どこまでもいこう
チェシャ猫亭
第1話 帰宅拒否症
横断歩道を渡ろうとして、
手をつないでいた。
カップルなのかな。
視線に気づいたのか、二人はぱっと手を離した。
あ、そんなつもりじゃ。仲がいいな、と思っただけで。
申し訳ない気持ちで向こう側に渡り、右に折れた。二年ぶりに訪れる小料理屋「赤と黒」の看板が見えてきた。
秋の夕暮れ。仕事も早めに終わったし、たまには息抜きしたくて、自宅と逆方向の馴染みの店に寄りたくなったのだ。
「
ママの今日子が弾んだ声を上げた。目も口も大きい、元気なな店主だ。惣菜が山盛りの大皿が並ぶカウンターの向こうに懐かしい顔。義人は久々に心がなごんだ。給料日直前とあって店内は
「ほんと、ご無沙汰しちゃって。今の家、ここから三時間かかるからさ」
三時間と聞いて、京子は目を丸くした。本当は二時間半くらいだが、何故かおおげさなことを言ってしまった。
「遠いのねえ。奥さんとはうまくいってるの」
「それがさあ」
現実に引き戻されて、義人は情けない声になる。
「俺、もう帰りたくないよ」
義人は三十を目前にして、念願の結婚にこぎつけた。
相手は一つ年下で
葵の希望で、彼女の実家そばの賃貸に住むことになった。
子供の予定もないのに3LDKか。まあ、葵がそうしたいっていうんだし、このくらい都心から離れていれば、なんとか家賃を払える。
通勤時間が今までの三倍かかるのには目をつぶることにした。なにしろ新妻の希望なのだ。
よくあんな美人つかまえたな、と友人たちも羨ましがった。夜の営みは、ほんの数回しか許されなかったが。
料理は嫌いで、朝食はなし、夜もスーパーの惣菜ばかりが並ぶ。
「この頃は、半額シールのついた惣菜がパックのままテーブルに載ってんだ。俺は半額の価値しかない亭主かって情けなくなるよ」
はあーとため息をつき、ビールをあおる。
「スーパーの惣菜なんて、味は濃いし不経済よ。上ちゃん、うちで食べるようにしたら? でも遠すぎるよね」
今日子のお惣菜は、どれもこれも家庭の味だ。久々にまともな料理を口にした気がする。
「できたら俺もそうしたいよ。うまい、この煮っころがし」
里芋の煮物を、義人はうまそうに頬張った。
ガラガラと引き戸が開いた。
「いらっしゃいませえ」
俯いたまま、若い男が店に入ってきた。
「こんばんは」
暗い声で隣の丸椅子に腰を下ろす。
「礼くん、なんか顔色悪いよ」
ちらっと見ると、色白のイケメンだった。
「ママ。僕、またふられちゃったあ」
イケメンくんは、情けない声を出した。
また?
思わず横目で彼を見る。
こんな出来のいい顔で、そんなしょっちゅう振られるのか、俺ならともかく。
「帰りたくない、一人の部屋なんてヤだ」
青年が泣き出す。じろじろ見てはいかんと思いつつ、きれいな涙だなあ、と義人は見とれた。
「ハンカチ、ハンカチ」
今日子が義人に小声で言うが、ハンカチを持たせてくれるような嫁ではない。使いかけのポケットティッシュが出てきた時には、青年は自分のタオルハンカチで目の縁を抑えていた。なんとも品のあるしぐさだ。
俺だったら、ゴシゴシ手でこすっちゃうところだ。
同じ男でこうも違うか、と感心する。
「礼くんをふるなんて、見る目がないのよ。早く忘れなさい」
「うん、そうだよね。でも、やっぱり帰りたくない」
「一人の部屋は広すぎるよねえ」
狭かったはずの部屋でも、急に広く感じるのよね、一人にされると。と今日子はつぶやいた。
ちらっと義人を見て、
「礼くん。お隣さんも帰りたくないんだってよ。奇遇だねえ」
にやにやしながら今日子はつづけた。
「この人を泊めてあげたら?」
「ちょっ、ママ」
焦りまくる義人。
礼と呼ばれた青年は、じっと義人を見つめた。うるんだ大きな瞳。義人は動揺した。
なんで、なんで男に見つめられてドキッとするんだ?
「こちら、上村さんといって、二年前までウチの常連だったの。K物産にお勤めで、決して怪しい人じゃないから。結婚して遠くに越して、今日は久しぶりに来てくれたの」
「上村義人です、よろしく」
軽く一礼した。
「上ちゃん、こちらは礼くん、もう一年くらいかな。よく来てくれるの。A区役所にお勤めの公務員さんよ。部屋も近いんだよね」
「はい、ここから歩いて三分かかりません」
「いいですねえ。そんな近くに住んでたら、俺なら毎晩、ここに通ってママの手料理、いただいちゃうなあ」
「僕も、それに近いです。本当に今日子ママのお惣菜は最高です」
「ほめても、何も出ないわよ」
と言いつつ、今日子は満更でもなさそうだ。
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