二十六章 辿る軌跡

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 人里を避けて西への旅を続けていると、やがて大きな山々が行く手を遮る。


 大陸の中央にはプルハ大樹海が存在し、東への道は人喰いの大沼によって遮られているように、西への道も同じく危険地帯によって封鎖されていた。

 西部への道を阻むのは、霧の山脈と言われる険しい山々と、その合間を縫うように通る死の谷だ。


 霧の山脈は単に険しい山々ってだけでなく、外縁部は普通の山々が並ぶけれども、それを越えて中に踏み込めば、視界を塞ぎ、方向感覚を惑わす濃い霧が常に掛かっている。

 しかもこの霧は、なんでも魔力を帯びた魔術の霧になるらしい。

 深い自然の中に発生した魔力が、偶然にも術式を再現してしまった地形か何かで霧の魔術として発動し、山々を覆い隠しているという。

 故にこの霧の中に迷い込めば、どんなに山に慣れた者であっても、先が見えぬままに己の位置を見失い、体力尽き果てて死に至るか、崖から落ちてしまうのだとか。

 いやまぁ、むしろ山に慣れた者であればある程、霧の掛かった山になんて踏み込まないだろうから、単なる例え話だとは思うのだけれども。


 そしてその死の谷は、そんな霧がかかった山々の間を通り抜けられる天然の通路だった。

 山々を壁に、上空に掛かった霧を天井に見立て、死の迷宮なんて呼称もあるそうだ。

 そう、迷宮なんて呼び方をされるだけあって、死の谷の道は決して真っ直ぐな一本道じゃない。

 山の間を縫うような谷はグネグネと曲がりくねり、分岐し、合流し、行き止まりも多く、人を迷わせる。


 また危険地帯の常だけれど、魔物の数もやっぱり多い。

 特に魔術の霧に適応した鳥型の魔物は、迷宮の天井を作る霧の中から突然舞い降りてくるので、谷を進もうとする無謀な者にとっての死神となるという。


 一説では遥かな昔、この地には魔族が集まり住んでいて、彼らが防衛の為に霧の山脈や死の谷を作ったのだとも言われていた。

 それは一般的には与太話の類だとされているけれど、僕は十分あり得る話だと思うのだ。

 自然の中に存在する何かが術式となって魔術が発動するケースが極稀にある事は僕も知ってるが、こんなにも大規模な魔術が、ずっと変わらずに自然に発動し続けてるなんて、幾ら何でも考え難い。

 だって長い年月は、風雪によって山の形すら変えてしまう。


 本当にこの霧の魔術がずっと昔から山々を覆っているのなら、それを維持する機能、維持しようという意思が、必ず存在している筈だ。

 尤も僕にとっては、この霧が自然に発生した魔術であっても、遥かな過去の誰かが設置した大魔術であっても、別にどちらでも構わない。

 その秘密を知りたいという気持ちが皆無だとは言わないけれど、流石に霧の山脈に踏み入って隅々まで探し、解き明かそうって程に暇じゃなかった。

 今の僕にとって最も重要なのは、西部に辿り着く事だ。


 もちろん東部へのルートがそうであったように、西部へのルートも危険地帯を避けるものが幾つかある。

 というよりも、誰もそのルートを選ばないし、通れないからこそ、霧の山脈や死の谷は危険地帯と呼ばれるのだ。

 ただ船で海を行くルートは以前も検討した通りに南の島を経由で、しかも辿り着く先は人間の国だし、霧の山脈をぐるりと迂回して避ける北回りのルートは、時間が掛かる上に寒い。

 ウィンは賢く北回りのルートを通って西部に行ったらしいが、僕はあまりに寒い場所を通るのを、どうにも億劫に感じてしまうから。


 まぁこれまでも危険な場所は幾つも通り抜けて来たし、取り敢えずは挑戦してみよう。

 霧の山脈はともかくとして、死の谷ならば途中で引き返す事もできる筈。

 何よりも、危険地帯の中だからこそ見られる、他の誰もが見た事がない何かを、今回も見られるんじゃないかとの期待もあった。


 死の谷への入り口は幾つもあると聞いているから、僕は山沿いに通り抜けられる場所を探して歩く。

 山から吹き下ろしてくる風が、その向こうにあるという霧のせいだろうか、妙に重くて湿っぽい。

 宿る精霊もその影響を受けてか、少しばかり反応が鈍いように感じる。

 これだともしかしたら、並の精霊術師の頼みでは、面倒臭がって聞いてくれないかもしれない。

 あぁ、いや、ハイエルフに出会って活性化した状態でこれなら、普段はもっと酷いのか。


 何とも少しばかり興味深かった。

 実際のところ、それが単なる水気であったなら、風の精霊がこんな状態になる事はない筈だ。

 水と風の関係は深く、空を吹く風は雲を、水を運ぶ。

 川辺に吹く風は冷たく濃い水気を含む。

 だからといって風の精霊の反応が鈍くなるなんて事は、皆無とまでは言わないが、僕はあまり見た覚えがない。


 つまり風の精霊がこうなってるのは、山脈に掛かる霧が魔術に由来する物だからなのだろう。

 もしかするとその魔術の効果には、霧を、空気をそこに留める力があるのかもしれない。

 吹く風に霧が散らされてしまわないように。


 この山から吹き下ろす風は、山肌に、或いはその向こうの霧にぶつかり、返って来た風だった。

 その際に霧が持つ魔力の、或いはその場に留められて淀んだ空気の影響を受け、こんな風に元気がなくなってしまったのか。


 もしこの推測が当たっていたら、僕であっても霧の山脈、もしくは死の谷では、何時も通りに風の精霊の助力を得る事は難しいかもしれない。

 幾ら風の精霊が僕を助けようと思っても、淀んで動かぬままの空気には、彼らは宿っていないのだから。

 ……いや、単に僕が知らないだけで、そんな淀んだ空気を好む風の精霊も、極稀にはいるのかもしれないけれども。

 少なくともこれまでに遭遇した事はなかった。


 さて、そうして歩き続ければ、やがて山と山の間に通り抜けられそうな谷を見付ける。

 その奥を見れば確かに、重たく霧が掛かってて、谷の向こうは洞窟の入り口のようにも見えなくもない。


 僕はとても濃い霧に、何時か出会った水の精霊を思い出しながら、死の谷に足を踏み入れた。

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