ダブル・フェイス
藍 - Lan
第1話 トラブル・シューター
この国では「お手伝いしますよ」などと迂闊に言ってはいけないようだ。
津野直人はゲンナリしながら、時差ボケでショボショボしてきた瞳をしばたかせ、電話をかけるべくヘッドセットを掴んだ。
パリ赴任初日、真新しいラップトップへのセットアップも概ね終え、全員とはいかないが簡単に関連部署への挨拶も終えた。馴染みのないカタカナの名前…というかアルファベットの名前は覚えにくくて、挨拶するたびにスマホに打ち込んだ名前を顔を思い出しながら反芻した。
欧米のオフィスといえば、パーテーションのある個人ブースっぽいのかと思っていたら、意外にも日本と同じようなオープンスペースのフロアが広がっていて、そういえば出張で行ったことのあるロンドンもデンバーもそうだったなと思い出す。映画の見過ぎかもしれない。ただスタッフに関しては、黄色人種は自分を含めて二人しかいないし、やたらデニム率が高く服装がラフだ。津野が勤める通信会社JD&Dの大手町にある本社では、スタッフ部門やエンジニアはともかく、営業部員は全員スーツだったから、そのあたありはずいぶん違う。
とにかく、まだパリオフィスでの勝手は全く分かっていないし、アウェイ感ヒシヒシと感じるが、まあこんなものだろう。前日の午後に到着したばかりだから時差ボケで辛くなってきたし、最初の一週間ぐらいは定時退社でも許されるだろうと、鞄を持って立ち上がった。
「あ、ちょっと、…ナオタ…あれ、ナオト…だっけ」
出口に向かっている途中で呼び止められた。午前中に挨拶した…、同じ営業のシマにいた同年代と思しき営業部員と自分の上司になる部長のエリック。それにもう一人は知らない顔だ。
「はい、ナオトです。で、なんでしょう」
津野は無難な笑顔で立ち止まる。
「東京で、グローバル事業部にいたんだよな」
「ええ、そうですけど」
そう応えると、話しかけてきたガタイのいい営業部員は部長になにやらフラ語で言っている。そういえば、先ほどからなんだか難しい顔をして三人で腕組みしたりディスプレイ覗き込んだりして侃々諤々していたなと、他人事だから全然気にもしていなかったけれど。
初っぱなから悪い印象をあたえるのはあよくないので、笑顔で「なにかお手つだできることがあれば伺いますよ」と言ってみた。…そして今に至る。
古い表現でいえばロマンスグレーにメタルフレームのいかにもインテリっぽい部長は、これ幸いとばかりにトラブルを丸投げしてきた。そして、今、津野はヘッドセット越しに、地球の反対側にいるメキシコ人にクレームをつけている。
「なんで今までそっちに連絡いってないんだよ、アルベルト、聞いてんのか」
呆れた感情を抑えようとして声が低くなるのが分かった。なんでいきなり自分のクライアントでもない案件のトラブル対応に巻き込まれるんだ。眉間に皺を寄せたところで、一体誰に愚痴っていいのかすらわからない。
「久しぶりに電話してきたとおもったら、なんだよ」
ラテンアメリカ地区、社内ではLATAMと呼ばれる地域の現地通信キャリア・コントロールのキーマンであるメキシコ人のアルベルトは、とりあえずパリから時差が激しすぎて直接話せる時間は短いのだが、運よく出勤したばかりの時間のようで捕まった。
「とにかく、オーダー番号と回線番号、お客の現地担当者の連絡先くれる?」
トラブルを起こしておきながら、悪びれる様子のまるでないラテン人に呆れる。
「はぁ?もしかしてそんなことも現地ではまだ押さえてないのか?」
「知らないよ。今朝きたら、そっちのエリックって部長からの怒りのメールが、客のクレームと一緒に送られてきて知ったんだから。まだ三十分もたってないから中身もわかってねー」
パリ支店が小麦系製造メーカーのフランス企業「ミル」のグローバルネットワークを受注したというのは聞いていた。続々と回線開通が進んでいるところらしいが、そのうちのひとつがアルゼンチンのロザリオにある生産拠点で、支払い絡みのトラブルで、足回りの回線が二日後に切られるという。回線は二本引いているらしいから一本切れても致命傷ではないが、回線は一度契約的に切れると復活させるのに手間も時間もかかる。重要拠点の回線が一本で何日もというのはかなり危ないので、なんとか避けたいのが本音だ。
担当営業のフランクが津野の隣で同じTEAMSの電話に参加して様子を伺っている。そう伺っている。伺ってるだけかよ!
「フランク、今の聞いてた?早く」
「早くってなにを?」
津野はゲンナリする。
「オーダー番号と回線番号、お客の現地担当者の連絡先」
フランクは青い目を見開いて当然のように言った。
「んなの、営業の俺が知るかよ」
短髪で筋肉隆々なおマエ、ちったぁ小さくなるとか、そういう態度はないのか…。イラついてきた津野に悪びれもせず、「PMに聞いてみるわ」とマウスをちょこちょこっとクリックしている。PMとはプロジェクト・マネージャーのことだが、「もう今日は帰ってるな」とぼやいた。
「じゃあSMは?」
SMはサービス・マネージャーだから、担当顧客の既存回線についての情報は持っているはずだ。すると、「あ、それ俺だけど」と侃々諤々の輪にいたやたら濃い顔のスタッフが手を挙げた。
「え、キミ、…SMなのに分かんないの?」
三人で顔を見合わせている。
「いや、俺、まだ引き継いだばっかで、JD&D側のオペレーション、慣れてないんだよね。回線番号ぐらいは分かる…かな」
唖然とする。確かに吸収合併で組み込まれたスタッフならJD&Dのプロセスに馴染みのないのはわかるが、プロとして「慣れてない」で済むのか…?
「じゃ、オペレーションセンターは?」
「ヨーロッパの大陸側は17時に閉まってるし、…時差が一時間あるUKは…」スマホの時計を見る。十八時を過ぎていた。「タッチで閉まっちゃったね」
津野はもう何度目か分からないため息をつく。最悪のタイミングだ。
「もういい」
津野が東京にいるときは、全世界の顧客の回線情報にアクセスできた。でも真新しいラップトップにはまだブックマークで社内システムも入っていないし、組織もメアドも変わったからID申請からやらないといけない状態だ。東京の同僚に頼めば分かるだろうが、日本は今…夜中の2時だから、さすがにそれはない。
デスクに肘をついてマウスをカツカツと人差し指で叩きながら考える。
(あ…、そうだ、あいつがいるじゃないか)
津野は立ち会って、フロアを見回し、相澤遼を探した。
その日の朝、初めて…言葉を交わした唯一の日本人の同僚だ。
****
パリのビジネス地区ラ・デファンスにあるオフィス。通信大手のJD&Dに新卒で入社して八年目の津野の異動の辞令がでてから、出発までたったの二週間という慌ただしさだった。十年前にデュッセルドルフに赴任していたという東京の上司は、津野に異動を告げた時「お前は独身だから身軽だろ。総務の担当者が懇切丁寧に身の回りの世話はしてくれるから楽勝だって」と言ったが、そんな時代はもう今は昔だ。やってくれるのは就労ビザの取得ぐらいで、当面のウィークリーマンションも自己手配だったし、家探しも自分で探せと言われた。
「デスクは今週はそこあけておいたから使って。その後はウェブで自分で予約して適当に予約できるから。ま、営業系はだいたいこの階にいるみたいだけど」
「はい」
「ラップトップとスマホは…ちょっとまって…」
四十代の、少し額が後退しはじめた金髪のオフィス・マネージャーは、フロア奥に座っていた若い男性社員に手をあげて合図する。少しアラブっぽい血が混ざったような浅黒い青年は、ふと津野に視線を向け、納得したように立ち上がると、近づいてきた。
「彼がナオト・ツノ。設備とか各種システム系のIDとか頼んでたよね。よろしくね」
「了解~っす」
彼はそう応えると、人懐こそうな瞳を津野に向けて「ハジメマシテ」とニパっと割って日本語でぎこちなく言って手を差し出した。
「えーと…、日本人…って聞いてたけど」
「え、はぁ…。純正日本人ですけど」
確かに津野はハーフとかクウォーターとかに間違えられることは多い。それも中東系の。背が高いとか堀が深いとか、そういうことなのだろうが、曽祖父の代までさかのぼっても全員日本人だ。
「そっか、ごめんごめん。俺、シリル。ここのITサポート担当。ラップトップとかもう設定はバッチリ済ませてあるから持ってくる。スマホはパリ支店じゃ一番乗りの最新モデルだよーん。嬉しいだろ?ちょっとまってて」
若い…というかテンションの高さに呆気にとられたが、とりあえず「わかった。ありがとう」と、津野は彼の手を握って、礼を言った。
シリルが出て行ってから、オフィスマネージャーに入館のカードキーをもらい、オフィスのセキュリティルールなどを教えられ、「じゃ、私はこれで」と彼は申し訳程度にニコリとはして他のフロアに行ってしまった。あまりのアッサリで、まあ特に歓迎されているわけではないのだろうというのは分かった。三百人の所帯はフランスまたは移民系のスタッフで回っていて、親会社からの駐在員など小姑のようなものだ。それでも三十になったばかりの津野が大した役付きでもないものだから、ホッとしたというか、閑職でおとなしくしていてくれればいいとでも思っているのかもしれない。
周りのスタッフの紹介というのはしてもらえないのかな…とは思ったけれど、とにかく一度デスクについて、鞄を置いた。なにしろパソコンがないことには何も始まらないし、ひとりでオフィスをふらつくのもどうかと、手持無沙汰に周りを見回す。
隣のシマ、こちらに背を向けて座っている日本人らしき男に目を留める。
(あ…)
津野は立ち上がり、背後から近寄った。
おそらく顧客の回線使用のパフォーマンスを見ているのだろう、画面に映し出された心電図のような折れ線グラフを覗き込んでいる。左耳のあたり、茶がかったくせ毛がはねていた。
「あの…、相澤くん…ですよね」
津野が声をかけると、ピクッとしてから顔を上げて、鼈甲のボストン眼鏡ごしにパチクリと瞬きした。
「え…と、あ、はい」
「俺、今日から赴任してきた津野です。聞いてません…でした?」
顔は津野のほうに向けているが、まだパソコンのデータが頭から出て行かないのか、しばらく考えるような目をしていたが、シュッと瞳に焦点があうと、ハッとしてからワタワタというかんじに椅子をぎこちなく回して津野の正面に身体を向け、「あ、聞いて…ました。すみません」と小さな声で謝った。
「え?いえ、そんな謝られるようなことじゃ」
小さくなっていないといけないのは、ここでは新入りの津野のほうなのに、なんだか可笑しくなってきた。
「お取込み中でしたか?」
「あ、いえ。午後にレポートだせばいいんで」
「じゃ、ここ、コーヒーマシンとかあるんですかね。そのあたり教えていただけません?」
相澤は「そ、そうですよね」とパソコンをログオフし、頭を掻きながらぴょこんと立ち上がった。
オフィスにはミル内臓のコーヒーの自販機があり、それは飲み放題だった。そこに楕円のスタンディング・テーブルがあり、そこで相澤とカプチーノを啜る。おとなしそうな男で、同じ支店に同じ国の人間がきたらもう少し嬉しいだろうと思うのに、そういうものが微塵も感じられないのが、なんだか寂しいような可笑しいような。
相澤は津野の二期下で、さすがにJD&Dは大所帯だから同期でも知らない顔がいるぐらいだから、入社年次が違えば仕事で絡みでもないかぎり知らない。
「相澤くんって、現状たった一人の駐在員ですよね」
「ええ、まあ。でも、ヨーロピアンHQのUK以外はどこもそんな感じというか」
「確かにね。で、相澤くんは、どういう仕事してるの」
「僕は…プレセールスのエンジニア…、ですけど。えと…津野さんは?」
「あ、ごめん。人に聞く前に自己紹介しろよってかんじだよな、悪い」
津野がそう笑うと、相澤はプルプルと顔を左右に振った。
「いえいえ、津野さんのことは知ってます」
まあ、大手町の本社にいた人間なら不自然ではない。多分見た目がハデで多少は目立つのだろうし、第四営業部に移ってから二年目で、日本での受注は不可能と言われていた外資系金融のグローバル回線とL2回線の仕事を立て続けに二件とり本部長賞で表彰された。二十代で表彰を受けるのはかなり稀なことらしい。だから相澤が津野を知っていても驚くようなことではないけれど。
「げ、なんか、…俺、変な目だちかたしてないといいけど」
「へ?…あ、いや…」
相澤はきょとんとして、目を少しパチパチさせてから少し俯いてクスッと笑った。
「えっと、HBC銀行に回線入れた時、うちの部長に物申してくれたな…って」
(え…?)
「二年ちょっと前、俺らがいれたネットワークのハブ拠点でパケットロスがひどくて、上司にめっちゃ暴言吐かれてたとき、『その設計はクライアントが提案したスペックの機器をリジェクトして安価なブーストライセンスで済ませようとしたからです』って反論してくれたでしょ」
津野はぼんやりと思い出す。そんなこともあったかもしれない。確かクライアントがリスクを承知で安く済ませることを受けるにあたり、法務の確認した責任回避の文言を注文書に記載していたから、当然の反論だと思うが。
「う…ん、そんなことあったかもしれないけど…。でもまあ当たり前のことだし」
「でもさ、営業の人って、売るためにホイホイ顧客の言いなりになるのに、その後のトラブルになると知らんぷりーって人多いからさ。なんか津野さん、すげーって」
そうはにかむように言うと、両手に持っていたコーヒーを啜り「あつっ!」と火傷しそうになっている。
津野は面食らって、まじまじと相澤の顔をみてしまう。
容姿と成績以外のことで、しかも、そんな些細なことで目に留めてもらった経験は今までになかった。
ただオドオドしている地味な男だという印象だったが、どちらかというと小動物のような、…動きがどこかピョコピョコというかんじで、コーヒーカップを両手で持ってフーフーと冷ましている姿が、ドングリを齧るリスとかクルミを抱えたアライグマとかに見えてくる。
そんな津野の内心の小さな動揺に気づくこともなく、相澤は言葉を続ける。
「…えと、パリにはどういうミッションできたの、かな?こんな中途半端な時期に…十月末の異動なんて聞いたことないっていうか」
ちょっと不意を突かれていたところに、核心をつく単語を二つも連発され、言葉に詰まる。
「…え…と、まあ、うん、営業。フランスに欧州本部とか生産拠点置いてるような日系企業の」
「そっか。そうですよね。でも厳しいとこ、やらされるんですね」
日系の多国籍に展開する企業の場合、国際回線は日本の本社IT部に決定権があるか、または現地で独立採算していて、そちらのほうが大きくなっている企業だと、「日本ではない」ものを採用したがるため、日系通信会社のJD&Dは避けられる傾向にあるから。そこに入り込むのは、難易度が高いのだ。
とにかくウソではないし、相澤が納得したようなので、津野は話題を変える。
「で、あのさ、時間あったら、ちょっとオフィス案内してもらえないかな?ぜんぜん勝手が分からなくてさ。あと、フロアにいる人、ちょろっと紹介とかしてもらえるとありがたい」
相澤はポケットからスマホをだして時間をチラ見し、申し訳なさそうに応えた。
「あ、はい。でも、あと三十分ぐらいで打ち合わせはいるから、あんまゆっくりできないんだけど、…実は俺も…あんま名前と顔一致してない人多いし」
すぐに必要になりそうな経理スタッフと人事部のシマを紹介してもらい、それからアクセスカードにプリペイドで振り込みするスタンド。カフェテリアの使い方や、駐車場で社用車を案内してくれる。外回りに使う社用車はプリウスなのに、その周りにやたらとテスラのモデルXやSがズラリと並んでいて圧倒された。
相澤は、地味でおとなしそうな線の細い平均的な身長の男で、…それなのに、ほんの少しの立ち話で、二度も不意打ちをかけてきた。本人は無自覚なんだろうが。あれが意図的に投げられた質問だとすると、ちょっとコワいけれど。
****
朝、最初に声をかけた時と全く同じ姿勢で、相澤はディスプレイを見ていた。午後も何度か視線を向けたが、相澤は置物の様にそこにいた。定点観測のカメラで写していても、ブレのひとつもない写真が続きそうなほどに。モニター脇に置かれたコーヒーカップの位置すら同じだろう。たとえコーヒーの量に増減があっても。
「相澤、ちょっと、いい?」
夕方の六時を過ぎるとオフィスは閑散としてくる。日本では考えられない上がりの早さだ。それでもさすがにミル担当営業の責任感はあるらしく、フランクは残っている。部長は知らない間にいなくなっていたが。
相澤はゆっくりと振り返ったが、キーボードをタイプする指は止まらないし、瞳はモニターに釘づけられたままだ。コマンドを打ち終えるとやっと瞳を津野に向けた。
「はい」
「ちょっと、助けてくれない」
相澤は上目遣いにじっと津野を見ていたが、コクリと頷いたので、津野は手に持っていたラップトップをデスクに置き、空いている椅子を隣に引き寄せた。
「ミルって知ってるだろ。あそこのアルゼンチン工場で回線断になりそうだっていう話なんだけど」
「あー、なんかさっきエリックとフランクたちがワーワー言ってたやつ。立ち話してるのを小耳にはさんだだけだから詳細は知らないけど。回線が落ちるとかって。やっとここ二、三カ月で回線も開通してきたのに、もうトラブルじゃ結構ヤバイですよね」
相澤は「結構ヤバイ」というセリフをのほほんと言う。というか、…相澤はフランス語が分かると言うことか。
「相澤って、フラ語できるんだ」
津野が目を瞠ると、相澤はいたずらを見つかった子供の用に「しまった…」という顔をして「いや…、もう一年ちょっといるし…。端々拾えるかんじで、喋れるわけじゃないですよ」と悪いことをしているようにボソボソと言った。
「で、何すればいいんでしょ?」
アルゼンチンのロザリオ工場のトップから怒りのメールがパリの営業部長に今朝届いた。
JD&Dは日本なら宗谷岬から宮古島まで端々まで自前回線を網羅しているが、日本の外でどこにでも回線を持っているわけではない。各国の主要都市を結ぶ基幹線や海底ケーブルなどはあっても、そのPOP(Nodeと呼ぶ人もいるが)までの地域ごとのローカル回線は地元の回線業者のものを調達して再販することになる。それはJD&Dだけでなく、世界中の通信キャリアがやっていることだ。その通信キャリアがさらに下請けにつかっている回線業者が、支払いがないから回線を切る手配に入っているらしい。
「ミルのアルゼンチンにあるサイトの回線番号と、アクセスキャリア分かる?」
「うん。って…津野さんでも見えるんじゃないんですか?」
フランクやサービス・マネージャーが全く使えないと分かった時、自分で調べようと津野はもちろん思った。思ったのだが。
「俺、初日だろ。パソコン新しくなっただけじゃなくて、IDとかも変わるらしくて。アクセス申請からしなきゃいけないし。で、東京にいた時のIDでアクセスしてみたんだけど、全部もう切られてんのな。はやっ!ってかんじだよ、もう」
フフッと相澤が肩で笑う。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
そう言いながら、相澤は目の前にある二つの21インチモニターに次々と社内システムを開け、あっという間にミルの顧客IDを引き出し、設備管理系のポータルからものの数秒でロザリオ工場の回線情報を引き出していた。
「回線IDと、アクセスキャリア名...と。オーダー番号?」
「ああ、そうだな」
「あれ、これ…珍しい」
ブツブツと呟いている。
「メイン回線とバックアップ回線でキャリアのダイバーシティー取ってるけど、エンドテイルは同じ…なんだこれ、…産業開発区…ああ、プラントなんだ。どおりで」
ふんふんとひとり頷いて、モニターを少し津野に向けた。
「この拠点、工場なんだね。テレフォニカがメイン回線。アルゼンチンコムがバックアップ回線なんだけど。あ、これ回線番号」
津野のTEAMSのチャットにポンポンと番号をコピペして送ってくる。
つまり、冗長化をもたせために、つまり一本の回線がトラブルで落ちても、もう一本が生きていれば、それで完全に通信断になることはないので、重要拠点に二本の回線を敷設するのはよくあることだ。今回はテレフォニカとアルゼンチンコムで引いているということだ。
「でも、ロザリオの工場長からのクレームメール読んでいると、回線廃止通達送ってきたのって、この産業開発区の管理会社なんだよ。ってことはテレフォニカかアルゼンチンコムがこの管理会社の配線を使ってたってことなんだよな、きっと」
津野がメールを指さしながら言うと、相澤は「そのようだね」と言いながらまた違うシステムから今度はネットワーク設計図を引っ張りだしている。
「工業地区なんかだと、よくあるよね、そういうの。えっと…ここなんだけど。ほら」
相澤の示す図のなかにPMのコメントがあって、ロザリオ工場は産業開発区にあり、そのゾーンは独特の配線業者が仕切っていて、工場に到達する最後の100mほどの距離は全てロザリオ産業開発区が管理していた。つまりJD&Dからすると下請けの下請けになるとある。
「そっか、つまり、そのロザリオ産業開発区管理会社が、足回りの回線費用を、テレフォニカやアルゼンチンコムじゃなくて、ミル・ロザリオ工場に請求しちゃってたんだな」
ミル・ロザリオ工場は、回線費用は全てフランスの本社がJD&Dに払うと思っているから、その請求書をポイっと捨ててしまったのだ。督促状も。
「捨てる前に、一言聞いてくれりゃいいのに。『こんなんウチにきてますよー』って」
「まあ、そこも含めてコントロールできてないラテン・アメリカのOMがイケてないということだけどね」
相澤は淡々とそう言ってから、表情も変えずにとんでもないことをいう。
「でもこれ、二本とも同じ管理会社がやってるから、二本とも切れちゃうよ」
「 …二本、とも…。マジ?」
「うん、超マジ」
フル稼働している工場の回線が両方切れたら、生産がストップしてしまう。回線費用の返却どころか損害賠償にまで発展しかねない。津野は眩暈がしそうになり、デスクについた両肘にがっくりと頭を落とした。
とにかく全体像がようやく把握できて、津野は大急ぎでアルベルトにメールを書く。要求された情報を全てそろえて、現状がどのぐらいマズいかを説明し、賠償問題になったらアクセスキャリアに回すと脅すようにとも付け加える。
それから部長のエリックと営業のフランクをCCにいれ、それから…誰だっけあのサービスマネージャー…。
「ごめん、ミルのサービスマネージャーとプロマネ、名前分かる?」
パタパタとキーボードをタイプして、相澤はまたポンポンとチャットで二つのメールアドレスを送ってきた。
送られてきたメアドもCCに追加して送信ボタンをクリックすると同時にヘッドセットをつけて、さっきのアルベルトに電話を入れた。そして、万一切れてしまうという事態に備えて、テンポラリー回線を引けるように、そのオーダーの準備も並行で進めておくように指示をだした。
早く帰りたそうに、それでも一応おとなしく待っていた営業のフランクが、今しがた津野が送ったメールを読んでいる様子をみて、「ミルに報告のメールか電話いれとけよ」と声をかけた。
ぐったりして椅子にだらしなく座り込む。
時計を見ると七時半を過ぎていた。日本時間は午前四時前…。急に睡魔がどっと襲ってきた。
隣の相澤は、もう津野のことなど忘れたかのように、もともとやっていた画面をじっと見ながら自分の作業を続けていた。オフィスにはもう相澤と津野の二人だけになっていた。フランクもさっき「ナオト、サンキュ!」と軽―く言ってアッサリ帰ったし。
なるほど、この国では毎日がノー残業デーなんだな、と納得した。
「ほんと、助かったわ…っつーか、まだ明日の朝になってアルベルトの報告あるまでどうなるか分かんないけど。とにかく今日できることはやった。ありがとな」
相澤はモニターから視線をはずさないまま、軽くウンウンと頷いた。「無視してるわけじゃないからね」というゼスチャーだろうか。
「ほんとはお礼に夕食でも奢りたいとこだけど、…わりぃ、もぉ限界。今日は帰るわ」
相澤はまた同じようにモニターから視線をはずさないまま、軽くウンウンと頷いた。
ヨロヨロと立ち上がり、もう半分回っていない頭で、なんかコイツ、わけわかんねぇと思った。小動物のくせに必要な情報を必要なシステムやフォルダーから的確に瞬時に引き出してくる。しかも重要なポイントを突いてくる。しかも途中で使っていたのは日本の社員が使う、津野も一昨日まで使っていたアクセスポータルだった。つまり津野のIDは異動とともにバッサリ切らたのに、なぜか相澤はそれをキープしている、ということだ。
まあいい、また明日でも明後日でも、話す機会はいつでもあるだろう。
エレベータを降りてから、ここはいったいどこでタクシーを拾えるんだろうかと、ぼんやり考えて外に出る。目の前に新凱旋門と呼ばれる巨大な建造物がそびえ、ビル風が冷たく頬をなぞった。コートは引っ越しの航空便に載せてしまったから、二週間は届かないだろう。
スマホを出すと、午後に届いたラインに返事を忘れていたのを思い出した。
「初日はどうだった?」のメッセージに、お疲れさまと女の子が笑うスタンプが付いている。珠奈との関係は清算してきたつもりでいるのに、どう応えたものか。既読スルーも感じが悪い。
「まあ、こんなもんかな。マジ眠い」
そうレスを返し、津野は今日何度か目のため息をついた。
****
朝から何度このラインメッセージを見ただろう。
既読スルーされるかもと思っていたから、レスがあったのは嬉しかった。でもこの塩対応。オフィスでラップトップを立ち上げて、.frで終わる直人の新しいメアドからのメールに少し心が浮いたが、メールはただ新しい部署についたことを知らせる一斉メールだった。
入社二年目で配属になったプロダクト部で津野と仕事をすることがあった。二期上の津野直人は、スラリと上背があり少し中東っぽい彫の深いチャーミングな顔立ちで、そこにいるだけで華やかなのに、本人は派手さやチャラさが微塵もなく、仕事には驚くほど真面目で回転の早い行動力のある男だった。珠奈のドンピシャリのストライクゾーンだった。
それなのに、珠奈は初めて絡んだ仕事でミスをした。
中国政府の規制によるサービス提供可否のアップデート情報を見落として、提供できないプロダクトの見積もりや資料を津野に渡してしまったのだ。受注も目前と言う段階での間違い発覚に、上層部が罪人探し…というか責任をなすりつける言い争いを始めたところに、津野があっさりと謝罪し責任を取った。
「中国でG社のクラウドへの中国政府の方針でインターコネクトができないこと、どこかで聞いたような気がしていたのに、確認を怠った私のミスです」
それを津野はどうやら、本気で自分の確認不足と思っていたようで、珠奈に嫌味をいうことも、恩着せがましいことも一切ないままに。それから他の代替案を探すこと、クライアントへの謝罪、誰に愚痴ることもなくやってのけた。
それが決定打だった。もう他の男など目にも入らなくなった。
色々と面倒が多いから社内の人と付き合う気はないという直人に、三年もアタックし、「がぶりよった」とか「ターミネーター御園」などと周りから揶揄されたりもして、まあ、それは周囲の女への牽制の意味もあったのだけれど、やっとのことで付き合えるようになった。それなのに一年にも満たないのに、クリスマスすら一緒に過ごすことなく、今回の異動だ。
付いてきてくれと言われればキャリアを放っても迷いなくついて行く、
待っていてくれと言われれば、何年でも待つ、
そう思っていた珠奈に、直人はあっさりと言った。
「俺たち別れよう」
歩いていた裏原宿の細い歩道。頭が真っ白になって一瞬固まった珠奈は次の瞬間には、思い切り直人に平手打ちを食らわせていた。
「なめんじゃないわよっ」
はたかれて顔を斜めにうなだれたまま、直人は「やっぱ、オマエ、いいな…」と寂しそうに微笑んで「ごめんな」と謝った。直人にくるりと背を向けて、カッカッカとヒールの音を響かせて足早に逃げるように歩いたが、振り返るとそこに直人はもういなかった。
退社前に、珠奈は一日考えていたことを実行する。こと直人に関しては、自分でも笑ってしまうほどなり振りかまってないなと自嘲する。
TEAMS検索すればすぐに同期の名前はあがってきた。
Ryo Aizawaはグリーンランプが灯っている。パリは朝九時だからちょうど出社したところなんだろう。
「相澤くん、ご無沙汰です。元気にしてる?」
それだけ送り、すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干して反応を待つ。珠奈が今日は諦めようかとパソコンの電源を落とそうとしたとき、チャットに相手が何かをかきはじめたという反応があった。
「お久しぶりです。俺はまあ、フツウにしてます」
「ちょっと今、電話していい?」珠奈は間髪を入れずにレスする。
「え、今?」
「うん、今」
すると電話が掛かってきた。
「相澤くん、久しぶり~。ごめんね、出社したばっかだよね」
「おはようございます。…あ、と、そっちはもうおはようじゃないか。ご無沙汰してます」
「 … 」
「 … 」
相澤は同期で新人研修中に同じ班になったり、同じグローバル事業部に配属された後も、仕事で時々絡むことはあったが、何しろ静かで目立たないし、とくに親しくしたこともないので話題がない。
「 … え…と」相澤が戸惑っている。
「あ、急にごめんね。今日はお願があって連絡させてもらったんだ」
「なんかパリ支店の案件がらみ、なの?」
「そう!もうめっちゃめちゃパリ支店絡みっ」
「 … 」
「相澤くん、覚えてる?前にさ、まだラウンチ前の新サービス、提案に使いたいからスペック教えてって頼まれてコッソリ教えてあげたよね。あと、急ぎの決裁、こっそり上に最優先で回してくれるように工作してあげたこともあったよね」
「え、あ…うん」
一万キロの彼方で、小動物…そうアライグマっぽい、同期なのに弟のように見えてしまう彼がキョトンと戸惑っている姿が頭に浮かんだ。
「そのときさ、相澤くん言ったよね。なにか僕がサポートできることあったら、言ってくださいね、って」
「…そう、でしたっけ…ね」
「そっちに津野さんが着任したでしょ」
「え?あ、はい」
「監視してて」
「 … 」
そりゃ、ラスカルでなくも固まるよな…と珠奈は思ったが、とりあえず反応を待つ。
「…か…監視…ですか?」
「そう。監視して、それでへんな虫が付かないように牽制して」
「へ?」
結局、戸惑いまくった相澤は、ずっと監視なんて物理的にも時間的にもできないし、陰キャで女の子と話すのも苦手な自分ではスペック不足でそういうファンクションはないから、もっと上位機種の誰か他の人にお願いしたほうがいいと、なぜかIT用語でわけのわからない言い訳して引いてしまった。なので、様子を時々報告するということで妥協した。
(次の手を考えなくちゃ…)
珠奈は考え込みすぎて、その日も家の最寄り駅を乗り過ごした。
****
相澤が同期の女からの素っ頓狂な依頼にドン引きしている時、津野はLATAMアクセスキャリア・マネージャーのアルベルトからのメールを読んでいた。
産業開発区の管理会社とは連絡をとっていて、今日、打ち合わせが設定されている。そこで合意が取れた時に即、現状の回線廃止オーダーがストップできるように準備は整えていたということと、万一に備えた臨時VDSL回線が、オーダーして四日であげられるようにしたという報告だ。
すこしホッとする。
(…っていうか、なんで俺がホッとすんだよ。エリックとかフランクがホッとしろよ!)
そんなことを思いながらオフィスを見回すも、そのどちらもまだ出社している様子はなかった。危機感というか責任感というか、そういうものが希薄だ。本当に自分は日本ではない場所にいるのだなと痛感する。
ただの事務手続きの勘違いであることがわかれば会議が決裂するなどということはありえない。問題はたったの一日でオーダーを止められるか、とこだけだ。フライングで臨時回線の手配を進めてしまおうかと悩むところだが、なんとなく大丈夫な気がして、そこはもう一日待つことにした。
そして翌朝、アルベルトからのメールが届く。
「回線断オーダーはリジェクトされました」
フランクは「グッジョブ、ナオト」と立ち上がって親指を立てたし、エリックも一応メルシーと言ってきた。相澤に目を遣ると、そんな騒ぎが聞こえていないかのように、静かにいつもの姿勢でモニターに向かっていた。
「クスクス・ロワイヤル~♪おまたせぇ」
いかにも北アフリカっぽいウェイターが歌うように湯気の上がるプレートを持ってきて、二人掛けの小さなテーブルに所狭しと並べていく。
「うまそうだな」
「うん、ここ、けっこう美味しいよ」
勧められるがままに頼んだスペインの赤ワインをグラスに注いで、トラブルが回避されたことに乾杯をした。
サポートしてもらったお礼にと、津野が相澤に夕食を提案して、なにか温かい物が食べたいという津野のリクエストで、相澤がオフィスからメトロ乗り換えなしで行ける近場でリーズナブルで人気の店を案内してくれた。
外が寒いだけに、スープの温かさとスムールの柔らかな舌触りがなんとも心地よい。
「津野さんって、来たばっかりなのにクスクスとか知ってるんですね。俺、そういうの全然知らなくて、会社の人に時々連れて行かれて、やっといろんなもの覚えたってかんじですよ」
酒がはいって、美味しいものを食べている相澤は、不動の姿勢でモニターを見ているときの無表情が嘘のようにホワホワしている。酒も入ったからか、一緒に少し仕事したからか、津野に対する丁寧語が少し緩んでいる。少し距離が縮まった気がして、津野はほっこりする。
「だって東京ってなんでもあるしさ、なんか女の子たちってメッチャ詳しいだろ。それに付き合わされてたら、なんか、ね。覚えちゃうよね」
「はは、津野さんはそうだろうね。俺はそういうこと全然なかったから」
そう言いながらも、別に相澤がひがんでいるというようなところはまったくない。
「でもさ、ほんと今回は助かったよ。ありがとな」
空になったグラスにワインを注ぎながら、津野は改めて礼を言った。すると咀嚼していた羊肉をごくりと飲み込んで、アワアワと相澤は両手を顔の前で振る。それから少し俯いていたずらっ子のような瞳で津野を上目遣いに見た。
「津野さんって、…へたにカッコイイから損するよね」
そう小さな声で言ってフフフっと握りこぶしを口に当てて小さく笑った。
「え゛、…な、なんで?」
意外なことをいわれてワインが肺に入り、ゲホゲホと咳こんでしまった。
「だって…。俺だったら『僕の仕事じゃないですよね』とか『初日なので、まだ色々システム系が立ち上がってないんですよね』とか『営業なんでデリバリー系はあんまり…』とか言って引いちゃうかな…なんて」
(確かに…)
「しかも、さ。あのエリックだよ。ちょっとは痛い目に遭えばいいんだよ。あの後さ、メルに電話してたけど、やたら『私のアレンジで』とか『私が話をつけて』ってさも自分がやりました―的に話してたよ」
「かーっ!ったく、この店の請求、回したろうか、あのオッサンに、ったく」
「うん、とにかく、津野さん、ファンが多いのも分かるよ。今朝も同期にヘンな頼み事…、あ…いや」
「は?」
「いや、なんでもない」
なんか、褒められてるんだか貶されてるんだか分からないが、なんだかむず痒いし、言われっぱなしなのは癪に障るので言い返す。
「いや、相澤は違うだろ。相澤だって俺が困ってたの助けてくれたじゃん。上司はどうでも、クライアントに迷惑かかるのは困るって思ったからだろ。それって、状況はなんとなく分かってるけど、頼まれてもいないのにしゃしゃり出るっていうのはちょっと…ってとこかな」
そう津野が言うと、相澤はすこし居心地わるそうに唇を尖らせて視線をそらした。
まだパリオフィスのことはよくわからないし、東京で指示されたミッションもどこから始めていいのかわからないし、フランス人の勤務姿勢もなんだか微妙だ。でも相澤がいれば、なんとかなりそうな…、それになんだか楽しいような、そんな気分になってきたのは、まだ残る時差ぼけのせいなのか、ワインのせいなのか。
店を出ると霧雨が降っていて、そのせいでオレンジ色の街灯がソフトフィルターをかけれらたようにぼやんと滲んでいた。
****
à suivre 続く
ダブル・フェイス 藍 - Lan @LinlinLanlan
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