9 - 戴きます、という言葉

 菜優が穴ぐらに近づくと、ウサギたちは奥に引っ込んでいきます。手に持った葉っぱを一つ差し出して辛抱強く待っていると、やがてそのうちの一匹が近寄ってきました。


 今まで見つけたウサギ達よりも一回りほど小さく、茶色い毛皮に包まれた彼は、警戒心が弱いのか、あるいは、人に少々馴れているのか。菜優はこの愛らしい一匹を連れ帰って、あの洞窟で一緒に暮らしたいとも思いました。


 しかし、今の菜優にはそんな余裕はどこにもありません。意を決して、左手でウサギの前足に掴みかかります。


 案の定、ウサギは激しく暴れだしましたが、菜優も必死の思いで手に力を込め離しません。やがて右手で剣の鞘を握り、力一杯に打ち付けました。


 その一撃がウサギの背中をに捉え、悲痛な叫び声が上がります。愛らしい双眸に生き抜く意志をたぎらせて、必死になって足掻きます。


 しかし、鞘で力強く全身を打ちつけるたび、その勢いは、確実に弱っていました。菜優は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死で夢中に、背中へ、頭へ。何度も何度も剣を打ち付けました。


「ナユ、もう良いでしょう!早く血を抜きなさい!」


 コアトルの声が、半狂乱になった菜優の耳をつんざきます。ようやく落ち着きを取り戻しましたが、菜優は呆然としたまま動けずにいました。


「早く、血を抜きなさい!ウサギの命を粗末にする気ですか!」


 その一言で、菜優はようやく我を取り戻しました。左手を見やると茶色いウサギが一匹、ぐったりとして菜優の手に入っていました。菜優は刃物を探しますが、ウサギを打ち据えたエーテルの剣しかありません。少しだけ抜いて、やはり気持ち悪さに襲われましたが、このくらいであれば大丈夫。うさぎが受けた仕打ちの酷さを鑑みれば、何ということもないと、菜優は気を奮わせました。


 少しだけ出した刃をウサギのくびに押し当てます。目を瞑りながら、お願い、切れてと念じながら。しかし刃は思ったように進んではくれません。猟犬を斬り裂いた時には、骨ごと綺麗に断ち切ったと言うのに。


 菜優は少々の焦りと罪悪感に苛まれながら、頸に押し当てた剣に更に力を加えます。ややあって刃がすとんと落ち、乗せていた体重が前に転けました。菜優はやはり目を瞑ったままうさぎの後ろ足を探しだし、やがてそれを掴んで逆さに吊るすように持ち上げました。


 ぼとぼとと足元に水の落ちる音がします。それらが方々に飛び散って、足首に当たってくるのを菜優は感じます。やがて音がしなくなると、菜優はようやく目を開くことが出来ました。左手をみやれば、茶色い毛皮の塊のようなものが目に入ってきます。それが本来は何物だったか、、何物だったのか。思いが巡り、また嗚咽と涙が戻ってきました。


「…上出来です、ナユ。ウサギも…心置きなく神の御下に還り着けることでしょう。さ、帰りましょう。血の匂いに誘われて、モンスター達が寄ってきても不思議ではありません」


 コアトルの宥めるような声を聞き、菜優はようやく我を取り戻しました。辺りを見やればすでに薄暗く、空を見やれば十六夜の月が地平線から飛び出してくるところでした。凛とした一陣の北風が、今なお立ち尽くす菜優の頬を一つ撫ぜて過ぎ行きます。やがて遠くに遠吠えを聞いた気がして、菜優は慌てたように駆け出しました。


 洞窟に帰りついても、菜優はまだ休むことは許されません。いかんせん、捕らえたウサギを食べられるように早いうちに処理してしまわねば、せっかく狩ったお肉をダメにしてしまいます。捌き方はわからないけど、なんとかやんなきゃならんよなと思ったその時、菜優は一つ思い至ったことがありました。少なくとも菜優の記憶にある限りでは、腰に据えたエーテルの剣の他に刃物を持っていないかったのです。


 菜優は憂鬱な気持ちで、またこの剣を抜かなならんのかな、でもウサギの命を無駄にするわけにはいかんよな、なんて独り言ちながら逡巡しゅんじゅんしています。エーテルの剣は少しだけ鞘から出すくらいなら耐えられたものの、それではあまりに使い勝手が悪すぎます。かと言って抜ききってしまえば、前後不覚に陥って捌くどころではなくなってきます。ああでもないこうでもないと頭をフルに回転させていましたが、そんな渦中にコアトルが包丁を一本持ってきて、


「台所から、一本拝借してきました。状態は良いですし、少々洗えば十全に使えるでしょう」


 なんて暢気にいうものですから、先の悩みはどこへやら。菜優はありがとうと言いながら包丁をひったくって、台所へと向かいました。


 蛇口をひねれば洞窟の中とは思えないほどに綺麗な水が出てきました。口に含んでみると、山で飲んだ湧き水のように冷たく澄んだ味わいが口いっぱいに広がってきます。自然の水を堪能してから包丁を水ですすぎ、いよいよ獲物を捌くこととしました。


 何をどうするべきかはわかりませんが、食べるためにはとにかく毛が邪魔でした。毛を一つ一つ毟っていくいくわけにもいかないものですから、皮ごと剥いでいく事を早々に決めて、足やお腹に包丁を入れて行きます。内蔵のようなものを見つけて取り出しますが、どれが食べられてどれが食べられないかが判別が出来ません。残しておいても腐らせてしまうだけでしょうし、外に打ち捨ててしまおうと考えました。


 ある程度包丁を入れていくと全身の毛皮が綺麗に剥げそうな目処が立ちました。皮を引っ張りながら肉との継ぎ目を見極め、丁寧に丁寧に包丁を入れていきます。やがて全身の毛皮が剥がれると、きれいな桃色をした肉が露わになってきました。背骨にそって幾箇所も黒ずんでいて、見るからに痛々しくありました。毛皮は少々の傷みがあったものの見てくれは悪くなく、もしかしたらなにかに使ってもらえるかもしれないと菜優は考え、明日街に持っていくことにしました。


 ようやく手に入ったお肉を小分けにして綺麗に洗い、火に掛けて焼き上げます。そのうちの一つだけを残して、あとは冷蔵庫の中にしまいました。


 初めて自分で狩って、自分で捌いたウサギの肉。かじりついて頬張ると、その肉は思ったよりも歯ごたえがあり、甘みと血生臭さが混在したような、野性味に満ちた味わいでした。ハーブティを一緒に含んで硬さをごまかしながら、ゆっくりしっかりと噛み締めます。やがて食塊を食道へと招待すると、野性味溢れる香りがお腹の中にじわっと広がってきました。


 二口目を頬張って間もなく、もぐもぐ咀嚼する口の動きが緩まっていき、やがてと動きを止めてしまいました。次の瞬間、菜優の眼がゆるやかに潤んでいき、やがて大粒の涙が一筋、頬を伝って落ちていきました。


「生き物ってのは難儀なモンでさ。他の生き物の命を頂戴せんかったら、生きていくことは出来やんのや。やから、その相手の命に対して感謝と尊敬の念を込めて、"戴きます"って言うんやに」


 そう何度も口にしていた、夕食時の父の姿が脳裏に去来します。何度も何度も耳にしていて分かっていたつもりでいましたし、なんならくどいとすら思っていたのですが、今になってようやくその言葉の意味の重さに気付かされたのです。


 眼に涙を溢れさせ、夢中になってウサギ肉に齧りつきます。戴きます、戴きますと何度もつぶやきながら。それは彼自身の意志ではなかったけれど、私の命のために奪われた命に感謝を込めて。菜優は諄々くどくどしいくらいに、戴きます、戴きますと繰り返しながら、ウサギ肉をんでいくのでした。


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