者も多いし、借金を背負って海に出ざるを得なかった者もいるのだ。
そんな彼らが多額の報酬を約束されれば、島の子供を一人攫ってこっそりと船に積むくらいの真似は、そりゃあ平気でするだろう。
もちろん僕は、船乗りの存在を悪だと言う心算はない。
そもそもパンタレイアス島の発展は、船乗り在ってのものである。
船乗りが運ぶ荷の取引で港は賑わい、船乗りが落とす金で港町は潤っていた。
尤もだからといって、素直に島の子供を差し出すかといえば、当たり前だが答えは否だ。
彼らが利を齎すならば歓迎するが、害を齎そうとするならば、相応の対応が待っている。
僕が呟くように精霊に頼めば、驚きの声は悲鳴に変わった。
まともに相手をする必要はない。
暫くの間は首まで土に埋めておいて、後で島を守る衛兵、もといエルフのキャラバンの私兵に引き渡せばいいだろう。
今回の人攫いは、誰に依頼されたのかを、素直に吐いてくれればいいのだけれど。
誰がパドウィンを狙っているのかは、おおよその察しは付いている。
けれども未遂の段階では、報復を行うには証拠が足りない。
だが証拠の為にパドウィンを危険に晒すのは本末転倒だ。
彼の両親の望みは、穏やかにパドウィンを育てる事だから。
流石にもう、ベビーシッターや子守として雇われてる訳じゃないけれど、島に暮らす隣人として、彼らの平穏は守ってやりたいと思ってた。
パドウィンの待遇は、今回限りの特別なものになるだろう。
次にこの島に先天的に神術を宿す子供が生まれたとしても、宗教組織に引き渡すか、視界を塞いで育てる方法が取られる筈だ。
今回のように僕が関わるのでもない限り、先天的に神術を宿す子供を安全に育てる事は難しい。
また島の子供達の選択肢を増やす為にも、学び舎で神術の素質を発見する為のテストや、能力開発が行われるようにもなる予定で、その準備は進んでる。
宗教組織の本部に引き取られ、そこで英才教育を受ける道は、一般的に考えればとても恵まれているから。
エルフのキャラバンの中には、宗教組織との連携を強化する為にも、パドウィンを引き渡すべきだとの考えもあった。
何しろパドウィンとその家族の生活を守ったところで、エルフのキャラバンに見返りは何もない。
同胞たるエルフを救う為ならともかく、ただ拠点とする場所の一つで生まれただけの人間の子供を、そうまでして庇わなければならない理由が、エルフのキャラバンにあるのか。
島外の幹部からは、そんな言葉が出たという。
その声が大きくならないのは、僕の不興を買う事を恐れるからだ。
あぁ、実際に、目の前でその発言が出たならば、僕は大いに怒るだろう。
でも人伝に、具体的にはアイレナから、そう言った意見が出てると聞けば、その言葉に情はないが一定の正しさはあると、認めざるを得ない。
パドウィンの扱いは特別で、単なる贔屓だ。
そして贔屓の理由は、アイレナと僕がパドウィンの一家に関わったから。
そう言われれば、否定のしようがなかった。
しかし僕が誰かを贔屓するのなんて、今更の話だ。
僕はこれまでにも、ルードリア王国に住むカエハ達を贔屓してフォードル帝国の侵攻を止めたり、義理の子であるウィンを贔屓して西部の戦いに加担したりと、散々に贔屓で動いてる。
エルフ達はハイエルフを公明正大で偉大な存在のように扱いがちだが、そんな事は欠片もない。
そもそも僕がこれまでに出会ってきた古の種族も、大抵は個人の感情で贔屓をしてた。
例えば不死なる鳥のヒイロなんて、自分を孵化させた僕に対しては、他のハイエルフと比べてもあからさまに特別扱いだ。
雲の上に住まう巨人は、滅ぼすと決めた筈の魔族の子孫を秘かに扶桑の国に逃がしてたりと、割と私情で動いてる。
真なる竜はその役割上、あまり他人に情を移さないように振る舞うけれど、南の大陸が燃えて、北の大陸も燃やされそうになった時、黄金竜がわざわざ味方をしに来てくれたのは、間違いなく以前に交わした会話があったからだろう。
そして精霊ですらも、縁を結んだ相手をより大切にするのだともわかってた。
昔、エルフがドワーフを嫌っていた理由として、全き自然からドワーフが火の欠片を盗んだから……、なんて逸話があったけれども、アレの意味は、エルフとドワーフが揉めた時に、火の精霊がドワーフの味方をしたって事なんじゃないかと思ってる。
森の中での火の扱いを厭うエルフと、火に親しんで生きるドワーフ。
仮にエルフが火の精霊にドワーフへの攻撃を頼んでも、断られる可能性は皆無じゃないのだろう。
まぁこれは完全に、僕の勝手な想像だ。
僕もこの世界の全てを知る訳じゃないし、ドワーフの王のみが扱える秘宝、地の熱を汲み上げて扱う炉なんて、理解の範疇を越えた代物も存在している。
いずれにしても、私情、贔屓を、僕は悪いだなんて思っちゃいない。
もちろん外聞は良くないから、胸を張って言う事でもないけれど。
少なくともパドウィンが一人前に成長して島を出るまでは、贔屓をして守り続けようと、そう思う。
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