4 - はじめての外の世界

 ドアを開けた菜優の視界に飛び込んできた世界は、まるでファンタジーアニメやMMORPGゲームで見るような、非現実世界そのものでした。まぁ、洞窟の中だけで言っても、十分に現実離れしていたのですが。


 辺り一面に草が萌え茂って、広大な原野が繰り広げられています。鶏やカラス、他にも見たことのないモンスターたちが右に左に点々とおりました。彼らがどう襲ってくるのか来ないのか、全く読めないものですから、菜優は腰に携えた剣に手を添えて、ぴりりと神経を尖らせました。


 草の萌え広がる、道なき道を菜優は進みます。時折左へ右へ首を振り、おばけでも出るんじゃないかと言わんばかりに、おっかなびっくり歩きます。時折がさっと音がして、そのたびに全身の肌を粟立たせ、にわかに振り返り剣の柄を握ります。足を止めて音のなったほうを注視しますが、そこから動物などの飛び出てくるものなく、またしばらくの後に元の道に戻ります。しばらく繰り返すうちに菜優はすっかり慣れてしまい、音がしても目をやるばかりで、足を止めることもなくなりました。


 しばらく歩くと、草の禿げた道のようなものに出くわしました。アスファルトや石畳こそないものの多少に整備がされており、ここが、ライアンの言っていた街道なのかなと菜優は考えました。


 さて、街道にたどり着いたのは良いのですが、菜優はどっちが北かがわかりません。生まれ育った日本であれば、朝方の太陽は東にあって、それから左手に翻えったほうが北でした。しかし、この世界の太陽は、東から登るものなのでしょうか。菜優は少々考えましたが、出会った人に聞けばよいだろうと思い直して、太陽に正対し、左に翻って歩きはじめました。


 歩きはじめて数刻経ちましたが、一向に人と出会えません。街道と言うくらいなのですから人っ子一人、居てもよさそうなものなのですが。人が居ないか、期待しつつ歩いていると、またもがさがさと右後から音が立ちました。それだけなら目をやる程度に留めていた菜優でしたが、明らかに音が近づいてくることに気付きました。緊張感が全身を駆け巡って、肌がぞわわと粟立ちます。菜優は音のした方に素早く向き直ると、一匹の灰色の狼がこちらに駆け寄ってくるのが見えました。


 菜優はとっさに腰に据えた剣を抜こうとしますが、剣が思ったように鞘から出てきてくれません。一方で狼は、菜優が剣を抜くのを待ってくれるはずがありません。もたもたしている間もなく、菜優に向かって飛びかかってきました!焦った菜優は鞘ごと剣を取り出して、体の前に掲げるように構えます。そしてなんとか狼の突進を受け止めることに成功しました。


 狼は、牙や爪を振りかざしてじゃれついてきます。グルルと低く喉を鳴らせながら、じりじりと菜優に甘えてきます。動物園で嗅いだような獣の匂いが、菜優の鼻腔に突き刺さります。あのときのスライムのように、いかにも人懐っこい…というわけではなさそうです。命の危険を感じたか、海に投げ出されたときには感じなかった恐怖心が、全身をびりびりと駆け巡ります。必死の思いで剣を持つ手に力を込め、一気呵成に突き出しました。狼の体躯が菜優から離れ、軽々と宙を舞います。


 菜優は柄を両手で握り直し、狼と相対します。羽を握るかのように軽い剣は鞘が既に振り払われていて、美しく透き通った翠玉エメラルドのような刀身が露わになっていました。片刃の刀身の周りをホタルが飛び回っているような、淡く弱い緑色の光がまとわりついています。


 不意に、菜優の全身を気だるさが襲います。自分の体の重さに耐えかねて、菜優の全身はぐらりと崩折れました。相対する相手は、獲物の態勢が崩れたところを、見逃すような狼ではありません。均衡を破るように、にわかに突撃してきます!歪みぼやける視界の中に狼を捉えた菜優は、夢現な心地のまま、一心不乱にふわっと剣を薙ぎました。最初にぶよぶよした感触が、次にすじ肉を切った時のような感触が、途中でかちんと、なにか硬いものにあたった感触が順に手に伝わってきます。やがてそれらすべてが、まるで温めたナイフでバターを撫で斬るかのように過ぎ去っていきました。


 胃や腸がぐるぐるかき混ぜらられ、脳や意識が激しく左右に揺さぶられるような感覚が菜優を襲います。あまりの気持ち悪さに剣を手放そうとしますが、足掻けど足掻けど、なかなか右手から離れて行きません。ぐらぐら揺れる意識の中で前後不覚になりかけながら、必死に手を離そうと試みている最中に、地面に落ちていたなにか硬いものの存在を左手が認めました。よく見てみると、ライアンから貰った時に収まっていた、あの飾り気のない焦げ茶の鞘によく似ています。必死になって剣をその中に収めると、不思議なことに、あんなに気持ち悪かった気分が幾分かマシになりました。しばらく休んでいるうちに体も元通りに軽くなったので、すっくと立ち上がりました。ようやく落ち着いて周りを見渡すことができるようになったのですが、どうにも狼の姿が見当たりません。ただ、自分を襲ってくるものの存在が認められなくなったので、菜優は旅路に戻ることにしました。また太陽に正対して、左手の方向に歩を進めます。


 しばらくして、ようやく第一村人を発見しました。荷車を馬に引かせている彼に話を聞くと、偶然にも、彼もヴァレンタインに向かっているとのことでした。荷車にはところ狭しと荷物が乗せられていてスペースがギリギリでしたが、それでも良いなら、と乗せていってくれるようです。


「でも私、お礼に渡せるものなんてなにも…」


「お嬢ちゃんも、ここに流れ着いたんだろ?その服を見りゃあわかるさ。流れ着いたばっかの子供が、金の心配をするんじゃあない。せめて税金を払えるようになってから、その後で構わねぇよ」


 大船にタダで乗せてもらえるそうなので、他に移動手段あしを持たない菜優は彼の厚意に甘えることにしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る