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 翼をはためかせて高度を上げ始めたヒイロの背の上で、

「エイサー様、これって、万一にも落ちると、どうなるんでしょうか?」

 緊張した面持ちのアイレナが、そんな言葉を口にした。

 彼女の珍しい、少し弱気な質問に、僕は思わず小さく笑みを漏らしてしまう。

 アイレナは間違いなくエルフの中では英傑の部類だが、それでも空を飛ぶという未知の体験の前には、多少なりとも緊張や恐怖を感じているらしい。


 だがそれは実に当たり前の話で、僕の笑いも別に彼女を馬鹿にした訳じゃないのだ。

 冒険者という危険と隣り合わせの仕事を好んだアイレナの、思わぬ顔が見れて楽しかっただけである。

 ただ、そう、万一の危険に関して備えようとするその姿勢は、やはり冒険者だったからだろうか。


 まぁヒイロが僕達を落とすとは思えないけれど、それでも空の上では何が起こるかわからない。

 もしもの場合を想定した打ち合わせは、確かに重要だ。


「空から落ちた場合は、全身に風を受けて、風の精霊に頼んで少しでも落下の速度を遅らせるといいよ。そうしてる間に僕が追い付けば、一緒に浮遊の魔術を掛けるし、或いはヒイロが受け止めてくれるから」

 仮に僕もヒイロも間に合わなければ、下が海なら水の精霊に、そうでなければ地の精霊に柔らかく受け止めて貰うより他にない。

 怪我一つなく、とはいかないだろうが、アイレナ程の使い手ならば、それで生き残れる可能性は皆無じゃない筈だった。

 もちろん、空に放り出されるような事態にならないのが一番である。


『これまで、万を越えて背に誰かを乗せて空を飛びましたが、一度も落とした事はありません。なので、万に一つはありません』

 ヒイロの不服そうな声が、脳裏に響く。

 どうやら自分の背の上で、僕らが万一にも落ちたらなんて話をしてる事が、ヒイロのプライドに障った様子。

 でも反論のスケールがちょっと大きくて、僕はそれにも笑ってしまう。

 万に一つを、そのまま数字の実績で言い返して来るなんて、実に不死なる鳥であるヒイロらしかった。


 僕は笑いながら、乗ってるヒイロの背を手の平で三度軽く叩き、

「ヒイロの背から落ちるなんて思ってないよ。でも雲の上で、何があるかはわからないからね。もしもの時は、受け止めに来てくれると助かるよ」

 宥めるようにそんな言葉を口にする。


 そもそも雲というのは、本来なら人が乗れるようにできていない。

 僕とアイレナは風や水の精霊の力を借りれば、雲の上に立つ事もできるだろうけれど、巨人がどうやってそこで過ごしているのかは謎である。

 それに竜が世界を焼く時には、色んな種族が完全に絶滅してしまわないように、巨人が雲の上に彼らを引き上げて保護したって話も聞いた。

 つまり雲の上には、どうやってかはわからないけれど、人が行動し、生きられる環境があるって事なんだと、僕は思う。


 もしそれが巨人の意思、力による物ならば、彼らが僕らに敵対した時、雲の上から落とそうとする場合だってあるだろう。

 扶桑樹の夢で触れた巨人の印象は決して悪い物ではなかったのだけれど、魔族が巨人の実験で生まれた存在だという一点が、僕の心に不信感となって根付いてる。

 同じ古の種族というだけで気を許してしまうのが怖いと思う程度に。


 僕だけなら別に構わない。

 向こうが手を出して来るなら殴り返すし、雲の上から放り出されても、別に困りはしないのだ。

 ただ今回は一人旅じゃないから。

 どうしても普段よりも慎重になる。


『何かが起きても私は貴方の、いえ、今回は貴方達の味方となります。ご安心ください。私が味方でいる限り、空は貴方達の世界です』

 力強く、また心強い宣言に、僕は手を伸ばしてヒイロの背を軽く撫でた。

 実際にその背に乗って空を飛びながら言われれば、空が味方だって言葉も、まるで大袈裟には聞こえない。

 ヒイロはその言葉通りに、何が起きても僕と、それからアイレナを助けてくれるだろう。



 高度を上げながらも、僕らを乗せたヒイロは南に向かってる。

 巨人たちがいる雲は、風に吹かれながらゆっくりとこの世界を漂い、移動を続けているが、多くの場合はこの大陸から見て、南の洋上に在るらしい。

 恐らくは巨人がこの大陸も、それからずっと南にあるという大陸も、どちらも観察できるようにと。

 一体どんな目を持っていたら、高い空の上から地上を眺められるのかは知らないけれど、巨人はそれが役割だから。


 巨人が住む雲は、他の雲よりも更に高くにあるそうだ。

 だから僕らを乗せたヒイロは、雲海の上を飛ぶ。

 思っていた以上に高くて遠い場所に、巨人の住む雲の上の世界はある。

 逆に言えば、そうでなければ創造主だってハイエルフと巨人を繋ぐ為に、わざわざ不死なる鳥なんて生み出さなかった。


「凄いね」

 その言葉は、自然と僕の口から漏れた。

 ヒイロの背に乗って空を飛ぶのは二度目だけれど、西部から東中央部に帰って来た時以上に、僕は空の広さと、それを自在に飛ぶ翼の凄さに心を打たれてる。

 その行く手を阻む者なんて、何一つ存在しない。


 隣で、アイレナが頷く。

 誇らしげに、ヒイロが張り切って飛ぶ速度を上げた。


 東中央部の北の山脈を抜け、ルードリア王国、ギアティカ、ヴィレストリカ共和国も通り過ぎれば、青く広がる洋上へ。

 普段は見上げる事で空の青と雲の白を見ている僕らが、今は見下ろす事で海の青と、雲の白を見ているのだ。

 それは実に不思議な光景である。


 だがやがて、僕らの前にはもっと不思議な、他の雲よりもずっと高い位置に掛かる、大きく分厚く広い雲が見えてきた。

 一目でそれとわかる存在感を放つ、巨人が住んでいるのだろう特別な雲が。

 ヒイロは更に力強く羽ばたいて高度を上げ、僕らをそこへと連れて行く。

 

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