エルネスト・タシトゥルヌ 五

 入学後間もなく、下衆な他学科の学生によって思わぬディディの過去を知る事となった。彼が入学前に騎士団で受けた凄惨せいさんな性犯罪の被害についてペラペラと暴露されたのだ。

 その下衆はディディをまるでけがらわしいもののようになじって嘲笑あざわらった。ショックを受け過呼吸発作を起こして苦しむ彼の姿は今でも忘れられない。綺麗な顔を涙とよだれでぐちゃぐちゃに汚し、ひたすら自分を責めていた。


「……僕と一緒にいるの、嫌じゃないの?」


 ようやく呼吸を整えた彼に涙に揺れる瞳で問われて、「そんな訳あるか」と言下げんかに否定したが、それだけでは彼の不安はぬぐい切れなかったようだ。危うい状態のディディを一人きりにすることなど到底できるはずもなく、俺はようよう寮まで連れ帰った彼を強引に自室に連れ込んだ。


 ベッドに座らせてとりあえずコップに汲んだ水を渡す。彼がこくりと水を飲み干すと、隣り合って座ったまま気まずい沈黙が室内を支配した。隣でうつむいて不安げに小さく震えるディディに何をすればわずかなりとも彼の苦しみを和らげられるのか、見当もつかずにただ己の無力さを噛みしめるほかはない。


 どのくらい時間が経っただろう?何時間も経ったような気もすれば、ほんの数分のような気もする。


「僕は汚れてるんだ……」


 ぽつりとディディが口を開いた。


「新しいお義母様がいらっしゃって、とても優しくしてくれて。親子になるんだから、ちゃんと触れ合わなければって言われて、素直に言われる通りにしてた」


「……うん……」


「大きくなって、ねや教育が始まって、自分が何をしていたのか、何をされていたのかわかったんだ。けがれてる自分が気持ち悪くて、家庭教師の前でいきなり吐いちゃって、吐くのが止まらなくって……

 気が付くとお義母様はいなくなってた。病気で領地に静養に行ったって。そのまますぐ亡くなったよ」


「……そうか……」


 深く考えるまでもない。義母は病気療養の名目で王都から追いやられ、病死の名目で処分されたのだろう。


「さっき言われたのも本当のこと。お義母様のことがあって、自分がすごく嫌で。ずっと死にたかったけど、自殺するのは絶対にだめで。

 だから、騎士になりたいって無理を言って、弟子入りさせてもらったんだ。

 見習いとして頑張ってるうちにいろんな人に可愛がってもらって、従騎士になるのが決まってね。魔法とか武術とか、いろいろ教えてもらったんだ」


 ぽつりぽつりと話すディディの声がかすかに震えている。


「師匠はとても貴重な身体操作魔法の使い手でね。僕も簡単な身体強化魔法と治癒魔法を教えてもらった。武器も、僕は小柄だからリーチの長いものがいいだろうって、槍斧ハルバードの扱いを教えてもらって……

 そしたら叙任じょにんのちょっと前くらいに先輩方に呼び出されてね……」


「……もういい……」


 さっき耳にしてしまったあの下衆の台詞が脳裏のうりによみがえる。ものすごく嫌な予感がして、俺は絞り出すような声で彼の言葉をさえぎってしまった。


「身体を使って媚売って、卑怯だって。特別扱いされて、誰にも教えてない身体強化魔法や治癒魔法を教えてもらってずるいって。売女にふさわしい教育をしてやるって……」


「もういいって言ってるだろ!!」


 思いがけず大きな声を出してしまい、傍らのディディの身体がぴくん、と跳ねる。しまった、と思って彼の方に向き直ると、潤んだパパラチアが不思議そうに俺を見つめていた。


「……どうしてエリィが泣くの……?」


「……え……??」


 白い指先が伸びてきて、俺の頬をぬぐって初めて自分が泣いている事に気が付いた。何故俺は泣いているんだろう?泣きたいのはこいつのはずなのに。


「……だって悔しいだろ?」


「……え……?」


 出てきた言葉は半ば無意識だった。


「……悔しいじゃないか。けがれてるのも卑怯なのも、全部お前をもてあそんだ奴らだろう!?ディディはこんなに綺麗で、どこもけがれてなんかないのに、あんな奴に侮辱されて……」


「……エリィ……」


「俺は悔しい……っディディはどこもかしこも綺麗なのに……っ

 こんなにも優しくて、賢くて、どこもけがれてなんてない……っ」


 一度出てきてしまった言葉は涙と同じでなかなか止まらなくて、俺は絞り出すように言葉を吐き出し続けた。

 ディディは苦しみながらも自分の抱える傷について包み隠さず話してくれた。

 これほどまでに虐げられ尊厳を踏みにじられても、彼は誰を恨むわけでもなくただ精一杯生きる事だけを望んでいる。こんなにも無垢で美しい心の持ち主が他にいるだろうか。


「……綺麗なのはエリィの方だよ……」


 消え入りそうな声に、驚いて顔を上げると、両手で頬を包み込まれた。

 綺麗な手は見た目に反して少し堅くて、怠らずに鍛錬している証の小さな傷とマメでごつごつしていた。


「ありがとう、エリィ」


 ふわりと嬉しそうに微笑んだあの顔は、今でも脳裏に焼き付いている。柔らかで、幸せそうな、それでいてはかなげな、最高の笑顔。

 その無条件の信頼のこもった眼差しを受け、俺はこの時初めて自分の想いをはっきりと自覚した。

 愛おしい、この笑顔を守りたい。

 俺はこの繊細で傷だらけの友人を心から愛している。

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