渇望
上海公司
第1話
古臭いベッドの匂いを鼻腔に感じながら私はしみの付いた天井を見上げていた。視界は薄暗く、静かだ。宙を舞う蠅の羽音や、壁を伝う蜘蛛の足音までも聞こえてくるほどだ。
私は口を開けたまま、涎を垂らして、呆けた顔で薄汚れた天井のシミをただひたすらに見つめていた。
側から見れば私は完全に気の狂った人間だろう。しかし、私は決して頭がおかしくなったわけではない。むしろ今この瞬間、私の心は幸福に満ち溢れていると言っても過言ではない。明日は私が永らく待ち望んでいたこれ以上ない最高の日なのだ。
ピチャリ。水滴の音がする。鉄格子の外から聞こえてくる。
明日の事を思うと、私は自分でもよくここまでさまざまな苦労を耐えてきたな、と思う。私は生まれたその瞬間から、明日という日を待ち望んでいたといってもいい。ベッドに横になったまま、羽音を立てるハエを目で追いながら私は思った。私のここまでの日々は暗いトンネルの中を歩いていたようなものだ。どこまでも続く暗いトンネル。出口も見えず、引き返すことも出来ないので億劫ながらもとりあえず前に進んでいた。しかしよくよく考えると、そんな事は何の意味もなかった事だ。ただ、私は周りに促されるままにもがきながら汚泥の溢れかえる道を進んでいたのだ。ようやく明日、私は満点の星空の元へと解放される。それを思うと、今までの自分に起きてきたどんな理不尽さえも私は愛しく思うことができた。心臓の高鳴りが、それをたしかに証明した。こんなに明日を待ち遠しいと思った事がなかった。
恐れはないかと聞かれれば、もちろんあった。明日を迎えたら、自分は一体どうなってしまうのだろうか。しかし、それは言うなれば入学試験を受ける前日のような気持ちだった。希望へ進むための障壁。私は全てを受け入れ、覚悟を決めていた。今までに何十万、何百万の人々が同じように受け入れてきた事だ。今更、何を恐れる必要があるだろうか。そうだ、何も恐れる必要はない。
カツン、カツン。鉄格子の外から、今度は足音が聞こえてくる。
私は全身の全てを軋むベッドへと預けて、今までの事を振り返ってみる。ここまでたどり着くために、私がどれだけ苦労を重ねてきたことか。
いま振り返ってみても、私は幼少時代普通の家庭で育ったし、学生時代も普通の学校生活を送っていたと思う。しかし、私が普通だと思っていた事は、周りから見れば普通ではなかったのかもしれない。私は人間関係というものがひたすらに煩わしかった。人と話すのが嫌いだったし、時には他人を見ることすらも嫌になる事があった。これは誰とも関わらず作品作りに没頭していた父を見て育ってきた影響かもしれない。
私の家は裕福であった。父は若い頃から有名な彫刻家であり、家政婦として雇っていた母と結婚した。父は寡黙で人と関わらず、淡々と自分の作品を作る男であった。永らく彫刻の道に生きてきたため、父の手は傷だらけで、ゴツゴツしていた。その上、父はいつも眉間に皺を寄せて人を寄せ付けぬ人相をしていたので、近所では良い噂が立たなかった。私はそんな父の事が心底嫌いだった。母はもともと父の家政婦だったので、父に対して強く何かをいう事がなかった。とにかく優しい人であったが、常に父を立てようとする母の態度が私には気にくわなかった。
学校で周りの生徒達は私の事を笑いの的にした。それもそのはずである。彼らは幼稚なのだ。だからどこかに遊ぶためのおもちゃが必要であった。それであまり喋らない私がその標的になった。私は別に幼稚な彼らに何と言われようと気にした事はなかった。私は彼らよりもずっと勉強が出来た。彼らが幼稚な遊びに興じている時に、私は独り勉強に没頭した。しかし、今思うとそんな勉強も特に意味がなかったかもしれない。そこで得た知識など特に使いどころのないものなのだ。私はただ、他者と関わるのが億劫だったから、彼らを避ける口実を探していただけなのだ。
だが、私が高等学校に入るとそんな事も言っていられなくなってしまった。私の周りの人間は幼稚な遊びから一転して、男女間の恋情に興じるようになった。誰と誰が恋仲だとか、学年のマドンナが誰と学校内で行為に及んだとか、ある事ない事噂が出回った。そして、美しい女性を手に入れるのは決まって私よりも学問が出来て、力も強くて、権力も持っている者であった。それもおかしな事に、彼らは表面上、私が幼稚だと思ってきた人間とさして変わらないのだ。教室内で馬鹿騒ぎをして、さも公共の場が自分達のために用意されたものでもあるかのように振る舞う。それにもかかわらず、彼らは私よりも学問が出来て、力も強くて、権力をもち、その上女を手に入れた。
私には一人想い慕う人がいた。それは高等学校に上がる以前から長い年月私が想いを寄せていた女性であった。茶色がかった長い髪と、グレーの綺麗な瞳がとてもキュートな女性であった。しかし、彼女は高等学校二年生の夏にとある男と恋仲になった。よりにもよって女癖が悪いと噂のラグビークラブに所属する男だった。それから私は彼女と話す事もなくなった。どうでもいい男の女になった人の事など、もう興味がなかった。しかし、それは嘘であった。実際は彼女を見ると心が痛んだ。私の方から彼女を避けるようになったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます