第28話 矢野咲舞の歌声
一二月二五日土曜日。朝の駅周辺は、クリスマスムードに染まっている。田舎と言えど、流石にクリスマスの文化は浸透しており、街の雰囲気も景観もそれなりに騒がしい。南口を出てすぐの辺りに設置されている木々には、簡素ではあるもののイルミネーションが飾り付けられており、街灯なんかにもちょくちょく要素を感じる。
それとは対照的に、それは真っ黒と言っていいほど曇っている。大きく分厚い雲が全体を覆い、青空の見える隙間は、一つもない。
そんな中、俺は高校までの道を歩く。高校三年生ともなれば、年末年明けに何の番組を見るかで争っている場合ではない。何故なら大学入試最初の試練と言っても過言ではない、共通テストが待ち構えているからだ。そのため、本日は共通テスト直前演習などという名の忌々しい模試を受けなければならない。
しかし、俺の心の中に渦巻く憂鬱の原因は、そこら中に蠢くカップルへの逆恨みでも、模試を受けなければいけないことへの絶望でもない。それでは何なのか。無論、それは立花とのこじれてしまった関係だ。
数日前の夕刻。紫月さんと話し、俺の中で何かが変わっていた。一体何が変わったのか、今の俺には言語化できない。しかし、確かに俺の中で何かが変わった。そのことには、確信がある。
辺りを見ると、そこはすでに高校の玄関前であった。三年間による慣れは凄い。無意識のうちに、学校までの道を辿ることができてしまうとは。
そのまま校内へと入る。本来なら、このまま教室へと直行してしまっても問題はない。ただ、模試が開始されるまで、まだそれなりに時間がある。開始時間の都合で、普段使っている線では、ギリギリ間に合わず、一本前の電車に乗ってきたことで、中途半端な時間に着いてしまったのだ。いや、それはただの建前。自分の本来の気持ちを隠すための言い訳なのだ。俺は校舎を回りたかったのかもしれない。彼女を、探したかったのかもしれない。
冷たい廊下を、ゆっくりと進む。登校している生徒はまだ少なく、登校していたとしても模試に向け勉強しているのか、校内は静かで、人気も少ない。上履きと床が当たったときに発せられる足音だけが、時間を刻む秒針の音と同じテンポで鳴り響く。
彼女たちと時間をともにしてきた図書室の前で、俺は歩みを止める。どこかを目的地としていたわけではない。しかし、彼女たちと多くの時間をともにしたここで、まるで必然かのように、俺は動くことができなくなった。
ぽつりと佇みながら、俺は彼女の名前を口に出す。
「立花さん……?」
図書室の中心。そこには木製で丸型の椅子に座り込む彼女の、立花瑞希の姿がある。
彼女は浮かない表情で、今にも雨が降りそうな灰色の空を見上げている。綺麗な姿勢で、脚の上に重ねられた手には、『セカイの憂鬱』という題と、ライトノベルのようなイラストが印刷された、一冊の小説が握られている。
彼女のもとへ向かい、何か声をかけなければならない。そんなことは分かっている。分かってはいるのだ。けれど、身体がそれを拒んでいるのか、はたまた緊張しているのか、足が彼女の方へ向かってくれない。心なしか動機が速くなっているように感じる。
それでも、俺は彼女に話さなければならないことがあるのだ。俺は自分の気持ちを確かめるように、右手に力を入れ、握りしめる。ゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。心臓の鼓動が整っていくのが分かる。
迷っていては何も変わらない。世界は変わらない。そう言い聞かせ、俺は一歩、彼女の方へと踏み出す。
「立花さん」
彼女の数歩手前、歩みを止めて声をかける。すると、彼女は手元の小説を身体の隣に置き、目線をこちらへと移しながら、立ち上がる。彼女を正面からまじまじと見るのは、一体いつぶりだろう。直視するのを避け、視線を逸らす。そんな俺を、彼女は大きく、くりくりとした瞳で直視している。
「久しぶりだね。山上くん」
彼女は普段の調子で話しているつもりなのだろう。俺の呼び方も、口調も今までと何ら変わらない。しかし、その声の中には、俺の知らない冷たさのようなものがあるのが分かる。
「立花さん……この間はすみませんでした」
声が震えている。聞き取れないほど小さい。それでも、俺は何とか、彼女に自分の思いを告げる。何故なら、俺は彼女に謝らなければならないから。彼女が今までやってきたことを、自分の妄想を優先し、否定してしまったのだから。
「謝るということは、君は自分の非を認めるということかな?」
俺の非。俺は彼女に謝ったのだ。謝罪したのだ。ということは、非を認めるということはあながち間違ってはいないのだろう。事実俺は、彼女が今までやってきた「世界を肯定することで、アカシックレコードから接続者を解放する」という行為を否定してしまったことについて、罪悪感を覚えており、そのことに関して謝りたいとも思っているのだから。
けれど――。
「それとも、君はまだアカシックレコードの力を使いたい?」
黙っている俺に、彼女は別の質問を投げかける。
どうなのだろう。彼女の質問を咀嚼し、頭を回転させる。アカシックレコードの力を使いたい。俺はそう思っていたのだろう。彼女に言われ、初めてそのことに気付きた。
俺は、アカシックレコードの力を使いたかったのかもしれない。よく考えればそうだ。初めてアカシックレコードの存在を知った夜。あのとき俺は、半ば強制的にレコードの存在を否定する側へと回ることになったのだ。レコードを管理する立花の部下として、その存在について理解を示したから。だから今まで、こうして緑山の、紫月さんの、そして大志の幻想や理想、空想を否定してきた。
しかし、改めて考える。自分の妄想を具現化できる存在に、俺のような人間が憧れを抱かないなどということがあり得るだろうか。いや、ない。ずっと俺は非現実に憧れてきたのだ。だから映画をつくり、小説を書き、できるだけその存在に近づこうとしていた。アニメや漫画でしか見ない人間関係や、組織をつくろうともした。なのに、実際にその手段を得た人間がそれを使わない。そんなはずがないだろう。
矢野咲さんを守った理由。それは彼女のアイドルという夢を否定させないためなんかではない。俺は、ヒーローという夢への道を、非現実への道を否定したくなかったのだ。
「……俺は、非現実に憧れている。今も、まだ」
「そう」
彼女が小さく呟く。少しの間を空け、彼女は続ける。
「なら、いつまでもそうやって現実から目を逸らし続けていればいい! そう思っていつまでも、机上の空論にすがっていればいい!」
立花は、俺から一歩ばかり遠ざかり、右手を胸に当て、そう訴えかける。今まで、見たことのない彼女の姿が、そこにはあった。
その叫びを境に、長い沈黙が流れる。彼女は俺の方から視線を逸らし、図書室の床のある一点を見つめている。そんな彼女の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。彼女の背後にある大きな窓。そこから見える空の色が少しずつ青くなっていくのが見える。と同時に、淡い太陽の光がゆっくりと、それでいて着実に、俺たちを照らしていく。
そして、沈黙は彼女によって、あっさりと破られる。
「……昔ね、私はこの世界が嫌いだった。自分の思い通りにならない世界、進路、人間関係。考えるだけで、私はいっぱい、いっぱい。すぐ不安になって、泣きたくなって、苦しくなった」
そう話す彼女は、今度はどこか遠くを見ているかのようである。
「それでも、今はこの世界のことを愛している」
本当の意味で、彼女の言っていることが理解できない。この世界を愛する。そのことが、俺にはまだ違和感を覚えさせる。
「なんで……?」
理由を尋ねる。そうすれば分かる気がする。彼女と話せば、分かる。そんな気がする。
そして、そうしなければ、前に進むことなどできないのだと。心の中で、俺は俺にそう語る。
「……君に、会えたから」
太陽に照らされ、泣きながら、それでもほんのりとした笑みを浮かべ、彼女は言った。
「山上くんだけじゃない。美望とも、矢車くんともそう。そして、皆と分かり合えた。緑山くんと、美望と、毛利くんと、そして矢野咲さんと。いっぱい話して、いっぱいぶつかって。接続した子たちだけじゃない。和泉さんも、岩波くんや中和くんもそう。皆と出会って、そしてこの世界をどう捉え、どう生きて行くのがいいのか。どうすれば、皆と笑顔で過ごせるのか。皆と会えたことで、その答えにたどり着けるんじゃないかって、そう思った。それに」
一度話すのを止め、彼女はこちらに向き直る。
「皆と分かり合うことが、私にとっての幸せだった」
彼女は、涙を拭い、言葉を紡ぐ。
「確かに、大変かもしれない。この世界は思い通りにならないようにできているんだもん。でもね、人との関係だけは変えられる。自分の意志で。そうすると、必然的に世界は変わる。この世界が退屈でなくなる。非現実に頼らなくてもよくなる。強くなれる」
俺はどんな顔で彼女を見ているだろうか。きっと、困惑している表情を向けているだろう。それでも、彼女は止まらない。
「私だって、最初にこの仕事を与えられたときは、半信半疑だった。この仕事を与えてくれた人が、さっきの私と同じことを言っても信じられなかった。でも、今は違う。今は心から、人との対話が自分の見える世界を変える。そう、確信している」
彼女は、俺のためにこの世界を肯定してする。
そして、最後の一言を、彼女は告げる。
「山上くんは、どうなの? 君は何を望み、そしてそのために何をしたいの?」
俺に現実の可能性を示してくれた竜次。幻想に騙されることなく、考えを改め、今では俺を否定してくれるようになった紫月さん。そして、すっとこの世界を、本物の世界を信じ続け、俺をここに導いてくれた立花。俺が本心から今望むものは……。
「俺は……」
俺が本当に、この世界に臨むもの。やっと理解する。そうだ、こんなくそみたいな世界で、欲しいものがある。俺はそのことを確認するように、その名を口に出そうとする。
その瞬間だった。
怪物の叫び声のようなけたたましい轟音が、辺り一面に鳴り響いた。その音が発せられた方向は、立花の背後。窓の外からだ。立花から視線を外し、そちらへと視線を向ける。
「何だ……あれ……」
そこには、巨大な怪物がいる。体長五〇メートルはあるだろうか。全身を真っ黒でごつごつとした皮膚に覆い、ぎろりとした鋭い目と、何本も生えているいびつな牙がこちらを覗いている。まさに、特撮映画何かに出てくる怪物そのものであった。
「遅かった!」
窓の方を向き、そう叫ぶ立花に、俺は説明を求める。
「知っているんですか、あの怪物の正体を!」
すると、彼女はすんなりとヤツの正体を話しだす。
「あれは、アカシックレコードの暴走が生み出した……怪物! この世界が一瞬だけレコードに接続してしまったことで、不完全な妄想がこの世界に具現化されてしまった」
何を言っているのかイマイチ理解ができないのは毎度のことだ。しかし、今回に関しては今すぐに、この状況を理解しなければいけない。
そのとき、怪物が叫び、こちらへと視線を向けてくる。同時にヤツの口発せられたのは、真っ白なレーザーだった。一直線にこちらへ向かい、特別棟に被弾する。
直撃は免れたものの、校舎には当たってしまったらしい。物凄い騒音と、激しい振動が、俺の身体を揺らす。付近の棚からは本が飛び出し、辺りに散乱。衝撃波により、目の前にあったガラスは、パリンと大きな音を立て、一気に崩れ去る。幸い、破片は外側に飛び散り、俺や立花がいる方への被害は少ない。彼女にも怪我はないようである。
よろめきするはいるものの、何とか体勢を整え、両足で踏ん張る。レーザーは一瞬であったのにも関わらず、未だに揺れが残っている。
「大丈夫ですか。立花さん‼」
何とか踏ん張りながら、立花に問いかけつつ、彼女の方を見る。彼女は、近くの本棚に手を伸ばし、体勢を整えている。どうやら大丈夫らしい。俺の心配を払拭するように、彼女はこちらに向かって、首肯する。
その様子を確認し、俺は怪物の方へ視線を戻す。果たして、こちらに向かって光線を発射したのは偶然であろうか。恐らくそうではないだろう。立花が言っていたことから推測するに、ヤツはアカシックレコードの暴走によって生み出された、というかこちらの世界に強制的に上書きされた存在だ。ヤツが自分で考え、行動することができるのだとすると、狙いは俺や立花といった、こことレコードの中間にいる存在である可能性がある。
案の定、怪物はこちらへと進行し、校舎より数キロ手前の位置で、先ほどレーザーを放ったときと同様の姿勢で構えている。
さっきは距離があり見ることのできなかった、レーザー発射の準備が始まったのが見える。口元からボコボコと光を漏らしており、さらには全身から煙のような、自上記のような何かを絶え間なく放出している。
数キロ先と言っても、本当に目と鼻の先だ。この距離で、ヤツの攻撃をもろに食らえば、恐らくこの建物、そして俺たち自身も、焼き尽くされてしまうだろう。
考える。どうすればこの状況を脱却できるか。頭の中をフル回転させていると、脳内に誰かの歌声が響いてくる。その声はだんだんと大きく、激しく響いていく。その裏で、エレキギターの音が鳴っている。そして気付く。この歌声が、矢野咲さんのものであることに。
その音に呼応するように、ゆっくりと怪物の動きが止めていく。
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