エルネスト・タシトゥルヌ 三

 王宮から退出する馬車の中。下らない腹の探り合いで神経がやすりで削り取られるような夜会場と違い、プライバシーの守られた閉鎖空間にほっと一息つく。

 俺と向き合って座って「久しぶりに二人でゆっくりできるね」と嬉しそうに微笑むディディがたまらなく可愛い。このところたて続いていた激務と、今日の慣れない社交で疲弊しささくれだった心がみるみるうちに癒される。

 いっそのことディディを娶れれば良かったのに。溺れるほど愛して、大切に慈しんで、誰よりも幸せにする自信がある。

 政務もさぞはかどることだろう。二人で三人分どころか四人分、いや五人分だってこなせるんじゃないか。

 ……貴族である以上、何をどうしても不可能なのはわかっているのだが。


 残念なことに幸せな時間はあっという間に過ぎてしまう。馬車に乗ったと思えばすぐ屋敷についてしまった。

 使用人に命じて二人とも湯を使う。


「いつも贅沢させてもらっちゃってちょっと申し訳ないな」


「つまらない遠慮をするな。ただのついでなんだから。また明日からしっかりこき使うからな」


 いちいち遠慮するディディに冗談めかして気にしないように言う。

 無茶な勤務体制でもいつも頑張ってくれているんだから、たまにはゆっくり寛いでほしい。幼少時から再三にわたって踏みにじられて生きてきたディディは異様なまでに自己肯定感が低い。

 一人で放っておくと自分自身を省みずに倒れるまで無理を重ねてしまうのは、付き合いの長い者なら誰でも知っている。

 だから俺が強引にディディを手元に置いていても、異を唱えるものはあまりいない。自分自身を蔑ろにしてしまうという点で意外に頑固なところがあるディディが、俺の言葉にだけは素直に従うからだ。


 湯から上がる頃を見計らって俺の部屋に二人分の夜食と香草茶を用意させ、使用人を下がらせる。

 差し向かいで良い酒でも飲めればさぞや愉しいとは思うが、明日も勤務があるし、いつもの事とは言えあの女の傲岸で恥知らずな振舞に苛立ちがたまっている。酒が入ったらろくなことをしないだろう。

 ディディを愛していると自覚してからはや十年。うっかり襲って嫌われでもしたら、親友ポジションを固持するため忍耐を重ねてきた日々が台無しだ。


 俺のそんな内心の煩悶など露知らず、ディディはせっせとカナッペをつまんで口に運んでいる。一口ごとに実に美味しそうに、幸せそうにもぐもぐと咀嚼する姿は子猫のようだ。

 湯上りでほんのり上気した肌に、まだしっとりと湿り気の残った髪が貼り付いた様がなんとも艶っぽい。差し向かいに座っていて本当によかった。

 もし隣り合って座っていたら、たまらず抱き寄せて柔らかそうな唇を貪っていた事だろう。二人の間にあるローテーブルの存在に心から感謝する。


「もう十年か。エリィとも長いつきあいだよね」


 昔を懐かしむように言うディディに俺も出会ったばかりの頃を思い出す。


「最初に会ったのは十五年近く前だけどな」


「ほんと、つい最近のことみたいなのにね」


 懐かしく語り合いながら、心は彼と初めて出会ったあの茶会の時に帰っていく。


 初めてディディに逢ったのは、母がしきりに開いていた茶会の席だった。

 招かれるのは同年代の子供がいる夫人が多く、子供たちの交流のため……と称して実際には母親同士の子供自慢とマウントの取り合いの場だった。

 俺はことさら粗暴に振舞い、相手の上に立とうとするヤンチャな連中が苦手で、少し距離を置いて一人で本を読むことが多かった。

 そんなある日のこと、いつものように東屋で俺が一人で本を読んでいると、ふと鮮やかな赤が視界の隅に映り込んで目を上げた。


「ごめんなさい、邪魔しちゃったかな?」


 そこには俺と同じくらいの年頃の、人形のように美しい子供が佇んでいた。

 フリルの多いブラウスに刺繍の施されたベスト、ふんわりと膨らんだベルベットの短いパンツ、膝丈の靴下と上質のローファー……と言った貴族の子供らしい服装がよく似合っていて、あまりの愛らしさに女の子だと思いこんだ。


「いや、別に。俺はタシトゥルヌ家のエルネスト。君は?」


「僕はケラヴノス家のクラウディオ。隣に座っても良い?」


「どうぞ。クラウディアか、それじゃディディだね」


「クラウディオ、だよ。僕がディディなら君はエリィだね」


 女の子だと思い込んでいたために名前を聞き間違えた俺は、彼のことを女性名の愛称であるディディと呼んでしまった。お返しとばかりに俺の事もエリィと、女の子みたいな呼び方をされたが悪い気はしない。

 結局、お互いにその時の呼び方が十年以上経った今でもまだ続いている。


 二人とも悪ふざけや乱暴な遊びが苦手で、よく一緒に並んで本を読んでいた。

 聡明で優しいディディは話題も豊富で、一緒に本を眺めながら穏やかに語り合う時間はとても居心地が良かった。いつの間にか彼が茶会に来なくなり、一時は疎遠になったが、決して忘れた訳ではなかった。

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