第11話 やはり小説は事実より奇なり。
午後五時過ぎ。文化祭は一日目を終了し、生徒らは盛り上がりと、二日目への期待を残したまま学校をあとにしていく。人気のなくなった校内は、夕日を隠している雲の影にのまれ、青っぽく、それでいて灰色っぽく染まっている。
そんな中、俺は一人会議室までの廊下を歩いていた。壁に設置された窓は風により揺らされ、けたたましい音を鳴らしている。その何気ない物音と、帰路に着く同級生らの喧騒が、俺の中に不安と苛立ちを植え付ける。
立花と別れたあと、「放課後、会議室前の廊下に来てもらえるかな」というメッセージが彼女から届いた。なんとなく、彼女が今からすることには当たりが付いている。紫月美望の、アカシックレコードからの解放。それが彼女の望みであり、目的である。ならば、これから二か月前と同様のぶつかり合いが、再び起こるということだ。
いや、正確には「俺たち」ではない。立花からの連絡には「会議室前の廊下」と書かれていた。普通、話し合いをするならば会議室の中を選ぶはずだ。仮に彼女が、廊下での対話を計画していたとしよう。だとしても、その場合は「二階の廊下」と記載するのはないだろうか。彼女が、敢えて「会議室前の廊下」と表記するからにはそこには何かしらの意味があるはずなのだ。そしてそれは恐らく、俺という人間の介入を望まないということを表しているだろう。つまり、立花は紫月との話し合いを会議室内で行い、俺にその様子を廊下で見ていろと、そう言いたいのではないだろうか。そして、わざわざ俺を呼ぶのは彼女なりのけじめの表明、というか自分たちのやるべきことの見せつけか何かであろう。いずれにせよ、彼女は俺とともに、紫月美望との対話を行う気はないのだろう。
よくよく考えれば、こんな現象が起こることは容易に想像が付いたのだ。まず、俺と彼女は友達ではない。少なくとも、お互いを何の躊躇いもなしに信頼できる関係ではない。俺と彼女が出会ったのはつい二か月ほど前。それも決して自発的なものではないのだ。自然と促されたまたま協力するようになった関係だ。俺がこの件に首を突っ込んでいることさえ、発端は単なる興味本位、それと非日常への憧れだ。そんな俺が、立花の仕事への覚悟を見たところで、何も響かない。さらに言えば、彼女は俺に、アカシックレコードとその接続者の切り離し、という仕事に対する目的も、このことに携わっている理由も話していないのだ。そんな人間を信頼することは、容易ではない。
薄暗い校舎と、不意に振り出した霧雨が俺の心をより深くまで沈めていく。
そうこうしているうちに、現在地は会議室前。部屋からは淡い蛍光灯の白い光が漏れている。この部屋の扉は、部室棟と違い、すりガラスの代わりに、反対側が透ける通常のガラスが設置されている。身を潜めつつ、音をたてぬよう慎重に室内を覗き見る。
「美望、今少しいいかな」
案の定、そこには立花と紫月の姿があった。紫月は窓際に置かれた机への方を向き、資料の整理をしている。恐らく、立花は彼女を仕事の手伝いという名目か何かで、ここに呼びだしたのだろう。昨日の文芸部の仕事の件で、紫月は立花に借りがあるともとれる。もっとも、紫月が立花について回る理由は、そのような貸し借りの問題ではないのだろうが。
立花に話しかけられ、紫月は廊下側へと視線を向ける。と同時に俺ももう少し身を屈めた。
「どうしたの?」
紫月が尋ねる。すると、立花は一度呼吸を整えてから、ゆっくりと口を開く。
「……今回のアカシックレコードの接続者は、美望あなた自身。……違う?」
彼女の声は柔らかくはあるものの、その中にある確固たる意思を感じさせる。
「どうして、そう思うの?」
そんな立花に、紫月は問いかける。しかし、それでもあいつは怯まない。
「ごめんね。私、昨日美望がトイレに行っている間に、美望のもう一つの小説を見ちゃったの」
その一言が、紫月の表情をこわばらせる。
「『やがて君は彼女に恋をする。』には、あなたの書いた計画があった。山上くんと和泉さん。二人をくっつけるための計画。それも、あなたが和泉さんの身体を操るという方法を用いた」
紫月の身体は少しばかり震えているように見える。それでも立花は話を止めることはしない。
「あなたは、和泉さんの身体を操って、自分なりの青春をつくろうとした。そうでしょう?」
紫月は何も応えない。
「美望……あなたはいつも小説でこう書くよね。この世界に何の隔たりもない関係なんてないって。でも、私はそうは思わないっ」
立花の訴えが、会議室中に響き渡る。
「しっかりと相手を尊重して、しっかりと相手のことを考えれば……きっと」
彼女は止まらない。彼女は話し続ける。彼女は、この世界を信じ続ける。
「そうすれば、こんな方法を取る必要なんかない。本当の世界でも美望の願いは叶えられる!」
ただ、それは虚しく空を切る。紫月のもとに届かないまま、ゆっくりとフェードアウトする。
「……瑞希ちゃんに……瑞希ちゃんに……私の気持ちは分からないよ‼」
紫月美望は、小さくも力強い声言葉を返す。
「私は、何回も何回も挑戦した。私たちのいるこの世界は、私たち自身の力で変えられる。ラブコメ小説に描かれる関係が、ここにもあるんだって、そう信じていたからっ」
「……美望……」
「……でも、そんなものはなかった」
俺は無意識に、紫月美望に共感してしまう。立花のやりたいことは分かる。この世界の肯定だ。緑山のときもそうだった。彼女はこの世界を肯定することで、アカシックレコードから接続者を解離させようとする。しかし、それで紫月は救えない。
立花の言う通り、時間をかければもしかした紫月や俺が望むような関係は、実現できるのかもしれない。長い時間をかければ、人は時間をともにした相手への想いが強くなるともいう。単純接触効果というやつだ。しかし、それも理想論だ。そうすれば手に入るなんていう確証はない。
それに、それに彼女はすでに諦めてしまったのだ。紫月美望が立花に向ける目は、俺が今まで何回もしてきたそれだ。俺だって何度も試して、何度も悩んだ。敬語を多用する理由も、ため口で話せば嫌われてしまう。図々しいと思われてしまう。そんな不安からくるものだ。でも、絶対に叶わない夢というものはある。もう、普通のやり方ではラブコメのような関係性はつくれないと、彼女は折り合いをつけて、だからこそ、アカシックレコードに頼ったのだ。
ゆえに、立花の肯定は意味を持たない。諦め逃げて否定することしかできなくなった人間に肯定は何も生まない。
「ごめんなさい……」
呟くと、紫月は足早にこちらの扉へと向かってくる。
俺は慌てて、階段の壁の影へと身を潜めた。
紫月が去ったのを確認し、再度室内を覗き込む。一人の少女は、床に座り込んでいる。
つい、彼女の気持ちを考えてしまう。そんなもの考えたところで解が出るわけでもないと、そう分かっていながら。立花瑞希と紫月美望の関係がどれほどまでに親しいもので、どれほどまでに深いものなのか、部外者である俺には、検討することすらままならない。しかし、少なくとも今までは、俺のようにアカシックレコードに関する仕事に不信感を抱かず、お互いを信じ合ってきたはずだ。そんな相手からの言葉は、いくら能天気な立花でも、そう簡単に受け止められるものではないだろう。
「立花‼」
何もせずに帰る。そんなことができれば、こんなにも人間関係に悩んだりしねぇよ。
声をかけながら、俺は会議室の扉を開く。
「……山上くん」
彼女はゆっくり俺の方を見上げる。むかつくほど綺麗な彼女の瞳には、大粒の涙が溜まっている。まさか、ここまで彼女が追い詰められていたとは。やはり人の感情なんて、俺の安っぽい推理で分かるものではない。そんな当たり前の事実を再度認識させられる。
「……なあ、立花さん。教えてくれ。何でこんなにも、アカシックレコードからの解放に固執する」
ゆっくりとしゃがみ、立花に視線を合わせる。
俺は何度も諦めた。この世界に、ラブコメはないと。でも、立花がそれを信じるのであれば。
「……立花さん……俺もまだ諦めたくないんだ……青春ラブコメってやつを」
すると、彼女は小さく微笑みながら、いじわる気に言う。
「山上くんがそこまで言うなら、付き合ってあげよう!」
彼女の声はいつものように、明るく綺麗で、強かった。
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