紫苑の猟犬、ケルとの出会い、のおはなし

17 - 誇り高き紫苑の猟犬

「そうだ、嬢ちゃん。昨日の猟犬だが、ちゃんと帰ってきたぞ。ほれ」


 酒場の店主は思い出したように声をかけ、猟犬を差し出しました。猟犬は四つの足でしっかりと立っており、昨日の弱り具合からは到底、想像のつかないほど元気な姿を見せていました。


 菜優はその姿を認めた瞬間、感極まってしまい、思わず抱きつきました。


「離しなさいってば。暑苦しいったらありゃしないわ」


 猟犬の叫び声に耳を貸すこともなく、猟犬を抱く菜優の腕にだんだんと力がこもっていきます。助けられてよかったとか、本当に心配したとか、助けられなかったらどうしようと思っただとか。そんな言葉を嗚咽でぐちゃぐちゃに滲ませながらしきりに宣っています。


 やがて鳴り響く歓喜の悲鳴に耐えかねて、猟犬は菜優を殴り飛ばしました。


「ああ、もう!落ち着きなさいったら!そんな調子で喋られても、なんて言ってるか、判ったもんじゃないじゃないの!耳元で騒がれて、堪ったもんじゃないんだから」


「だって、だって。本当にあかんかもって思ったんやもん。でも助けられて、また会えて、また話せてよかった」


「…ふん。あそこであたしが死んだところで、あたしの自業なんだから。あんたには関係ないでしょ」


 涙でぐしゃぐしゃなままのまなこで真っ直ぐ見つめてくる菜優の視線に怯んで、気まずそうに目を反らせます。そんな菜優がまた抱きつこうとしてくるので、今度は前足で精一杯に突っ張って、菜優から逃れようとしていました。


 そうしたやりとりがしばらく続き、やがて菜優は落ち着きを取り戻しました。菜優は酒場の店主に向き直り、礼を言いました。


「あの、ありがとうございます。あれ?そういや、お金は…?」


「お前さんはべろべろに酔ってしまって覚えてないだろうが、あの野郎共から貰ってるから、心配せんで構いやしねえよ。むしろちょっと余ってるくらいだしな」


 そう言って店主は、少々のコインを菜優に手渡しました。合計して五ティミ相当になるそれらを、菜優は大事にポーチの中にしまい込みました。昨日、自分の周りでバカ騒ぎしていた人たちの温かさが、菜優の心に沁み渡っていきます。


 菜優は猟犬のもとに視線を戻しましたが、すぐそばにいたはずのあの紫苑の猟犬の姿は既にありませんでした。菜優は慌てて飛び出して辺りを見回しますが、やはり、視界の中のどこにもその姿を見つける事は出来ません。菜優はがっかりと肩を落としました。


 ヴァレンタインを発ってからというもののシャワーはおろか、沐浴のひとつも出来ていません。クラッカーも使い切ってしまいましたので、また買い足さなければなりません。


 酒場の常連さんたちから貰ったお小遣いがあるとは言え、やはり所持金は心許ありません。そういえば、朝ごはんもまだ食べていません。猟犬の行方は気になりましたが、やらなきゃいけないことを考えていると、とてもかまっていられる余裕はなさそうに感じました。


 酒場の店主に相談してみたところ、朝ごはんを出してもらえました。食べ終わってお金を払おうとすると「昨日儲けさせてもらった分だ。いらねえよ」と押し返されました。代わりに、酒場でもいくつか仕事の斡旋を行っているから、気が向いたら手伝って欲しいと言ってくれました。


 菜優は酒場の店主にお礼を言って酒場を出ました。はじめて来たこのホワイトデイの町のことを、菜優はただの一つも知らない菜優は、街の人達に色々と聞いて周りました。お風呂は宿屋で貸してもらえるらしいことを聞きつけ、そこで数日ぶりのお風呂を堪能しました。


 さっぱりとした気分で宿屋を出た菜優は、残った問題を整理していきます。ご飯とお風呂は片付いて、お仕事は酒場で斡旋してもらえる。雑貨屋は昨日に行った店の事を思い出しましたが、あまりに急いでいたものですから、どんな店かしっかりと見ることは出来ていません。それに、他にも店があったなら、一緒に見ておきたいところです。


 まずは市場調査と意気込んで、菜優は雑貨屋を目指していきます。その最中、道端に見覚えのある紫苑の毛並みを見つけました。彼女はぐったりとうずくまったまま、動く様子はありません。


 菜優は慌てて駆け寄って、猟犬の様子を確かめました。元気こそなさそうなものの規則正しく呼吸をしており、菜優はほっと胸を撫で下ろしました。にわかに黄金の眼がぎろりと開き、菜優を鋭く睨みつけます。


「何、あんた。何しに来たの」


「猟犬さんこそ、ここで何してるん。どうせ寝転ぶなら、日なたのが心地ええよ」


「あのねえ…」


 猟犬の視線は「呆れた」と言わんばかりに、鋭さを鈍らせていきます。もたげた首が、ゆるゆると地に堕ちていきます。


「でさ、ええと…あれ、なんて言うんやろ。そういや、名前聞いてないよな。私は朱鷺風菜優って言うの。あなたは?」


「…名乗るほどの名なんて無いわ。一端の野良犬なわけだし」


 それもそっかと、菜優は合点がいきました。であれば、と、菜優は少し考え込みます。


「そう。ならケルベロス…ちょい長いかな。ケルちゃんって呼んでいい?名前無いと呼びづらいし」


「なんでそう…はあ。もう好きにしたら」


 紫苑の猟犬は首の一つも起こす気のないままに、ぞんざいに答えました。土の匂いの立ち込めた、柔らかな風が二人の間を撫で過ぎていきます。ふわりと桜色の花片がひとひら、舞い込んで通り過ぎていきました。


「でさ、ケルちゃんは何してたん?こんなとこで」


「別に、あたしがどこで何をしてようが勝手でしょ」


 ケルは相変わらず、ぞんざいな態度を崩しません。せっかく助けたのにと、菜優はむっとして言い返します。


「勝手かも知らんけど、私、ケルちゃんが突然おらんなってすっごいびっくりしたやに。なんでおらんくなったんさ」


「別にあたしがどこで何をしてようが、あんたが勝手にびっくりしてようが、知ったこっちゃないでしょって言ってんの。それとも、助けてくれたのにお礼の一つも言えないのって言いたいのかしら。あたしはあそこで野垂れ死のうと、一向に構わなかったっていうのに。勝手に助けて、勝手にいい気になってるのはあんたでしょ」


 ケルの鋭い剣幕に、菜優はひどく驚きました。ケルの言い分によれば、菜優が助けたのはただのお節介だと言うのです。生死が関わっていていたというのに。菜優はひどく混乱してしまって、二の句が継げなくなってしまっていました。


 そんな菜優を後目しりめに、ケルはまた歩き去ろうとします。ここで何かをぶつけなければ、ケルとはもう二度と会えなくなってしまう。そんな予感が、菜優の脳裏をよぎりましだ。その背に向けて、ある疑問をぶつけてみました。


「なら、さ。あん時、なんで私を助けてくれたんさ。あっこで私があの男の人達に捕まって酷い目に遭っても、熊に食い殺されてしまってても、ケルちゃんにはまるで関係ないやんな。やのにさ、なんで助けてくれたん?」


 ぴた、とケルの足がとまります。耳をこちらに向けたあと、ためらいがちに首だけでこちらに向き直ってきました。


「あたしがどこで気まぐれたって、あんたには関係ないでしょ」


 尻尾を垂らしたまま吐き捨てたケルの声は、どこか寂しさをはらんでいるように聞こえました。また振り返りさろうとしたケルの背を、またまっすぐに見つめながら、菜優は声に意志を灯らせます。


「ううん、そんなことない。私は知りたい。だってその気まぐれで、私は二度も助けられたんやから」


 ケルは、また二の足を踏みます。菜優にはそっぽを向いたまま、しかしそこから去ろうともしません。二人は歩み寄るでもなく、離れるわけでもなく。刻々と時の過ぎゆく中で、まるで時間が止められたように。二人は山から降りてきた冷たく乾いた風にさらされ続けるのでした。

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