8:嬉し恥ずかし義母との一夜

「さ、さーて――落ち着いたところで――イダケン、笑わさないでね、今は!」

「いやあ、そういうつもりはなくてですね……」

 美子は、歯を食いしばって手を振り回した。まださっきの笑いの余韻が残っているらしい。森下先生の方もなるべく見ないようにしている。村篠さんが溜息をついた。

「ったく、ゆるゆるだな。で、心当たりがあるんだろ? 言えって」


 美子は両手で自分の頬を張ると背筋を伸ばして天井を見上げた。

「ええっとね、候補は幾つかあるんだけど、恐らくは『邪眼じゃがん』かなあ、と」

 おばちゃんが、ふーんと腕を組む。

「邪眼? まあ、進行形の呪術じゃないけどもぉ、それにしちゃ症状が中途半端じゃなぃ? 何かに障ったんじゃないのぉ? どっかの業者が何か掘り出してぇ、そこを偶々通ったとかぁ」

 美子はパチンと指を鳴らした。

「おばちゃんナイスね! 多分、被害者全員が同じ場所を通ったってのはあるかも。この後、話せる患者に会えば色々確定すると思うけども、注目すべき点は全員午前中に倒れて、症状が同じって所よ」

 おばちゃんはカルテを取り上げる。

「むむぅ、同時に倒れてる、か……障りはそこまで精度が高くないって言いたいのねぇ」

 俺は村篠さんに小声で聞く。

「邪眼って何ですか?」

「俺に聞くなよって言いたいところだが、マドモアゼルから聞いたことはある」

 おお、と俺の感心する声に、美子とおばちゃんは説明どうぞとゼスチュアをした。村篠さんはめんどくせぇことになったと一瞬表情を曇らせたが、すぐに喋り出した。


「邪眼とか邪視ってのは、こう相手を見つめて呪うアレだな。有名どころだとメドゥーサとかバジリスクとか」

「ああ、見られると石になるアレっすか?」

 美子が後を引き継ぐ。

「それね。邪眼に邪視、魔眼と呼び方は様々だけども、要は魔力だったり霊力だったりを放射できる目の総称ね。見ただけで人を殺したり、病気にさせたり、不幸のどん底に落としたりと中々におっかないやつなのよ。

 これが使えるのは生きていて目を持ってれば何でもってね」

「へえ……じゃあ、魚や虫とかも使えるのか?」

 美子はニヤリとする。

「いいトコつくわね。そういう依頼があって調査に行ったことがあるけど――」

「ほう?」

「残念ながら確認できなかったわね~。

 ほら、人がよく溺れる池とかあるでしょ? 水難事故が相次ぐ池の調査で、『くらっときて水に引きずり込まれる』って証言があってね。で、調べると溺死体が短期間で結構損壊してて、どうも何かに食われたらしいと判ったの。

 ということは、そういう能力持ちの生物がいるんじゃないかと予想したわけ」

「ほうほう! ……で?」

「多分こいつだなって死体は見つけたわ。でっかい鯉だったわ。目から強力な魔力の残滓を感じたわよ。以降、その池では水難事故がぱったり途絶えたわね」

「え? なんで死んだのそれ? もしや爆発物を投げ込んで――」

 違う違うと美子は手を振った。

「そいつも食い殺されてたの。ムラシーは他のでっかい魚を見たって言ってたわ。ま、死体の写真は撮ったからUMA好きのあんたには後で見せたげる。ほんとは魚拓をとりたかったんだけどねえ!」

「あれはガーかパイクだろうな。五メートルはあったと思うぞ」

 村篠さんの呟きに、そりゃでかい! と俺は驚く。

「いやはや、化け物には化け物かあ……ん? その鯉ってガーだかパイクだかに邪眼は使わなかったのかな?」

「さあね。でも人を溺れさす以外には使えなかったのかもよ。邪眼ってのは意図的に使える奴もいれば、無意識で使う奴もいるの。多分あの鯉は餌に困って使ったんじゃないかな?」

「ああ、でかすぎたのか、それとも餌を食いつくしちゃったか……で、そのガーは?」

「知らね。あたしらの領分じゃないしね。一応、釣りやってるチャンネルの連中には教えといたわよ。信じてないみたいだったけどね」

「ええ~、それもUMAじゃん。取材しようよ……」

「いや、めっちゃ残念な顔して……あんたホントにUMA好きなのね」

「あ、いや、まあ……じゃあ、今回の事件はそういう眼を持ってる何かが、その――」

 おばちゃんが重々しく頷く。

「仮に邪眼だとするならば、それを持ってる人か獣がそこら辺に潜伏しているってことになるわね」

「まだまだ被害が増える可能性ありってことだな」

 村篠さんが低い冷静な声で言った。


「どうも~。ちょっと失礼しますねえ」

 看護婦の恰好をした美子がベッドの傍らに椅子をもってくると腰かけた。片言で喋れる中年の女性で、名前は内野やい子。森下先生の話では会社員で、午前中に出勤先で倒れたとのことだった。最初は昏睡状態だったが、今は意識がある。だが、全身が強張ったような状態でベッドの上で苦しそうに呻いていた。

 ああ、と俺は腑に落ちた。メデューサに睨まれて石になるってのは、こういうことなんだろう。

 美子は額に手を当てると、彼女の顔を覗き込み優しく頬を撫で始める。やがて、やい子さんは目を閉じた。

 美子は続いて額に手を当てると目を瞑り、ややあって小さく、よしっと言った。

「大丈夫みたいね。じゃあイダケンおっぱじめるから、ビビって途中で逃げないでよ。あたしとおばちゃんの霊視はボンヤリとした事しか判らないんだからね? 邪眼がぶっ放された場所がすぐにわかんのはあんただけなんだからね!」

「お、おう! でも、俺だって細かく判るかは――」

「あたしよりは間違いなくやれるから!」

 言い切られてしまっては仕方ない。俺は打ち合わせ通り、やい子さんの左の人差し指を握った。

「準備いい?」

「正直よく判らん。指を離さない以外に何か注意事項ある?」

「いや、特にない。なんつっても記憶越しに邪眼に接するわけだから命に別状はない。とはいえ、彼女の魂が食らった衝撃は感じると思うわ」

「しょ、衝撃ぃ!? 大丈夫なのか!!?」

 美子が舌打ちした。

「おいおいおい、この期に及んでビビったかぁ!? イダケンよぉ!」

「違わい! 痛いってんなら心構えがしてぇんだよ!」

「痛くはないはずよ。記憶に痛みが残るぐらいの邪眼なら、食らった瞬間に死んでるって」

「そういうもんなのか?」

「いい? とにかく場所が特定できるものを見るのよ!? 電柱の住所版とか自販機とか、特徴のある屋根とか建物とか!」

「お、おう! ま、任せとけよ! ……多分いける、と思う」


 美子は立ち上がって拳を振り上げた。

「多分じゃねえだろ! 気合い入れろって! イダケンやれんのか!? やれんのかホントにお前!?」

 俺も負けずに立ち上がって拳を振り上げる。

「やりますよ! やりますよ!! できらぁ!!!」


 ふと見ると、やい子さんが吃驚したような目で俺達を見ていた。ちなみに村篠さんは森下先生の許可を得て、やい子さんの顔を写さないという条件で録画を許可してくれていたりする。俺と美子は揃ってすいませんと頭を下げた。

 美子は俺に耳打ちする。ちょっとだけ良い匂いがした。

「邪眼ってのは大きく分けると二種類あるわ。術者と目を合わせて発動するタイプと目を合わせなくても発動するタイプね。ここまで大量だと、目を合わせないタイプだって推測してるんだけど――」

「おいおいおい、それってとんでもなくヤバいんじゃ――」

「だから、あたしもおばちゃんも焦ってるのよ」


 美子は座り直すと、えへんと咳払いをした。

「……さて、やい子さん、朝は何時に起きましたか?」

「あ、あさ――は――」

 思ったよりも喋り辛そうだ。

「あ、もう喋らなくても良いですよ。思い出すだけでいいです。ゆっくりと思い出してください。朝は何時に起きましたか……」

 繰り返される小さな囁き。催眠術みたいなものか。俺は指を握った手に力を入れた。


 不意に視界がおかしくなっているのに気が付いた。


 目の前にある病室と、どこか――彼女の自宅か? 洗い物をしている。食器から水滴が滴り、火にかけられた薬缶が勢いよく音を立てている。時刻は――壁に掛けられた時計は七時十五分――それが混ざり合い、トリックアートのように蠢いている。

「七時十五分っ――」

 俺の口から勝手に声が漏れる。美子がちらりとこちらを見た気がした。囁きが続く。

「娘さんと旦那さんを送り出して、あなたも出勤しましたね。時刻は七時十五分。それで?」

「着替え――飼い猫に行ってくるわよ、と挨拶。猫が心配そうな顔――」

 俺は体を震わしながら喋り続ける。美子が喋らせているのか、それとも流れ込んでくる色々な物に反発して勝手に口が動いているのか、俺以外の記憶は一刻も早く外に出したいという本能か、ああ、考えてた事まで流れ込んで――

「今日のお昼はおうどんにしようそれにしても日差しが強いわ体重が気になるけどやっぱり自転車に――

 熱っ!!?」


 焼けつくような何かが頭の中に刺さった。

 指先を火傷したような感覚が頭の中で二つ炸裂して、体が跳ね上がる。途端に脚の感覚が無くなり――


「イダケン!」

 ――肩を掴まれた。村篠さんの声。

 俺の頭は床すれすれだった。椅子から崩れ落ちたらしい。美子がさっとしゃがみ込んで俺の額に手を当てた。

「……よし、イダケン本人ね。平気? 喋れる? 動ける?」

「い、いや平気だけども、今、何気に恐い事言わなかったか?」

 美子は口をへの字にして肩を竦めてみせた。

「いやあ邪眼じゃなくて、邪霊が分霊してました、なんてオチだと最悪憑依されちゃったりするからねぇ」

「うおおおおぃ!?」

「冗談よ。ちゃんと確認してからやったでしょ?」

 ああ、最初の額に手を当てたやつか。

「で、どうよ? 邪眼食らった時に何かが見えたはずよ。特徴のある建物とか風景とか住所板とか――」

 俺は何度も頷いた。

「み、見た!」

「よし! で、特徴は!?」

「ええっと……『嬉し恥ずかし義母との一夜』……」

 美子が、はい? という顔をする。だが村篠さんはすぐさまタブレットで地図ソフトを立ち上げ、ディスプレイの一点を指差した。

「この一帯でエロDVDを売ってるのはここだけだ」

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