第12話 それでも彼女は理想を求め続ける。

 流れる時間に対する感覚は、状況によって変わってくる。何かに没頭するほど集中しているときは、時の流れが速く感じ、暇なときは、逆に遅く感じる。文化祭二日目。学校全体としての盛り上がりは最高潮に達している。各クラス、出し物のレベルに差はあれど、集客した人数に、大幅な起伏は見られない。青春を謳歌する者たちの目には、段ボールでできた迷路はレンガ製の大迷宮に見え、仕組みと苦労をたやすく察せてしまうお化け屋敷は本物の心霊館に映るのであろう。その非現実から得ることのできる刺激は、彼らの体感時間を簡単に短くてしまう。


 そしてここにもう二人ほど、それとは異なる理由で感じる時間の流れの速さを歪まされた人間がいる。


「もうすぐ、文化祭も終わっちゃうね」


 夕方。時刻にして三時過ぎといったところだろうか。本校舎二階東。うちの高校では、三階と四階が生徒らの教室となっており、一階と二階には化学実験室や生物実験室、会議室や保健室といった特別教室が置かれている。その中でもより一層、二階東側の人気は少ない。最東端にある多目的室は、何らかの補習でもなければ使われることのない辺鄙な場所だ。それに加え、現在は文化祭中。誰一人居ないと言っても過言ではない。


 夕日に染められた廊下で、立花は話を続ける。


「でも、多分何事もなく終わることはないよね」


 緑山のときにされた話を思い出す。アカシックレコードに接続すると、接続者による操作が現実世界に上書きされるまでの期限が設定される。紫月の場合、それが今日の夜。それまでに何かしら反応がある。そう、立花は考えているのだろう。


「どうしますか? 紫月さんの姿を捉えていた方がいいと思いますけど」

「そうだね。まずは美望を探そう。私は英語科の方に行ってみるから、山上くんは普通科の方をお願い」


「うっす」


 俺がそう返すと、立花は近くの階段を駆け上がろうとする。その瞬間、風が吹くでも、雨が降り始めるでもなく、何もないまま辺りの気温が急降下するのを感じる。


「何だ……今の……」


 思ったことを口にしてしまう。すると、先ほど振り返りこちらに背を向けていた立花が、再びこちらに視線を戻す。


「山上くんも感じた?」


 問いかける彼女に対し、俺は首肯する。


「山上くん、なんか静かじゃない?」


 立花から言葉をもらい、ゆっくりと目を閉じ、耳を澄ませる。確かに静かだ。先ほどまで校舎の端であるここにまで、生徒の喧騒が聞こえてきていた。それが今は、話し声どころか足音一つ聞こえない。


「もしかして?」


 つい立花に頼ってしまう。


「始まったのかも」

「でも待ってください。人が消えるという現象は緑山特有のものだったのでは?」


 二か月前に人が消えるという現象が起こったのは、緑山がそのように設定したからだ。今までの傾向からして、彼女にそのような操作はできないはずだ。


「たぶん、美望が人を操るという力で、私たち以外の人々の動きを止めているんじゃないかな。理由までは分からないけど」


 言いながら彼女は首を傾げる。


「理由か」


 なんとなく、俺には紫月美望の考えが分かる。


「……まだ期待しているんですよ。自分の行動で世界を変えられる、自分の言葉で人の心を変えられるって。だから、そのための時間が欲しいんだと思います。青春ラブコメを完成させるための時間が」

「やっぱりすごいね、君は」


 立花はぽつりと呟く。


「立花さん。紫月さんが一人で居そうなところに思い当たるところは?」

「図書室かな……行ってみよう」

「うっす」


 覚悟。その二文字でしか言い表すことのできないような瞳を向け、彼女は立っている。そのまっすぐで、強くてかっこいい姿が、俺に昨日の記憶を思い出させる。


 紫月さんがいなくなった会議室で、俺は彼女に尋ねた。「あなたがアカシックレコードと人の繋がりを断ち切るために、奮闘する理由は何か」と。すると彼女は答えた。「世界を守るため」と。詳しい説明を求めると、彼女は次のように続けた。「レコードの操作によって世界を自分の思い通りに変えられる。そう自覚してしまった人は自身の負の感情を気付かずに世界へ放ってしまう。その結果、それが人から人へと伝染し、この世界は身勝手な願望と、醜い欲望だけになってしまう」と。そしてこうも続けた。「そうなると、世界は人々の感情に耐えきれず、最終的に崩壊してしまう」と。それを事前に防ぐため、彼女はアカシックレコードと人を切り離す。それが彼女の、いや、俺たちの仕事だという。


 正直、今まで彼女から聞かされたどの話よりも抽象的で、実感の湧きにくいものだと思った。それでも、昨日の彼女の話を疑おうなどという考えは一切起きなかった。


「着いたね」


 図書室前。ガラスでできた扉から中の様子が覗える。しかし、大量に並んだ本棚に阻まれ、紫月がいるかまでは確認できない。だからと言って、ここで待っていても何かが変わるわけじゃない。何事も、無理に変わる必要はない。変わらなければいけないわけでもない。ただ、変わろうとしなければ、世界は変わらない。


「開けるよ」


 言いながら、立花はゆっくりドアの取っ手に手をかける。彼女は緊張しているのか、やけにゆっくりだ。


「ああ、行くぞ」

 そんな彼女に俺は声をかける。そんなことでしか、彼女の背中を押すことはできない。それでも、それが何かのきっかけになると信じて。


  ◆  ◆  ◆


 いくつもの本棚を横切り進んだ先。そこには、一面ガラスでつくられた壁と、背の低い本棚で囲まれたちょっとした空間がある。その中心、真っ赤に染まった空を見つめ、こちらに背を向けるかたちで彼女はいた。


「来てくれると思ったよ」


 紫月はぽつりと呟く。しかし、彼女の表情は確認できない。確認できたところで、彼女が何を思い、何を考えているかは想像もつかないのだろうが。


「和也くんは、小説のような世界を手に入れることはできると思う?」


 彼女の問いが、月夜の記憶を蘇えらせる。


 いいだろう。彼女がその問いで始めるというのであれば、俺はそのステージで挑むだけだ。彼女の理想の破壊に。立花が用いた現実の肯定という方法では、それはできない。紫月美望の中に、あと戻りという選択肢はないのだから。ならば、俺がとる方法は一つ。彼女が理想とする非現実。それを真っ向から否定してやればいい。


 深々と呼吸し、心臓を落ち着かせる。


「答えは否だ。小説は人がつくった理想郷に過ぎない。人間がつくれないからこそ、文章の中に書き起こされるんです」


 ここまでは、彼女の想定し得る回答であろう。当の本人も体勢を変えることなく、ずっと空ばかり見つめている。


「じゃあ、和也くんはどうやって世界を変える?」


 世界を変えるか。紫月の発言には俺が彼女と同様に青春を、ラブコメを、理想を求めているという前提がある。それは俺に対して確認のない身勝手な前提だ。しかし、だからと言ってそれは否定できない。何故なら、その通りだから。俺も彼女と同じだ。何一つ壁のない人との関係。そんな机上の空論をずっとずっと夢見ているのだ。


「それとも、あなたはそれが欲しくないの?」


 返答しない俺の様子を見て、彼女はそのように続ける。


「あなただって、青春を求めているんじゃないの?」


 声を張りながら、彼女はこちらを振り向く。紫月の瞳には、大粒の涙が溜まっている。そんな、今でも泣き出しそうな表情を見たからか、俺の左に立つ立花が初めて口を開く。


「……美望……」


 ただ、そのあとに言葉は続かない。立花に、俺や彼女の気持ちは理解できないのだ。だからこそ、ここでは俺がやらなければならないのだ。そのことを今一度、自分自身の中で明確にする。


「……私は、本物が欲しいよ」


 紫月の私欲にまみれた希望が、痛いほど胸に伝わってくる。


「俺だって……欲しいですよ」

「だったら‼」


 俺の発言に食いつき、紫月は叫ぶ。でも。


「だったら何だ。だったら世界を変えるか。自分に都合のいいように、自分の願望を叶えるために、自分の欲望を満たすために、自分勝手に世界を変えるんですか」


 彼女は両手を胸の前で握る。これ以上言わないでくれと、無言で訴える。


「それこそ、それこそ偽りの関係じゃないですか‼ あなたの言う通り、俺たちがいくら足がいたところで、小説みたいな関係はつくれない。俺だって何度も打ちひしがれてきたんだ‼ 何度も何度も何度も‼ だけど、だからこそ‼ そんな表面だけ取り繕った偽物なんて、要らないんだよっ‼」


 俺の声が、図書室中に響き渡る。


 それと同時に、辺りは真っ白な光で包まれた。


  ◆  ◆  ◆


 気が付くと、俺は群衆の中にいた。本校の全生徒が、降りしきる霧雨など気にも留めず、ある一点を見つめている。その方向へと視線を向けると、そこには簡素なつくりの朝礼に立つ和泉さんの姿があった。どうやら後夜祭中らしい。


「最後に、皆さん文化祭は楽しかったですかー?」


 スピーカーから流れる彼女の言葉に反応し、周囲の人間は声を張り上げる。そんな騒音の中、誰かが俺の右肩をポンと叩いた。紫月さんである。


 彼女は俺が振り向くと、周りに聞こえぬよう小さく呟いた。


「私は、まだまだ諦めない。……でも、今は二人と一緒がいいな」


 そう言う少女の顔には、小さな笑みが浮かんでいる。


「これからも青春を、楽しんでいきましょう!」


 そんな和泉さんの一言で、会場はより一層ぶちあがる。


 ふと空を見上げると、天気雨を降らせる夕暮れの中に、うっすらと美しい虹がかかっていた。

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