エルネスト・タシトゥルヌ 二十
かすかにディディが俺を呼ぶ声がして、慌てて隣室に飛び込んだ俺の眼に映ったのは、シャツを剥ぎ取られて上半身をあらわにされたディディと、彼にのしかかって白く滑らかな肌にいやらしい顔で舌を這わせているパトリツァだった。
ディディは蒼白になった額にびっしりと脂汗を浮かべていて、潤んだ夕陽色の瞳は焦点が合っていない。まずい、フラッシュバックによる過呼吸発作を起こしかけているようだ。
蒼褪めるディディとは対照的に、パトリツァは征服欲と
勝ち誇ったような顔は伝説に出てくる妖魔のように
俺はあわててあの女をディディから引き離し、小さく震える身体をしっかり抱きしめた。完全に俺の認識が甘かった。
まさか、こんな夜中に起き出してきて彼に襲い掛かるなんて夢にも思っていなかった。
「これはいったいどういう事かな?」
大声を出して、パニックを起こしかけているディディを刺激したくない。殴りつけて罵りたいのを必死にこらえ、ふつふつと湧き上がる怒りを無理やり抑え込み、できるだけ冷静な声で問いただす。
小さく震えて浅い呼吸を繰り返す背中をゆっくりとさすって落ち着かせる一方で、じりじりとしながらあの女の返事を待った。
しらを切るつもりなのか、いつまで経っても黙りこくっているヤツにいい加減しびれが切れる。まるで自分が被害者であるかのように涙目で震えるだけの女を睨み据え、しかし声だけは辛うじて平静を保つようにして再度問いただした。
「これはいったいどういう事か訊いているのです。それとも答えられないような事をしていたのですか?」
それでもあの女は口をはくはくと動かすだけで、何も答えようとしない。まあ、「体調を崩して休んでいる未婚の男性を襲って無理矢理性的関係を持とうとしていた」なんて、いくら厚顔無恥なパトリツァであってもさすがに答えられないかもしれないが。
それにしたって、せめて謝罪の一言くらいあっても良いのではないだろうか。そろそろ我慢の限界に達しようという頃、腕の中のディディが見かねたようにとりなした。
「エリィ、今はいったんおさめて。明日おちついてから話しあおう?
夫人も今は混乱しておられるみたいだし」
俺を見上げる深いオレンジ色の瞳はいっぱいに涙を
今はあの女を問いただすより、一秒でも早くディディから引き離し、安全を確保して彼をゆっくり休ませることが先決だ。
「ディディがそう言うなら仕方ない。君は自室に戻ってもうやすみなさい。
明日ゆっくり話し合いましょう」
俺は深々と嘆息しつつ、できるだけ穏やかに言って退室を促す。
ディディの頬を伝った涙を指ですくいとると、こわばっていた身体から少しだけ緊張がとけて脱力した。少しでも安心させようとそっと背を撫でて抱き寄せるとそのまま身体を預けてきた。
よほど参っているのだろう。
「で……でも旦那様……」
「いいから下がりなさい。今すぐに」
この期に及んで何か言い出したあの女を黙らせて多少強引に下がらせた。
あの女が醜く歪んだ悪鬼のごとき形相で、ドスドスと淑女らしからぬ荒々しい足音を立てて悔し気に去っていく。
その足音が完全に聞こえなくなってから、未だに震えが止まらないディディをベッドに誘導して座らせた。そして少年時代と同様、しっかり抱きしめて互いの体温と心音を感じながら、彼の呼吸に合わせてゆっくり背中を撫でる。
しばらくすると浅かった呼吸も落ち着いて、ディディは俺の胸にずっとうずめていた顔をようやく上げた。
「ごめん、それといつもありがとう」
桜色の唇から出た柔らかなアルトはもう震えていなかった。彼を一人にしておくのはもうやめよう。
パトリツァには少しでも良い方向に代わるならと思って好きにさせてやった面もあるが、もうそれも限界だ。奴らとの関わり合いを終わりにして、早々にとどめをさすことにしなければ。
そしてパトリツァ自身にも、自らの行いの責任を取ってもらおう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます